軋む王国
「……昨夜、施設の方から銃声が聞こえた。二発、間隔を置いて」
りかがびくりと肩を震わせた。瑞希がその手を握る。
「発砲……?」瑞希が武藤を見上げた。「孝くんたち、大丈夫なんですか」
「わからん。だが、狙い撃ちの音じゃなかった。警告か、あるいは……見せしめの類だろう」
コータは黙って猟銃の手入れを続けていた。だが、その手は普段より僅かに速く動いていた。
「……行った方がいいんじゃないか」
コータが低く言った。武藤が首を振る。
「今、俺たちが動けば、孝たちの立場を危うくする。約束は約束だ。中の連中に不審がられないよう、俺たちは俺たちで、外から睨みを利かせておく」
「睨みって、何ができるんだよ、この人数で」
「できることは少ない。でも、ゼロじゃない」武藤はそう言うと、木村の方を見た。「お前、まだ他に知ってる抜け道はあるか」
木村は頷いた。
「一つだけ……北側の排水路が、たぶんまだ塞がれてないはずです。でも、狭くて、大人がやっと通れるくらいで」
「十分だ」
*
拘置所の中では、孝が朝の点呼に並びながら、周囲の異様な空気を感じ取っていた。いつもより人数が少ない。そして、残っている者たちの顔に、隠しきれない怯えがあった。
「……昨日の夜、何かあったんですか」
隣に並んだ木村の知人という青年に、孝は小声で尋ねた。青年は一瞬躊躇ってから、囁くように答えた。
「配給の割り当てに文句を言った人が……国東さんの部下に、見せしめとして撃たれたって」
「殺されたのか」
「いえ……足を。歩けなくなる程度に。……でも、それで十分、みんな黙りましたよ」
孝は奥歯を噛みしめた。恐怖による支配。それが今、目の前で新たな段階に進もうとしていた。
*
昼、炊事場で沙耶が水を運んでいると、背後から声をかけられた。振り返ると、昨夜自衛隊の制服を着た若い男が立っていた。歳は二十代半ばだろうか、目つきに疲労と、それ以上の何かが滲んでいる。
「……お前、新入りだな」
「はい」
「風間警部補と、話してるところを見た」
沙耶の心臓が跳ねた。だが顔には出さなかった。
「業務の指示を受けただけです」
男はしばらく沙耶を観察するように見つめてから、声を潜めた。
「……俺たちの中にも、この施設のやり方に嫌気が差してる奴がいる。国東は、俺たちを〝番犬〟としてしか見てない。忠誠なんざ求められてもいない。ただ、使い捨ての武力としてな」
「なぜ、私にそれを?」
「風間警部補と近いなら、伝えておきたかった。……もし本当に何かが起きたら、俺たちの一部は、国東側にはつかない。それだけだ」
男はそれだけ言うと、何事もなかったかのように立ち去った。沙耶はその背中を見送りながら、頭の中で情報を組み立て直した。
(沙耶のモノローグ)
――寝返りの芽は、もう噂じゃない。現実になりかけてる。問題は、それがいつ、どんな形で爆発するか。
*
その夜、孝と沙耶は狭い部屋で顔を合わせるなり、互いが得た情報を交換した。
「見せしめの発砲があった。配給に文句を言った人が、撃たれたらしい」
「こっちも、自衛隊崩れの一部が、はっきりと『国東にはつかない』って態度を見せ始めてる」沙耶が言った。「風間さんの言ってた通りだ。この王国、もう長くない」
「……問題は、崩れる時に、俺たちがどこにいるか、だな」孝は武藤の言葉を思い出しながら呟いた。
その時、部屋の外の廊下から、慌ただしい足音が響いた。二人は身を固くした。ドアが乱暴に叩かれる。
「小室! 出てこい、国東様がお呼びだ!」
孝と沙耶は目を見合わせた。呼び出しの理由が、良いものであるはずがなかった。
*
連れて行かれた先は、かつて所長室だったという部屋だった。国東が、机の向こうで脚を組んで座っている。その表情から、いつもの慇懃さが消えていた。
「……小室くん、だったね。単刀直入に聞こう。お前、風間と何を話した」
孝は表情を変えなかった。
「業務の指示を受けただけです」
「ほう」国東は薄く笑った。「では、なぜ風間は、この二日、やけに落ち着かない様子なんだろうね」
孝は答えなかった。国東は机を指先で叩きながら、続けた。
「私はね、小室くん。この場所の秩序を、誰よりも大切にしている。だからこそ、余計な波風は好まない。……もし、お前たちが何か企んでいるなら、今のうちに言っておいた方がいい。外にいる仲間たちの安全も、私次第だということを、忘れないように」
その言葉は、明確な脅しだった。孝は拳を握りしめながらも、静かに答えた。
「何も企んでません。ただ、生き延びたいだけです」
国東はしばらく孝を見つめてから、ふっと笑みを浮かべた。
「……そうか。ならいい。だが、覚えておきなさい。この施設で、私に逆らって生き延びた者は、一人もいない」
*
部屋を出た後、孝と沙耶は無言で廊下を歩いた。ようやく人気のない場所に着いた時、沙耶が小さく息を吐いた。
「……こっちの動きに、感づかれてる」
「ああ」孝は暗い声で答えた。「時間の問題かもしれない」
「孝」沙耶が立ち止まり、孝を見つめた。「もし本当に何かが起きたら……ここから、脱出することも考えないといけない」
孝は頷いた。頭の中には、既に、この歪んだ王国が崩れ落ちる光景が、朧げに浮かび始めていた。
――恐怖によって支えられた秩序は、疑心暗鬼という名の亀裂を、内側から静かに広げていく。国東はまだ気づいていなかった。彼が踏みにじってきた者たちの沈黙が、既に牙を研ぎ始めていたことに。そして、その牙が向けられる先は、彼自身であるかもしれないということに。
雨の匂いを含んだ風が、施設の壁を撫でるように吹き抜けていった。冬の気配は、もうすぐそこまで迫っていた。




