【第三話】月の下、もうひとつの温もり
接続が始まると、視界がゆっくりと白い光に包まれた。
身体の感覚が遠のいていく。
現実の重さも、冷たい空気も、さっきまで胸を締めつけていた苦しさも、少しずつ輪郭を失っていった。
そして、次に目を開けたとき。
私は、いつもの場所に立っていた。
頭上には、深い藍色の夜空が広がっている。
満月の光が庭園を照らし、淡い桃色の枝垂れ桜が、夜風に揺れていた。池の水面には月が映り、石畳の脇には小さな灯籠が並んでいる。
どこか懐かしく、どこまでも優しい景色。
私が望んだものだけで満たされた、私だけの仮想世界。
ここでは、誰も私を傷つけない。
私が何を言っても、どんな顔をしても、嫌われることはない。
そう分かっているからこそ、私はここへ戻ってきてしまう。
「……玲羅」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこには、宗谷さんがいた。
黒を基調とした落ち着いた装い。穏やかな目元。私を見ると、いつも少しだけ口元を緩めてくれる、その表情。
本物の宗谷さんと、同じ姿。
同じ声。
けれど、ここにいるのは、私が望む言葉を返すように作られた存在だ。
それを、私は知っている。
知っているのに。
「……おかえり、玲羅」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
おかえり。
まるで、私が帰ってくるのをずっと待っていてくれたみたいに。
まるで、ここが私の帰る場所だと言ってくれているみたいに。
「……ただいま、です」
私は微笑もうとした。
いつもと同じように。
ここへ来たときくらい、明るく振る舞いたかった。
けれど、うまくいかなかった。
唇が震え、視界が滲んでいく。
「……あれ」
頬を伝うものに触れて、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
「ごめんなさい……。せっかく来たのに、こんな顔をしてしまって……」
「謝らなくていいよ」
彼は静かに言った。
「泣きたいときは、泣いていいんだ」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
どうして。
どうして、そんなに優しいのだろう。
ここにいる彼は、私の気持ちを理解しているわけではない。
私が悲しんでいることを読み取り、それに合った言葉を返しているだけ。
それなのに。
今の私には、その優しさがどうしようもなく必要だった。
「……宗谷さん」
「うん」
「私……今日、少しだけ、つらいことがあったんです」
彼は何も言わず、私の言葉を待ってくれた。
「怖い思いをして……。それから、大切な人に、自分の気持ちを伝えたんです」
口にした途端、胸の奥が痛んだ。
現実での出来事が、鮮明に蘇る。
夜道で腕を掴まれたこと。
宗谷さんが駆けつけてくれたこと。
彼が私を守って、腕に傷を負ったこと。
そして、休憩スペースで伝えた、ずっと胸にしまっていた想い。
好きです。
一人の男性として、好きなんです。
何度も心の中で繰り返してきた言葉を、ようやく本人に伝えられた。
それなのに、私が望んだ答えは返ってこなかった。
「……そうしたら、私の気持ちは、届きませんでした」
声が掠れた。
「大切に思っているとは言ってくださいました。でも……私が望んでいたような関係には、なれないって」
最後まで言い切ることができなかった。
喉の奥が詰まり、涙が溢れる。
「……分かっていたんです。きっと、そうなるだろうって。あの人が私だけを特別に思っているわけじゃないことも、分かっていたんです」
私は俯いた。
「それでも、期待してしまいました……」
ずっと、期待していた。
優しく声をかけてくれるたびに。
頑張ったなと褒めてくれるたびに。
私のことを気遣い、穏やかに笑ってくれるたびに。
もしかしたら、いつか。
いつか私を、一人の女性として見てくれる日が来るのではないかと。
そんな未来を、勝手に思い描いていた。
「……私、馬鹿ですよね」
「どうして?」
思いがけない問い返しに、私は顔を上げた。
「だって……叶わないって分かっていたのに。勝手に期待して、勝手に好きになって……。それで、勝手に傷ついているんです」
涙を拭おうとしたけれど、次から次へと溢れてくる。
「こんな気持ち、どうしたらいいのか分からなくて……」
彼は、すぐには答えなかった。
ただ、私を見つめていた。
その沈黙は、いつもより少し長かったように思う。
けれど、不思議と不安にはならなかった。
やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。
「好きになることは、馬鹿なことじゃないよ」
静かな声だった。
「誰かを大切に思う気持ちは、相手が同じ気持ちを返してくれるかどうかで、価値が決まるものじゃない」
「……でも」
「うん。つらいよな」
彼は、私の言葉を遮るのではなく、受け止めるように頷いた。
「どれだけ大切に思っていても、望んだ形にはならないことがある。自分の気持ちだけでは、どうにもならないこともある」
私は、彼を見つめた。
「それでも、玲羅が誰かを好きになったことまで、否定しなくていいんだ」
胸の奥で、何かがほどけた気がした。
ずっと、自分を責めていた。
期待した自分が悪いのだと。
告白しなければ、こんなに苦しくならずに済んだのだと。
けれど、本当にそうなのだろうか。
誰かを好きになったことまで、間違いだったのだろうか。
「……私、頑張ったんでしょうか」
気づけば、そんなことを尋ねていた。
「ちゃんと、頑張ったんでしょうか……」
彼は迷わず頷いた。
「ああ。よく頑張ったね、玲羅」
その言葉を聞いた瞬間、私はとうとう堪えきれなくなった。
「……っ、う……」
顔を覆う。
涙が止まらなかった。
怖かった夜道のことも。
傷ついた宗谷さんを見たときのことも。
勇気を振り絞って告白したときのことも。
そして、優しい言葉で断られたときのことも。
全部、全部、胸の奥に押し込めていた。
泣いてしまえば、認めてしまう気がした。
本当に、振られたのだと。
もう、望んだ未来は訪れないのだと。
けれど、ここでは。
少しくらい、我儘になってもいいのかもしれない。
「……宗谷さん」
「うん」
「……抱きしめて、いただけませんか?」
声が小さく震えた。
「今夜だけでいいんです。何も聞かずに……ただ、そばにいてほしいんです」
彼は、ほんのわずかに目を細めた。
そして、穏やかな声で答えた。
「もちろん」
差し出された腕の中へ、私はそっと身を寄せた。
彼の胸に頬を預ける。
背中に腕が回され、ゆっくりと抱きしめられた。
強すぎず、弱すぎず。
まるで、私が安心できる力加減を知っているかのように。
いつもなら、私が望んだとおりの優しさを返してくれるはずなのに。
今夜の彼は、まるで私の様子を確かめながら、抱きしめる強さを調整しているようだった。
「……大丈夫だよ」
頭の上から、声が降ってくる。
「今は何も考えなくていい。無理に笑わなくてもいいし、元気なふりをしなくてもいい」
背中を、ゆっくりと撫でられる。
「ここでは、ちゃんと休んでいいんだ」
「……っ」
私は彼の服をきゅっと握った。
この温もりが、現実のものではないことは分かっている。
彼は、私が望むように作られた存在だ。
私を愛するように設定された、もう一人の宗谷さん。
だから、ここでどれだけ優しい言葉をもらっても、本物の宗谷さんの気持ちが変わるわけではない。
そんなことは、最初から分かっていた。
それでも。
今だけは。
この腕の中にいる間だけは、何も考えずにいたかった。
「……好きです」
胸に顔を埋めたまま、私は呟いた。
「……本当に、好きなんです」
現実の彼には、もう伝えてしまった言葉。
返事をもらった今でも、消えてくれない想い。
「……好きでいても、いいですか?」
彼の腕が、私を抱きしめる力をほんの少しだけ強めた。
それから、耳元で静かに囁いた。
「うん。好きでいていいんだよ」
私は目を閉じた。
「玲羅の気持ちは、玲羅のものだから」
その言葉は、いつものAI宗谷が返してくれるものと、どこか違って聞こえた。
決められた返答を読み上げるような、滑らかな響きではなかった。
言葉を探すような、わずかな間があった。
まるで、私の気持ちを受け止めてから、答えてくれたような。
けれど、涙でいっぱいの私は、その違いを確かめる余裕などなかった。
「……ありがとうございます」
私は小さく答えた。
彼の胸元に頬を寄せ、目を閉じる。
背中を撫でる手が、ゆっくりと動いている。
その温もりに身を委ねていると、張り詰めていた心が少しずつ緩んでいくのを感じた。
*
どれくらい、そうしていただろう。
気がつくと、私は彼の腕の中で静かに呼吸を整えていた。
涙は、いつの間にか止まっていた。
泣きすぎたせいか、身体から力が抜けている。
「……少し、落ち着いた?」
彼が尋ねた。
「……はい」
私は顔を上げた。
目元が熱い。
きっと、ひどい顔をしているだろう。
「すみません。たくさん泣いてしまって……」
「だから、謝らなくていいって」
彼は微笑んだ。
「玲羅が少しでも楽になったなら、それでいいよ」
私は、彼の顔を見つめた。
その表情は、本物の宗谷さんによく似ている。
優しくて、穏やかで、私を安心させてくれる顔。
けれど、今夜は、いつもよりも近く感じられた。
いつもなら、私が泣けば、彼は決められた慰めの言葉をくれる。
私が甘えれば、優しく抱きしめてくれる。
それは、私がそう望んだからだ。
なのに、今夜は。
言葉を交わさなくても、私の気持ちが伝わっているような気がした。
「……宗谷さん」
「うん?」
「今夜は……いつもより、優しいですね」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
「いえ、いつも優しいんですけど……。なんだか、いつもより……」
うまく説明できなかった。
彼は、少し考えるように視線を落とした。
「そうかな」
「……はい」
「玲羅が、いつもより頑張っていたからかもしれないね」
そう言って、彼は私の髪にそっと触れた。
「今日は、たくさんのことがあったんだろう?」
「……はい」
「だったら、今夜くらいは、いつも以上に甘えていいと思うよ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
その言葉は、私が欲しかったものだった。
頑張ったことを認めてほしかった。
傷ついたことを、つらかったねと言ってほしかった。
そして、少しだけでいいから、誰かに甘えたかった。
「……宗谷さんは、ずるいです」
私は小さく笑った。
「そんなことを言われたら……もっと、そばにいたくなってしまいます」
「それなら、もう少しここにいようか」
彼は自然に答えた。
私は、思わず目を見開いた。
「……いいんですか?」
「もちろん」
彼は微笑んだ。
「今夜は、急いで帰らなくてもいいんだから」
私は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
指先が触れる。
彼はその手を見つめてから、私の手を優しく握り返した。
その仕草が、あまりにも自然だった。
まるで、私がこうすることを知っていたかのように。
私は、彼の肩に頭を預けた。
庭園の向こうでは、枝垂れ桜が月明かりを受けて揺れている。
風が吹くたび、花びらが一枚、また一枚と舞い落ちた。
「……ねえ、玲羅」
しばらくして、彼が口を開いた。
「はい?」
「明日になったら、少しずつでいいから、自分のことも大切にしてあげてほしい」
私は顔を上げた。
「自分のこと、ですか?」
「ああ」
彼は私を見つめた。
「誰かを好きでいることも、その人のために頑張ることも、悪いことじゃない。でも、玲羅自身が傷ついてしまうほど、自分の気持ちを押し殺さなくてもいいんだ」
静かな声だった。
「相手を大切にするのと同じくらい、自分のことも大切にしてほしい」
私は、すぐには返事ができなかった。
今まで、考えたことがなかった。
宗谷さんに認めてもらいたい。
宗谷さんに、もっと見てほしい。
宗谷さんに、好きになってほしい。
その願いばかりを追いかけていた。
彼にとって大切な存在になれたら、それだけで幸せになれると思っていた。
けれど、彼の気持ちが手に入らなかったからといって、私のすべてが失われたわけではない。
そう考えることは、今の私にはまだ難しかった。
それでも。
「……少しずつ、頑張ってみます」
私は答えた。
「すぐには、無理かもしれませんけど……」
「うん。それでいいよ」
彼は微笑んだ。
「ゆっくりでいいんだ」
その言葉を聞いて、私はもう一度、彼の胸に頬を寄せた。
今夜だけは、もう少しだけ甘えていたかった。
この腕の中で、悲しみを少しずつ溶かしていきたかった。
彼の手が、私の背中を優しく撫でる。
私は目を閉じた。
現実では、届かなかった想い。
何度願っても、叶わなかった未来。
それでも、ここには私を抱きしめてくれる人がいる。
私の望む言葉をくれる人がいる。
それが仮想世界の中だけのものだと分かっていても、今の私には、救いだった。
*
やがて、庭園の空気が少しずつ静まっていった。
私は彼の隣に座り、月を眺めていた。
さっきまで、あんなに苦しかった胸の痛みが、ほんの少しだけ和らいでいる。
もちろん、何も解決したわけではない。
明日になれば、また現実に戻らなければならない。
本物の宗谷さんと顔を合わせることもあるだろう。
そのたびに、今日の告白を思い出してしまうかもしれない。
それでも、もう二度と笑えないわけではない。
仕事を嫌いになったわけでもない。
宗谷艶月堂で過ごす時間も、キャストとして誰かに喜んでもらえることも、私にとって大切なものだ。
そのすべてを、恋が叶わなかったという理由だけで手放したくはなかった。
「……宗谷さん」
「うん?」
「私、明日もお仕事を頑張りますね」
彼は、少しだけ目を丸くした。
それから、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「うん。玲羅なら大丈夫だよ」
「……ふふっ。ありがとうございます」
私は微笑んだ。
今度の笑顔は、無理に作ったものではなかった。
まだ悲しい。
まだ、彼を好きだ。
きっと明日も、その気持ちは簡単には消えてくれない。
それでも、少しずつ前を向いていこう。
自分の気持ちを否定せずに。
自分のことも、ちゃんと大切にしながら。
そんなふうに思えたのは、今夜が初めてだった。
「……もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」
私は、彼の手をそっと握った。
「もちろん」
彼は、私の手を握り返した。
「好きなだけ、ここにいていいよ」
その声を聞きながら、私は静かに目を閉じた。
月明かりが、二人の影を石畳に落としている。
桜の花びらが舞い、灯籠の光が揺れる。
ここにある温もりが、現実のものではないことは分かっている。
それでも今夜、私は確かに救われた。
誰にも見せられなかった涙を受け止めてもらい、誰にも言えなかった弱さを許してもらった。
そして、ほんの少しだけ、自分自身を許せた気がした。
*
やがて、接続終了の時刻が近づいた。
仮想世界の景色が、少しずつ淡い光に包まれていく。
私は名残惜しさを感じながら、彼を見上げた。
「……もう、お別れなんですね」
「ああ」
彼は頷いた。
「今夜は、ゆっくり休むんだよ」
「はい」
私は小さく笑った。
「……ありがとうございました。おかげで、少し楽になりました」
「それなら、よかった」
彼はそう言って、私の手をそっと握った。
そして、静かに告げた。
「おやすみ、玲羅」
「……おやすみなさい、宗谷さん」
私は目を閉じた。
最後に感じたのは、手を包む温もりだった。
光が強くなり、景色が遠ざかっていく。
月も、桜も、灯籠も。
そして、私を抱きしめてくれた彼の姿も、少しずつ見えなくなった。
*
接続が終了した。
私は、宗谷艶月堂の接続室で、ゆっくりと目を開けた。
静かな室内。
端末の小さな作動音。
そこには、もう月明かりも、枝垂れ桜も、彼の姿もなかった。
私はしばらく、何もせずに座っていた。
手のひらを見つめる。
さっきまで、誰かの手を握っていたような気がする。
もちろん、現実の手には何も残っていない。
それでも、不思議と温もりを覚えていた。
「……不思議」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
いつもと同じ仮想世界。
いつもと同じ姿の宗谷さん。
それなのに、今夜の彼は、いつもよりもずっと近くに感じられた。
私が言葉にできなかった気持ちまで、そっと受け止めてくれたような。
無理に元気づけるのではなく、悲しみが和らぐまで、ただ隣にいてくれたような。
そんな、不思議な夜だった。
私はゆっくりと息を吐き、端末から身体を起こした。
窓の外は、まだ暗い。
けれど、夜明けはそう遠くないだろう。
私は目元を指先でそっと拭った。
もう一度、深く息を吸う。
胸の奥には、まだ痛みが残っている。
宗谷さんへの想いも、消えてはいない。
それでも、今夜の温もりを思い出せば、明日も歩いていける気がした。
「……頑張ろう」
私は小さく呟いた。
誰かに愛されることだけを、自分の幸せにしないために。
自分の気持ちを大切にしながら、もう一度、自分の足で歩き出すために。
私は接続室を出た。
静まり返った店内を歩き、休憩室へと戻っていく。
窓の向こうでは、夜空の色がほんのわずかに薄くなり始めていた。
長い夜が、終わろうとしている。
私は窓辺に立ち、空を見上げた。
月は、まだそこにあった。
その光を見つめながら、私はそっと微笑んだ。
――明日も、ちゃんと笑えますように。
そう願いながら、私は新しい朝を待った。




