臨界
北側の排水路は、木村の言った通り、大人がようやく通れるほどの狭さだった。武藤が先に潜り、次いでコータが続く。冷たい水が足首まで浸かり、金属の錆と汚水の匂いが鼻を刺した。
「……ここを抜ければ、施設の裏手に出る」武藤が小声で言った。「孝たちの部屋がある区画まで、あと少しだ」
コータは何も言わず、猟銃を背に括り直した。その表情には、緊張よりも、むしろ奇妙な静けさがあった。
*
同じ頃、施設の中では、孝と沙耶が炊事場の隅で顔を寄せ合っていた。
「昨夜、国東に呼び出されたことは、もう施設中の噂になってる」沙耶が囁いた。「私たちへの視線が、明らかに変わった」
「疑われてるってことか」
「疑われてる、というより……国東の部下たちが、私たちを見せしめの次の候補として見てる、って感じ」
孝は奥歯を噛んだ。ここに留まり続けることのリスクが、日に日に増している。
その時、炊事場の入り口に、あの自衛隊崩れの若い男が姿を見せた。周囲を素早く確認してから、沙耶に近づく。
「……状況が変わった」男は低く言った。「今夜、動く。国東の側近の一人が、備蓄燃料を横流ししてるって証拠を摑んだ奴がいる。それをネタに、俺たちの一部が、警察官僚側と合流する」
「クーデターか」孝が思わず声を上げかけ、慌てて抑えた。
「クーデターってほど、大層なもんじゃない。ただの……主人の乗り換えだ」男は自嘲気味に言った。「だが、国東が黙って見過ごすはずがない。今夜、確実に何かが起きる。お前らも、身の振り方を決めておけ」
男はそれだけ言うと、足早に立ち去った。沙耶は孝と目を見合わせた。
「……今夜」
「ああ」
*
日が沈み始めた頃、孝は割り当てられた部屋に戻る途中、窓の外に目をやった。監視塔のシルエットが、いつもより落ち着きなく動いているように見えた。人の配置が、明らかにいつもと違う。
部屋に戻ると、壁の隙間から小さく音がした。孝が身構えると、外壁の通気口から、聞き覚えのある声が響いた。
「……孝、俺だ」
「武藤さん!?」
「静かに」武藤の声は、僅かに息を切らしていた。「コータと一緒に来てる。排水路を通って、裏手まで来た。……お前ら、今夜のうちに出られるか」
孝は沙耶と顔を見合わせた。
「今夜、施設内で何か起きる。自衛隊崩れの一部が、警察官僚側に合流するらしい」
通気口の向こうで、武藤が小さく息を呑む気配がした。
「……最悪のタイミングだな。だが、好機でもある。混乱に乗じて、お前らを連れ出す」
「母さんは」
「倉庫に残してきた。りかと瑞希が見てる。今は、お前らを優先する」
孝は頷いた。決断は、既に固まっていた。
「わかった。俺たちも、抜け出す準備をする」
*
その夜、施設内の空気は、明らかに張り詰めていた。孝が廊下を移動していると、いつもより多くの武装した男たちが、慌ただしく行き来しているのが見えた。
炊事場の脇、木の陰から風間が姿を見せた。
「……小室くん。今夜、逃げる準備はできてるか」
「はい。あなたも一緒に来てください」
風間は首を振った。
「私は、まだここに残る。同僚たちを、見捨てるわけにはいかない。だが……麗を頼む。そして、これを」
風間は小さな鍵を孝の手に握らせた。
「武器庫の予備の鍵だ。もし脱出の際に、武装が必要になったら使え。……いつか、必ず、麗に会いに行く。そう伝えてくれ」
孝は鍵を握りしめながら、頷いた。言葉を交わす時間は、もうなかった。
*
その瞬間、施設の奥から、乾いた銃声が響いた。一発、二発、そして連続して。悲鳴と怒声が入り混じり、施設全体が一気に喧騒に包まれた。
「始まった!」
沙耶が孝の腕を摑んだ。二人は炊事場を飛び出し、裏手へと走った。廊下では、武装した男たちが入り乱れ、誰が味方で誰が敵かも判然としない混乱が広がっていた。
「国東を捕らえろ!」
「動くな、裏切り者どもが!」
怒号が交錯する中、孝と沙耶は物陰を選びながら、裏手の通気口を目指した。
*
通気口の外では、武藤とコータが待っていた。
「孝! こっちだ!」
孝と沙耶が身をよじって外に出ると、武藤が素早く二人を物陰に引き込んだ。
「施設内、完全にカオスだ」武藤が周囲を警戒しながら言った。「今のうちに、離脱する」
その時、施設の中央付近で、ひときわ大きな爆発音が響いた。夜空に、赤い炎が立ち上る。
「……燃料庫か」コータが低く呟いた。「誰かが、火をつけたのか、それとも……」
孝は炎に照らされる施設のシルエットを見つめながら、風間の言葉を思い出していた。「そう長くは持たない」――その予言は、思っていたよりも早く、そして激しい形で、現実になろうとしていた。
――恐怖で築かれた王国の崩壊は、静かにではなく、常に劇的に訪れる。それは、抑え込まれた怨嗟が、限界を超えて噴出する瞬間だからである。孝たちは今、その崩壊の炎を背に、新たな夜へと駆け出そうとしていた。
「行くぞ! 倉庫に戻って、母さんたちと合流する!」
孝の号令に、全員が頷いた。燃え上がる拘置所を背に、四人は闇の中を走り出した。まだ、この王




