開かずの門、開いた口
土手を越えた先に見えたコンクリートの壁は、朝靄の中でもなお、恐ろしく実体的だった。
有刺鉄線が幾重にも巻かれ、監視塔の輪郭が二つ、三つと数えられる。壁の下部には黒く煤けた跡があり、かつてここでも激しい攻防があったことを物語っていた。
孝は双眼鏡を下ろし、後部座席を振り返った。
「もうすぐだ。全員、武器は下ろすな。でも、構えるな」
矛盾した指示だったが、誰も聞き返さなかった。武藤だけが小さく頷いた。それが正解だと、経験が告げているのだろう。
*
車列が土手道を進むにつれ、最初に目に入ったのは、道端に転がる焼け焦げた軽トラックだった。その傍らに、白骨化しかけた遺体がいくつか。誰かが赤いスプレーで書いたらしい文字が、錆びた側面にかろうじて読み取れた。
「タスケテ」
誰も声を出さなかった。武藤が車を降り、屈み込んで遺体の損傷を確かめる。奴らに食われた痕なのか、それとも人の手によるものなのか――彼はそれを口にしなかった。ただ、孝と一瞬だけ目を合わせ、小さくかぶりを振った。
――この壁の前に立った者は、彼らが最初ではなかった。そして、最後でもないだろう。歴史とは、常にこうした無数の「その他大勢」の屍の上に築かれるものである。
*
正門に近づくと同時に、拡声器のノイズ混じりの声が響いた。
「止まれ! それ以上近づけば発砲する!」
複数のサーチライトが一斉に車列を照らし出す。孝は窓を開け、両手を見えるように挙げながら車を降りた。武藤も同様に、ゆっくりとした動作でそれに続く。
監視塔の上――そこに構えられているのは、警棒を持った制服姿の男と、もう一人、明らかに種類の違う得物を持つ人影だった。黒い戦闘服、そして自動小銃らしきシルエット。
(武藤、小声で)
「……見たか、孝。あの二人、装備が違う。片方は刑務官、片方は……たぶん、自衛隊崩れか、機動隊の生き残りだ」
孝は答えなかった。だが、その観察を頭の奥に刻みつけた。
*
正門の脇、面会窓口だったと思しき小さな鉄格子窓が開き、恰幅の良い中年の男が顔を出した。丁寧な物腰、しかしその目には有無を言わせぬ圧があった。
「これはこれは。ご苦労さまです。私、この施設の管理を任されております、国東と申します」
「小室孝です。……ここに、麗の――風間麗の父親がいると聞いて来ました」
国東の眉が微かに動いた。
「風間さん……ああ、風間警部補ですね。ええ、いらっしゃいますよ」
孝の胸に、安堵と緊張が同時に押し寄せた。父親が生きている。それは麗にとって、何よりの朗報のはずだった。だが国東の次の言葉が、その安堵に水を差した。
「ただ、面会は少々……いえ、今は難しいですな。立場上、色々とありまして」
「立場上?」
沙耶が車を降り、孝の隣に立った。国東の視線がすっと彼女に向く。
「ここは、いわば〝最後の国家〟でしてね」国東は笑みを崩さず言った。「国家である以上、税は必要です。皆さんの武器と、労働力としての登録――それが、入国税というものです」
沙耶は動じなかった。
「余剰人員を抱えているようには見えませんが。わざわざ労働力を欲しがる理由は?」
国東の笑みが一瞬、強張った。答えに詰まったのではない。何かを言いかけて、飲み込んだ――そんな一瞬だった。
「……それは、追い追い」
その時だった。国東の背後、施設の奥から怒声混じりの無線交信が漏れ聞こえた。
『――国東! 勝手に交渉を進めるな! こっちにも人選の権限が――』
国東の顔から、初めて余裕が消えた。彼は取り繕うように咳払いをすると、鉄格子窓を半分閉めながら言った。
「……少々、お待ちを。追ってご連絡します」
窓は完全に閉じられた。
*
土手へと後退しながら、武藤が低く呟いた。
「……内輪揉めだな。刑務官と、恐らく残留した警察官僚。塀の中で、二つの政府が争ってやがる」
「麗の親父さんは、どっちの側なんだ」
「わからん。だが、あの口ぶりだと……向こうにも、簡単には動けない事情があるらしいな」
孝は振り返り、もう一度壁を見上げた。監視塔の陰、遠くの方に、双眼鏡でこちらを窺う別の人影が見えた気がした。制服の色が、先ほどの国東とは違う。
*
倉庫へと戻る車内、コータが猟銃を膝に乗せたまま、ぽつりと言った。
「……あの壁の中、外より安全とは限らねえかもな」
誰も、それを否定できなかった。
沙耶だけが、地図を広げ直し、小さく呟いた。
「風間警部補、か……。孝、麗には、まだ言わない方がいいと思う」
「……なんでだよ。父親が生きてるんだぞ」
「生きてる。でも、自由に会えない。政治的な理由でね」沙耶は地図から顔を上げず言った。「中途半端な希望は、時に絶望より残酷だよ」
孝は何も言い返せなかった。
――小室たちは知る由もなかった。彼らが叩いた門の内側で、権力という名の腐敗が、既にThemよりも静かに、そして確実に蔓延していたことを。そしてその腐敗の狭間に、一人の父親が、身動きの取れぬまま囚われていたことも。
夜明けの光が、壁の上を這うように昇っていった。




