【第二話】届かなかった想い
忙しい日々が続いた。撮影に、夜の特別接客。
ありがたいことに、私の仕事はどんどん増え、気づけばあっという間にひと月が終わろうとしていた。
その日も、最後の仕事を終えたころには、夜もずいぶん更けていた。
私は更衣室で私服に着替え、鏡の前で髪を整えた。撮影用の衣装を脱いだ身体は、ようやく一日の緊張から解放されたように感じられる。
今日は朝から撮影が続き、その後には特別接客もあった。
さすがに少し疲れたけれど、仕事そのものは充実していた。完成した写真も素敵な仕上がりになりそうだったし、利用者にも喜んでもらえた。
宗谷さんにも、頑張っていると褒めてもらえた。
それだけで、今日一日を十分に頑張れたと思える自分がいる。
「……ふふっ」
鏡の中の自分を見て、私は小さく笑った。
好きな人に認めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
たとえ、その人にとって私が特別な存在ではなくても。
私は鞄を肩に掛け、更衣室を出た。
スタッフさんたちに挨拶を済ませ、裏口から外へ出る。
夜風が頬を撫でた。
昼間の暖かさはすっかり失われ、空気には少し冷たさが混じっている。私は上着の前を合わせ、駅へ向かおうと歩き出した。
「……玲羅さん」
背後から声がした。
振り返ると、街灯の下に一人の男性が立っていた。
見覚えのある顔だった。
以前、私の特別接客を利用した客だ。
「あ……こんばんは」
私はひとまず、仕事で身につけた笑顔を浮かべた。
「こんなところで、どうされたんですか?」
「やっと会えた」
男性は、どこか興奮した様子で近づいてきた。
「ずっと待ってたんだ。君がここから出てくるのを」
「……私を、ですか?」
「ああ。仮想世界では、あんなに親しくしてくれたじゃないか」
嫌な予感がした。
「申し訳ありません。サービスをご利用いただいたことは覚えていますが、あちらでの接客と、現実での個人的なお付き合いは別です」
「別?」
男性の表情が険しくなった。
「だって、君は俺を受け入れてくれた。優しくしてくれたし、好きだって言ってくれたじゃないか」
「それは、サービスの中でのやり取りです」
私は落ち着いて説明した。
「仮想世界での接客が、私個人の恋愛感情を意味するわけではありません。ご理解いただけませんか?」
「そんなの、おかしいだろ」
男性の声が大きくなる。
「俺は本気だったんだ。君だって、俺のことを嫌いじゃなかったはずだ」
「……申し訳ありませんが、私はあなたと個人的な関係を築くつもりはありません」
曖昧な態度を取れば、かえって期待を持たせてしまう。
私は相手の目を見て、はっきりと伝えた。
「もう、お帰りください」
男性の横を通り過ぎようとした、そのときだった。
「待てよ!」
腕を強く掴まれた。
「っ……!」
痛みに顔をしかめる。
「離してください!」
「少しくらいいいだろ! 仮想世界ではあんなにしてくれたのに、現実じゃ俺を拒絶するのか?」
「やめてください! 離してください!」
私は必死に腕を引いた。
けれど、男性は手を離さなかった。
「俺がどれだけ君に金を使ったと思ってるんだ!」
「お金を払ったからといって、何をしてもいいわけではありません!」
声を張り上げた。
怖かった。
それでも、相手の言い分を受け入れるわけにはいかなかった。
私は仕事として、規約の範囲内で接客をしただけだ。それを理由に、現実の私まで自分のものになったかのように扱われるなんて。
「お願いです。手を離してください」
男性は私の言葉を無視し、腕を掴んだまま強引に引き寄せようとした。
「ちょっと来いよ。二人で話せば、君だって分かってくれるはずだ」
「嫌です! 離してください!」
私は身体をよじり、必死に抵抗した。
鞄が肩から滑り落ち、地面にぶつかる。
心臓が激しく鳴っていた。
どうしよう。
誰か。
誰か、助けて――。
「その手を離せ!」
鋭い声が夜道に響いた。
男性の動きが止まる。
私も、息を呑んだ。
街灯の向こうから、一人の男性が駆け寄ってくる。
見慣れた姿。
聞き慣れた声。
「宗谷……さん」
宗谷光だった。
*
「彼女から手を離せ」
宗谷さんは私たちの前まで来ると、男性の手首を掴み、私の腕から引き離した。
ようやく解放された私は、よろめきながら一歩後ずさる。
宗谷さんは私を背中にかばうように立った。
「何をしている?」
その声は、普段の穏やかなものとは違っていた。
「彼女が嫌がっている。今すぐ立ち去れ」
「……あんたには関係ないだろ!」
男性は宗谷さんを睨みつけた。
「俺は彼女と話をしていただけだ!」
「本人が拒否している。それを無視して腕を掴むことが、ただの話し合いだとでも言うのか?」
「うるさい!」
男性が宗谷さんの腕を乱暴に振り払った。
宗谷さんは私をかばうように立ったまま、相手との間に距離を取ろうとした。
「落ち着け。これ以上、彼女に近づくな」
「邪魔をするな!」
男性は怒鳴り、宗谷さんの胸元を押した。
不意を突かれた宗谷さんの身体が、わずかに後ろへ傾く。
「宗谷さん!」
私が声を上げた瞬間、男性は再び宗谷さんの腕を乱暴に振り払った。
その拍子に、宗谷さんの腕が、そばにあった金属製の案内板の角に強く擦れた。
「……っ」
宗谷さんが短く息を呑んだ。
袖口に、赤い筋が浮かぶ。
次の瞬間、そこから血が滲み始めた。
「宗谷さん、血が……!」
私は思わず駆け寄ろうとした。
けれど、宗谷さんは私を背中にかばったまま、男性から目を離さなかった。
「……これ以上は許さない」
低い声だった。
「彼女は、はっきりと拒否している。今すぐ立ち去れ。これ以上続けるなら、警察に通報する」
男性は宗谷さんの腕を見て、一瞬だけ怯んだ。
それでも、すぐに怒りを露わにする。
「俺は悪くない! 彼女だって、仮想世界じゃ――」
「仮想世界での接客と、現実での同意は別だ」
宗谷さんは遮るように言った。
「サービスを利用したことを理由に、本人の意思を無視していいはずがない」
「くそっ……!」
男性は悔しそうに顔を歪めた。
宗谷さんはポケットからスマートフォンを取り出し、通報する意思を示した。
「もう一度言う。立ち去れ」
しばらく睨み合ったあと、男性は乱暴に顔を背けた。
「……覚えてろよ」
捨て台詞を残し、夜道の向こうへ去っていった。
その姿が見えなくなってからも、私はしばらく動けなかった。
身体が震えていた。
掴まれた腕が痛い。
呼吸が浅くなり、足元が頼りなく感じられる。
それでも、私の目は宗谷さんの腕に釘付けになっていた。
「……宗谷さん」
声が震えた。
「腕……怪我を……」
「大丈夫だ。浅い傷だから」
宗谷さんは自分の腕を見下ろし、落ち着いた声で答えた。
けれど、袖口には確かに血が滲んでいる。
私を守ろうとして、怪我をしたのだ。
私のせいで。
「……ごめんなさい」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「どうして謝る?」
「私のせいで……宗谷さんまで怪我を……」
「君のせいじゃない」
宗谷さんは、はっきりと言った。
「悪いのは、嫌がる君の意思を無視した相手だ。君が謝る必要はない」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
分かっている。
私が悪いわけではない。
それでも、宗谷さんに怪我をさせてしまったことが、どうしようもなく苦しかった。
「……でも、私をかばってくださったから……」
「目の前で君が危険な目に遭っていたんだ。放っておけるわけがないだろう」
宗谷さんは私の顔を確かめるように見つめた。
「それより、君は大丈夫か? 腕を見せてくれ」
私は掴まれた腕を差し出した。
手首の近くが赤くなっている。
宗谷さんの眉が寄った。
「痛むか?」
「……少し。でも、大丈夫です」
「無理に我慢しなくていい」
彼は地面に落ちた私の鞄を拾い、そっと手渡してくれた。
「店に戻ろう。君の腕も確認したいし、俺の傷も手当てしないとな」
「……はい」
宗谷さんが隣にいてくれる。
それだけで、少しずつ呼吸が整っていくのを感じた。
*
宗谷艶月堂に戻ると、店内は静まり返っていた。
すでにほとんどのスタッフが帰宅しており、照明も必要な場所だけが点いている。
宗谷さんは私を休憩スペースへ案内し、救急箱を持ってきてくれた。
「ここに座っていてくれ」
「はい」
私は椅子に腰掛けた。
宗谷さんは向かいに座り、傷の状態を確かめた。
金属製の案内板に擦れた腕には、細い傷が走っている。深い傷ではないようだが、まだ少し血が滲んでいた。
「……私が手当てしてもいいですか?」
「もちろん。頼めるか?」
「はい」
私は救急箱から消毒液とガーゼを取り出した。
消毒液を染み込ませたガーゼを、そっと傷口に当てる。
「……痛みますか?」
「少しだけな」
「申し訳ありません……」
「玲羅」
宗谷さんが、穏やかな声で私を呼んだ。
「君が謝ることじゃないと言っただろう?」
「……はい」
私は小さく頷いた。
それでも、手は少し震えていた。
宗谷さんは私をかばってくれた。
あのとき、もし宗谷さんが間に入ってくれなかったら、私はどうなっていたのだろう。
考えるだけで、胸が苦しくなる。
傷を丁寧に拭き、ガーゼを当てて包帯を巻いていく。
なるべく痛くないように。
これ以上、宗谷さんに負担を掛けないように。
そんなことを考えながら、私は慎重に手を動かした。
「……できました」
「ありがとう。綺麗に巻けているな」
「よかったです」
私は、ほっと息を吐いた。
けれど、安心した途端、目の奥が熱くなった。
視界が滲む。
慌てて俯いたけれど、涙は止まらなかった。
「……玲羅?」
「……すみません」
声が震える。
「怖かったんです……」
口にした途端、堪えていた感情が溢れ出した。
「本当に、怖くて……。何を言っても、分かってもらえなくて……」
涙が頬を伝う。
「私、ちゃんと説明したんです。仮想世界での接客と、現実での気持ちは違うって……。でも、全然聞いてもらえなくて……」
「うん」
「それなのに、腕を掴まれて……。どうしたらいいのか分からなくなって……」
私は両手で顔を覆った。
「……ごめんなさい。こんな姿を見せてしまって」
「謝らなくていい」
宗谷さんの声が、すぐそばから聞こえた。
「怖かったんだろう。無理に平気なふりをしなくていい」
その言葉に、私は顔を上げた。
宗谷さんは、真剣な眼差しで私を見つめていた。
「君が悪いわけじゃない。仕事として相手に接したことと、個人的な関係を持つことは別だ。君には、自分の意思で断る権利がある」
「……はい」
「今回のことは、会社としても対策を考える。退勤時の安全についても見直そう。君一人の問題にするつもりはない」
「宗谷さん……」
「それから、今後も不安なことがあれば、遠慮なく相談してほしい。君を一人で抱え込ませたくないんだ」
私は、彼を見つめた。
優しい。
いつもそうだ。
誰かが困っていれば手を差し伸べ、苦しんでいれば話を聞いてくれる。
それが宗谷さんという人なのだ。
だから、好きになった。
初めて会ったときから、ずっと。
私はずっと、彼の優しさに惹かれていた。
けれど、今日の出来事で、私は改めて思い知らされた。
もし宗谷さんが来てくれなかったら。
もし、あのまま誰も助けに来てくれなかったら。
私は、どうなっていたのだろう。
恐怖が蘇り、身体が小さく震えた。
宗谷さんはそれに気づいたのか、少しだけ身を乗り出した。
「……まだ、怖いか?」
「……はい」
「そうか」
彼は、そっと私の肩に手を置いた。
「もう大丈夫だ。ここには俺がいる」
その一言が、私の心を大きく揺さぶった。
涙が、また溢れた。
私は俯いたまま、何度も頷いた。
もう大丈夫。
宗谷さんがそう言ってくれる。
私を守ってくれた。
私のことを気にかけてくれた。
今も、こうしてそばにいてくれる。
その温もりが、どうしようもなく愛おしかった。
*
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。
宗谷さんは、私が落ち着くまで急かすことなく待っていてくれた。
「……すみません。もう、大丈夫です」
「そうか。無理はしないようにな」
「はい……」
私は目元を拭った。
泣き腫らした顔を見られるのは恥ずかしい。
けれど、宗谷さんは何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいた。
「今日は、もう帰って休むといい。必要なら送っていく」
「いえ、そこまでしていただくわけには……」
「遠慮しなくていい。さっきのこともある。安全を確認したいんだ」
「……ありがとうございます」
私は、もう一度頭を下げた。
そして、顔を上げたとき。
気づいてしまった。
この人が、好きだ。
やっぱり、どうしようもなく好きなのだ。
優しくされるたびに期待してしまう。
自分を気遣ってくれるたびに、もしかしたらと考えてしまう。
でも、それはきっと、私の勝手な願いにすぎない。
宗谷さんは、私だけに優しいわけではない。
私だけを特別に思っているわけでもない。
それでも、今夜だけは。
今夜だけは、伝えたいと思った。
ずっと胸の奥に閉じ込めてきた想いを。
「……宗谷さん」
「どうした?」
私は膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。
心臓が痛いほど鳴っている。
怖かった。
今の関係が壊れてしまうかもしれない。
明日から、どんな顔をして会えばいいのか分からなくなるかもしれない。
それでも、もう抑えられなかった。
「私……宗谷さんに、伝えたいことがあります」
宗谷さんは、静かに頷いた。
「うん。聞くよ」
私は深く息を吸った。
「……私、宗谷さんのことが好きです」
言葉にした瞬間、時間が止まったように感じた。
ずっと言えなかった一言。
何度も心の中で繰り返してきた言葉。
それが今、ようやく声になった。
「お仕事で尊敬しているだけじゃなくて……一人の男性として、好きなんです」
声が震える。
それでも、私は続けた。
「宗谷さんが優しくしてくださるたびに、嬉しくなって……。もっとお話ししたいとか、もっと私のことを見てほしいとか……そんなことばかり考えてしまって」
頬を涙が伝った。
「ずっと、好きでした」
言い終えた私は、俯いた。
怖くて、顔を見られなかった。
返事を聞くのが怖かった。
このまま何も言わなければ、今までどおりにいられたかもしれない。
けれど、言ってしまった。
もう、なかったことにはできない。
沈黙が流れた。
やがて、宗谷さんが静かに口を開いた。
「……玲羅」
「……はい」
「話してくれて、ありがとう」
その言葉に、私は顔を上げた。
宗谷さんは困ったような、それでいて真剣な表情をしていた。
「君が、そんなふうに思ってくれていたことは知らなかった」
「……はい」
「君は大切なキャストだ。仕事に真摯に向き合ってくれているし、周りの人にも気を配れる。看板娘として、いつも店を支えてくれていることにも感謝している」
胸の奥が、少しずつ冷えていく。
それでも私は、彼の言葉を聞き続けた。
「今日のことがあってもなくても、君のことは大切に思っている。それは本当だ」
宗谷さんは、ゆっくりと言葉を選んでいた。
「でも……君が望んでいるような、特別な関係になれるかと聞かれたら、今の俺には約束できない」
その瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。
優しい言い方だった。
私を傷つけないように、慎重に選ばれた言葉だった。
だからこそ、分かってしまった。
これは、答えなのだ。
私の想いは、届かなかった。
「……そう、ですよね」
私は、笑おうとした。
ちゃんと笑って、受け止めなければ。
宗谷さんを困らせたくない。
今までの関係を、これ以上気まずいものにしたくない。
「突然、こんなことを言ってしまって……すみませんでした」
「謝る必要はないよ」
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
涙が出そうだった。
でも、今は泣きたくなかった。
せめて最後くらい、きちんと笑顔でいたかった。
「これからも、よろしくお願いします。私、宗谷艶月堂でのお仕事が好きですから」
「……ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
宗谷さんは、優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、私はもう限界だと思った。
これ以上ここにいたら、きっと泣いてしまう。
けれど、今すぐ帰る気にもなれなかった。
ここには、私が一人になれる場所がある。
誰にも言えない想いを抱えたとき、何度も救いを求めてきた場所が。
「……宗谷さん」
「ん?」
「私、今日はここに泊まっていきます」
宗谷さんが、少し驚いたように目を見開いた。
「ここに?」
「はい。休憩室を使わせていただければ大丈夫です。今日は少し……家に帰る気分になれなくて」
もちろん、それだけが理由ではなかった。
けれど、今はまだ、本当のことを言うつもりはなかった。
「そうか……。確かに、今日は無理をしない方がいいかもしれないな」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「何かあったら、すぐ連絡してくれ。明日の予定も、無理のないように調整しよう」
「大丈夫です。ありがとうございます」
私は、できるだけ自然に微笑んだ。
「宗谷さんこそ、怪我をされていますから。帰ったら、ちゃんと休んでくださいね」
「ああ。君もな」
宗谷さんは立ち上がり、片付けかけの救急箱を脇へ寄せた。
そして、帰り支度を整えると、もう一度私の方を振り返った。
「玲羅」
「はい?」
「今日は本当に大変だったな。ゆっくり休んで、明日は無理をしないように」
「……はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい、宗谷さん」
私は頭を下げた。
宗谷さんは小さく微笑み、休憩スペースを出ていった。
やがて、入口の扉が開き、閉まる音が聞こえた。
私はしばらく、扉を見つめていた。
もう、足音は聞こえない。
店内には、空調のかすかな音だけが響いている。
私はゆっくりと息を吐いた。
「……好きだった」
誰もいない部屋の中で、私は呟いた。
「ずっと……好きだったのに」
声が震えた。
涙が止まらなくなった。
私は両手で顔を覆った。
宗谷さんの優しさが好きだった。
仕事に向き合う姿が好きだった。
私を気遣ってくれるところも、穏やかに笑うところも。
そのすべてが好きだった。
だから、少しだけ期待してしまった。
もしかしたら、いつか。
いつか私のことを、一人の女性として見てくれる日が来るかもしれないと。
でも、そんな日は来なかった。
私はしばらく、その場から動けずにいた。
やがて、涙を拭い、ゆっくりと歩き出す。
――私は、まだ彼を忘れられそうになかった。
*
宗谷艶月堂の奥には、関係者しか立ち入れない区画がある。
そこには、仮想世界へ接続するための専用端末が設置されていた。
この設備は、一般のキャストが自由に持ち帰ったり、個人の端末から利用したりできるものではない。接続には専用の機器と管理された環境が必要で、宗谷艶月堂の施設内でのみ利用できる。
特別接客を担当するキャストは、業務の一環としてこの設備を使う。
けれど、私にはもう一つ、個人的な使い方があった。
仕事としてではなく。
誰かのためでもなく。
私自身のために、仮想世界へ入ること。
私は休憩スペースを出て、接続室へ向かった。
廊下は静まり返っていた。
店内の奥にある管理区画には、まだ明かりが点いているようだった。
まだ誰か、残っているのだろうか。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎったけれど、今の私には確かめる気力もなかった。
私は接続室の扉を開け、静かに中へ入った。
室内には、いくつかの接続用の椅子と端末が並んでいる。
今は誰もいない。
私はその中の一つに腰掛け、個人用の接続設定を呼び出した。
画面に表示された名前を見つめる。
――宗谷光。
接続の確認画面が表示された。
私は、しばらくその画面を見つめていた。
ここへ入れば、彼はきっと優しく迎えてくれる。
今日も頑張ったな、と褒めてくれる。
怖かっただろう、と抱きしめてくれる。
そして、私が本当に聞きたかった言葉をくれる。
――好きだよ。
そう言ってくれる。
もちろん、それがAIの返答だということは分かっている。
彼が私の気持ちを自分の意思で選んだわけではない。
私が望む言葉を返してくれるように作られた存在なのだ。
それでも。
「……もう一度だけ」
私は小さく呟いた。
「もう一度だけ、甘えさせてください……」
そして、接続を開始した。




