鉄格子の向こう側
有刺鉄線の緩んだ隙間は、思っていたより狭かった。木村が先に身をよじって潜り抜け、その後を武藤、孝、コータの順に続いた。金属が擦れる音がやけに大きく響く気がして、孝は何度も背後を振り返った。
「静かに。ここから先は、巡回の間隔が読めません」
木村が声を潜めて言った。搬入口の内側は、資材倉庫らしき建物の裏手だった。コンクリートの匂いと、微かに漂う消毒液の匂いが混じり合っている。
武藤が先頭に立ち、壁伝いに進みながら小さく手信号を送った。孝も母親の教育で多少は覚えた身振りだったが、武藤の動きは明らかに実戦のそれだった。無駄がなく、そして速い。
*
倉庫の陰から中庭を覗くと、そこには孝が想像していたよりもずっと「日常的」な光景が広がっていた。焚き火を囲む人々、洗濯物を干す女性、子供を抱えた母親。まるで、外の世界の崩壊が嘘だったかのような、ささやかな生活の営み。
だがその光景の端々に、違和感があった。焚き火を囲む人々の表情には、覇気がない。誰も声高に話さない。まるで、監視されているかのように、皆一様に俯きがちだった。
「……あれが、国東さんの〝統治〟です」
木村が低く言った。
「食料は配給制。でも、量を決めるのは国東さんの取り巻き連中。文句を言えば、次の配給が減らされる。だから誰も、大きな声を出さないんです」
孝はその光景を見つめながら、拳を握りしめた。それは、かつて見た近隣コミュニティの歪みと、形は違えど同じ根を持つものだった。恐怖が支配する場所では、人はいつも、同じように委縮していく。
――秩序とは、時に恐怖の別名に過ぎない。壁の外にいるのが屍者の群れであるならば、壁の内側にいるのは、恐怖に飼い慣らされた、生きた人々であった。
*
「風間警部補の部屋は、あっちの管理棟です」
木村が指差した先、比較的しっかりとした造りの建物があった。だが、その入り口には見張りが二人立っている。装備は警棒のみ――国東派の人間らしい。
「あそこを突破するのは無理だ」武藤が首を振った。「他に方法は?」
木村はしばらく考え込んだ。
「……夜、警部補さんたちは、たまに中庭の井戸に水を汲みに来ます。見張りは一人だけつくことが多いです。そこなら、話せるかもしれません」
「賭けだな」
「賭けです」木村は頷いた。「でも、正面から交渉するよりは、まだ望みがあると思います」
孝は少し考え、決断した。
「よし。井戸で待つ」
*
夜半、月明かりの下、中庭の井戸に人影が現れた。制服姿の中年男性――疲労の色濃い顔だが、その目には未だ、警察官としての矜持らしきものが残っていた。見張りは一人、少し離れた場所で欠伸を噛み殺している。
孝は物陰から、木村に目配せをした。木村が小さく頷き、暗がりからそっと声をかけた。
「……風間さん」
男がぎくりと振り返る。武藤が素早く物陰から歩み出て、両手を見せながら言った。
「静かに。我々は敵じゃない。お嬢さんの、麗さんの仲間です」
風間の表情が、驚愕から一気に変わった。
「麗が……? 麗は無事なのか!」
声が大きくなりかけたのを、孝が慌てて手で制した。
「無事です。今は、近くの倉庫に。……でも、あなたに危険が及ぶかもしれないから、まだ会わせられません」
風間は肩を震わせた。安堵と、それを表に出せない緊張とが、彼の顔の中でせめぎ合っていた。
「……国東に、知られるとまずい。あの男は、外部との接触に神経を尖らせている」
「なぜです」孝は尋ねた。
風間は一瞬、見張りの方を窺ってから、声を絞るように言った。
「奴は、この施設を〝私物化〟している。表向きは秩序の維持を謳っているが、実際は、配給と労働力の管理を通じて、自分に逆らえない人間だけを生かしている。……我々警察の生き残りは、数が少ない。だから強く出られない」
「自衛隊崩れの連中は?」武藤が尋ねる。
「あれは、また別の厄介事だ」風間は苦々しく言った。「統率者を失った兵士たちだ。今は国東に雇われる形で治安維持を担っているが……いつ寝返るか、誰にもわからん。忠誠心じゃなく、配給で繋ぎ止められているだけの連中だからな」
孝は、頭の中でこの拘置所という場所の構造を整理した。恐怖で民衆を縛る国東。数が少なく身動きの取れない警察官僚。そして、忠誠なき武力を持つ自衛隊崩れ。三者が、危ういバランスの上に成り立っている――それはまさに、崩壊しかけた国家の縮図だった。
*
「……娘に、伝えてくれ」
風間が声を震わせながら言った。
「必ず、迎えに行く。今は迂闊に動けないが、必ず……」
「わかりました」孝は頷いた。「でも、あなたも危険は冒さないでください。麗も、それを望まないはずだ」
風間は唇を噛みしめ、何度も頷いた。それから、水桶を手に取りながら、囁くように付け加えた。
「……もう一つ、伝えておく。国東の統治は、そう長くは持たない。奴の下働きの中にも、不満は溜まっている。それに……この施設、燃料の備蓄がもう底を突きかけている。冬が来る前に、何かが起きる」
その言葉に、孝の背筋が冷えた。
*
倉庫への帰り道、四人は無言だった。ようやく口を開いたのは、コータだった。
「……あの中庭の連中、目に光がなかったな」
誰も、それに答えなかった。だが、皆が同じ光景を目に焼き付けていた。
武藤が低く呟いた。
「風間さんの言う通りなら、あの拘置所は長くはもたない。……問題は、崩れる時に、俺たちがどこにいるか、だ」
孝は夜空を見上げた。星の見えない、曇った夜だった。
――秩序の仮面を被った恐怖政治、忠誠なき武力、そして数の足りぬ良心。この危ういバランスは、燃料が尽きるよりも早く、崩れ去る運命にあった。孝たちはまだ知らない。自分たちがその崩壊の、最初の目撃者になることを。




