裏口の作法
倉庫に戻ってからの数時間、誰も多くを語らなかった。国東という男の丁重な物腰と、その裏に透けて見えた強欲さ。そして、あの無線越しに聞こえた怒声。まだ何も始まっていないのに、拘置所という場所はすでに、孝たちに重い予感を刻みつけていた。
「正面から入るのは、当分無理だな」
武藤が地図を睨みながら言った。倉庫の壁に背をもたせかけ、煙草の代わりに乾パンを噛んでいる。配給の余裕はもうなかった。
「じゃあ、どうする」沙耶が地図を覗き込む。「別の入り口を探す?」
「刑務所ってのは、正面以外にも搬入口がある。物資搬入用のゲート、下水、あるいは職員用の通用口……問題は、どこも今は見張りが立ってるだろうってことだ」
孝は黙って聞いていた。頭の中では、あの監視塔の二種類の人影がまだちらついていた。刑務官と、装備の違う何か。
「武藤さん、あの黒い戦闘服の連中……あれは、警察の機動隊ですか?」
「いや」武藤は首を振った。「機動隊にしちゃ装備が古い。あれは多分、周辺の駐屯地から流れてきた自衛官崩れだ。組織立った命令系統が残ってるようには見えなかった」
「つまり、寄せ集め」
「そういうことだ。寄せ集めってのは一番怖い。統率が利かない分、末端が独自の判断で発砲する」
その言葉に、コータがぴくりと反応した。彼は倉庫の隅で、猟銃の点検を再開していた。指先は正確に、そして無感情に動いている。
*
昼過ぎ、見張りに立っていた瑞希が小さく声を上げた。
「……誰か来る」
全員が息を潜めた。倉庫の隙間から見えたのは、一人の少年だった。年の頃は孝たちと同じくらいか、少し下。薄汚れた作業服を着て、背中に小さなリュックを背負っている。明らかに、拘置所の「住人」らしき身なりだった。
孝が武器を構えかけるのを、武藤が手で制した。
「待て。あれは、逃げてきた側の顔だ」
少年は倉庫の前で立ち止まり、周囲を窺いながら、震える声で言った。
「……そこにいるの、わかってます。俺、味方です。中から、逃げてきました」
*
少年の名は、木村と名乗った。拘置所内で、国東の下働きをさせられていた民間人の一人だという。
「あそこ、外から見るのと中は全然違います」木村は水を一気に飲み干しながら言った。「国東さんは、表向きは施設の管理者ってことになってるけど……実際は、元々ここにいた刑務官の生き残りを集めて、勝手に王様みたいに振る舞ってるんです」
「警察官僚派ってのは?」沙耶が尋ねる。
「風間警部補たちのことですか? あの人たちは、外から避難してきた警察の人たちです。本当は、ここの実権は自分たちにあるはずだって思ってて……でも、数が少ないから、国東さんに強く出られないんです」
孝の心臓が跳ねた。
「風間警部補は、無事なのか」
木村は孝の勢いに戸惑いながらも頷いた。
「はい……たぶん、まだ。でも、国東さんに睨まれてて、自由には動けないみたいです。下手なことすれば、配給を止められるとか、そういう脅しがあるって噂で」
沙耶と孝が目を合わせた。麗には、まだ話せない。その判断が、正しかったのだと裏付けられた形だった。
「なんで、お前は逃げてきたんだ」武藤が鋭く尋ねる。
木村は俯いた。
「……国東さんの下で、見張りをさせられてました。でも、この間、配給を独り占めしようとした人が見せしめに外に放り出されるのを見て……次は自分かもしれないって、怖くなって」
その言葉に、噓の匂いはなかった。少なくとも孝には、そう感じられた。
*
「搬入口の場所、知ってるか」
孝の問いに、木村は頷いた。
「東側に、物資搬入用のゲートがあります。夜間は見張りが手薄になる時間があって……俺が中にいた時は、そこから何度か抜け出してました」
「案内してくれるか」
木村は一瞬、躊躇うように視線を泳がせた。それから、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……はい。でも、条件があります」
「条件?」
「俺も、そっちに入れてください。もう、あそこには戻りたくない」
孝は武藤と目を見合わせた。武藤は小さく頷いた。
「わかった。一緒に来い」
*
日が傾き始めた頃、倉庫の中でコータは黙々と弾薬を数え直していた。散弾五発、拳銃弾は十二発。心もとない数字だった。
「……足りねえな」
呟いた声に、沙耶が反応した。
「足りないなら、足りない分だけ、慎重にやるしかない」
「わかってるよ」
コータの返事は短かった。沙耶は少し離れた場所からその横顔を見つめた。モールを出てから、彼はまた少し変わった気がする。恐怖ではなく、ただ淡々と「次の戦闘」への準備をする姿。それは頼もしさであり、同時にどこか、危うさでもあった。
(沙耶のモノローグ)
――この子はきっと、これからもっと「使える」ようになる。でも、それは同時に、もっと「怖い」存在になるということでもある。
*
「東側のゲートまで、車では行けません。土手を歩いて回り込む必要があります」
木村の説明に、孝は頷いた。
「今夜、決行する。武藤さん、コータ、俺と一緒に来てくれ。沙耶は倉庫に残って、母さんたちを頼む」
「異議なし」武藤が短く答えた。
コータは何も言わず、猟銃を担ぎ直した。その目には、恐れではなく、ただ静かな覚悟だけがあった。
*
夜が完全に落ちた頃、四人――孝、武藤、コータ、そして案内役の木村――は、土手を這うようにして東側のゲートへと向かった。遠くに、拘置所の壁がまた黒々と聳え立っている。
木村が指差した先、確かに他より照明の乏しい一角があった。有刺鉄線の一部が、明らかに人為的に緩められている痕跡もある。
「あそこです。前に、俺が抜け出した場所」
孝は双眼鏡でその周辺を確認した。見張りの姿は――今は、見当たらない。
「……行くぞ」
短く告げると、四人は闇に紛れて、ゲートへと近づいていった。
――正面の扉が閉ざされた時、人はいつも裏口を探す。それは弱さではない。生き延びるための、最も原始的で、最も賢明な知恵である。だが、裏口には裏口の掟がある。そして、その掟を知らぬ者から、この世界は容赦なく淘汰していくのだった。




