炎の向こうへ(章最終)
倉庫まで駆け戻る道のりは、これまでのどんな行軍よりも長く感じられた。背後の空を赤く染める炎、遠く響く怒号と銃声。孝は肺が痛むのも構わず、ただ足を動かし続けた。
「もうすぐだ!」
武藤の声に、倉庫のシャッターが見えてきた。りかが真っ先に飛び出してきて、孝の姿を確認するなり、へたり込むように地面に膝をついた。
「……よかった、本当に……!」
瑞希が希里香を支えながら、心配そうにこちらを見つめている。希里香は孝の顔を見た瞬間、初めてこの数日で見せた、はっきりとした感情を浮かべた。
「孝……!」
「母さん、大丈夫、無事だ」
短いやり取りの中にも、安堵が滲んだ。だが、休んでいる時間はなかった。
「積み込め! すぐに出発する!」武藤が怒鳴った。「あの炎、いつこっちに燃え広がるかわからん。それに――」
言葉を切った武藤の視線の先、土手の向こうに、複数の光――ヘッドライトらしきものが揺れているのが見えた。
「……追手か」
「かもしれない。国東の残党か、あるいは混乱に乗じた奴らか。とにかく、ここにはもういられない」
*
車列は闇の中を走り出した。孝は助手席で、燃え上がる拘置所を振り返った。赤い光が、夜空を焦がすように広がっている。あの中に、まだ風間がいる。麗の父親が。
「……あの人、無事だといいけど」
沙耶が、孝の視線の先を追いながら呟いた。
「風間さんは、鍵を渡してくれた」孝はポケットの中の鍵を握りしめた。「武器庫の、予備の鍵……。麗に、必ず会いに行くと伝えてくれ、って」
「まだ、渡せてないね。麗には」
孝は頷いた。この重い約束を、いつ、どんな言葉で伝えればいいのか、まだわからなかった。
*
コータは荷台で、猟銃を膝に乗せたまま、燃え上がる施設をじっと見つめていた。その目には、怒りでも悲しみでもなく、ただ乾いた観察だけがあった。
(コータのモノローグ)
――あの中で、何人死んだんだろうな。……国東は? 風間さんは? わからねえ。わからねえけど……不思議と、何も感じない自分がいる。
その静けさに、自分自身、微かな恐怖を覚えた。だが、それを口にする言葉を、コータはまだ持っていなかった。
*
夜明け前、車列は施設から十分な距離を取った河川の上流で、ようやく停車した。エンジンを切ると、静寂が痛いほどに耳を打った。
「……ここまで来れば、当面は安全だろう」武藤が周囲を確認しながら言った。
孝は車を降り、まだ夜空に薄く残る、遠くの赤い光を見つめた。拘置所――麗の父親がいた場所、そして自分たちが束の間、身を寄せた歪んだ王国。それが今、音もなく崩れ落ちていく。
「……結局、あそこも、モールの外の連中と同じだったな」武藤が低く言った。「恐怖で人を縛る場所は、いつか必ず、内側から崩れる」
「風間さんは、そうならない側の人だと思ってた」孝が呟いた。
「そうだったのかもしれん。だが、一人の良心じゃ、腐った組織全体を救えなかった、ってことだ」
その言葉は重く、孝の胸に沈んだ。
*
沙耶は地図を広げ、次の目的地を探していた。だが、その表情には、これまでにない迷いが浮かんでいた。
「……次、どこに向かえばいいと思う?」
孝の問いに、沙耶はすぐには答えなかった。
「わからない」珍しく、彼女は正直にそう言った。「東拘置所は、あてにできなくなった。他の生存者拠点があるかどうかも、確証はない」
「それでも、進むしかない」
「うん」沙耶は頷いた。「でも、今度は、誰かが作った〝秩序〟に頼るんじゃなくて……」
言葉を切った沙耶の視線が、孝と交わった。同じ考えが、二人の間に流れているのがわかった。
(孝のモノローグ)
――大人たちの作った秩序は、二度、俺たちを裏切りかけた。近隣コミュニティも、あの拘置所も。……次は、俺たち自身で、拠り所を作らなきゃいけないのかもしれない。
その考えは、まだ漠然としていた。だが、確かな萌芽として、孝の中に根を張り始めていた。
*
朝日が昇り始めた頃、一行は再び車列を組み、河川沿いの道を進み始めた。誰も、多くを語らなかった。だが、その沈黙は、これまでの絶望的なものとは、どこか違う質感を帯びていた。
コータが、ふと荷台から前方を見つめながら呟いた。
「……次は、どこに行くにしても」
全員の視線が集まる。
「今度は、俺たちのやり方で行く。誰かの機嫌を伺うんじゃなくて」
その言葉に、孝は小さく頷いた。まだ具体的な形は見えない。だが、確かに何かが変わり始めていた。
――彼らは、二つの「秩序」の崩壊を目撃した。一つは恐怖に狂った隣人たちの共同体、もう一つは恐怖政治に蝕まれた擬似国家。そのいずれもが、大人たちが作り上げ、そして大人たち自身の手で崩れ去ったものだった。
そして今、彼らの中に、静かな、しかし確かな変化が芽生えようとしていた。誰かに守られることを待つのではなく、自分たちの手で、生き延びるための道を切り拓くという覚悟が。
まだ、その道の果てに何があるのかは、誰にもわからない。だが、朝日を浴びながら進む車列の中に、もはや、ただ流されるだけの少年少女の姿はなかった。




