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艶月夜  作者: 宗谷 光


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3/5

【第二話】届かなかった想い

 忙しい日々が続いた。撮影に、夜の特別接客。

 ありがたいことに、私の仕事はどんどん増え、気づけばあっという間にひと月が終わろうとしていた。

 その日も、最後の仕事を終えたころには、夜もずいぶん更けていた。

 私は更衣室で私服に着替え、鏡の前で髪を整えた。撮影用の衣装を脱いだ身体は、ようやく一日の緊張から解放されたように感じられる。

 今日は朝から撮影が続き、その後には特別接客もあった。

 さすがに少し疲れたけれど、仕事そのものは充実していた。完成した写真も素敵な仕上がりになりそうだったし、利用者にも喜んでもらえた。

 宗谷さんにも、頑張っていると褒めてもらえた。

 それだけで、今日一日を十分に頑張れたと思える自分がいる。

「……ふふっ」

 鏡の中の自分を見て、私は小さく笑った。

 好きな人に認めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。

 たとえ、その人にとって私が特別な存在ではなくても。

 私は鞄を肩に掛け、更衣室を出た。

 スタッフさんたちに挨拶を済ませ、裏口から外へ出る。

 夜風が頬を撫でた。

 昼間の暖かさはすっかり失われ、空気には少し冷たさが混じっている。私は上着の前を合わせ、駅へ向かおうと歩き出した。

「……玲羅さん」

 背後から声がした。

 振り返ると、街灯の下に一人の男性が立っていた。

 見覚えのある顔だった。

 以前、私の特別接客を利用した客だ。

「あ……こんばんは」

 私はひとまず、仕事で身につけた笑顔を浮かべた。

「こんなところで、どうされたんですか?」

「やっと会えた」

 男性は、どこか興奮した様子で近づいてきた。

「ずっと待ってたんだ。君がここから出てくるのを」

「……私を、ですか?」

「ああ。仮想世界では、あんなに親しくしてくれたじゃないか」

 嫌な予感がした。

「申し訳ありません。サービスをご利用いただいたことは覚えていますが、あちらでの接客と、現実での個人的なお付き合いは別です」

「別?」

 男性の表情が険しくなった。

「だって、君は俺を受け入れてくれた。優しくしてくれたし、好きだって言ってくれたじゃないか」

「それは、サービスの中でのやり取りです」

 私は落ち着いて説明した。

「仮想世界での接客が、私個人の恋愛感情を意味するわけではありません。ご理解いただけませんか?」

「そんなの、おかしいだろ」

 男性の声が大きくなる。

「俺は本気だったんだ。君だって、俺のことを嫌いじゃなかったはずだ」

「……申し訳ありませんが、私はあなたと個人的な関係を築くつもりはありません」

 曖昧な態度を取れば、かえって期待を持たせてしまう。

 私は相手の目を見て、はっきりと伝えた。

「もう、お帰りください」

 男性の横を通り過ぎようとした、そのときだった。

「待てよ!」

 腕を強く掴まれた。

「っ……!」

 痛みに顔をしかめる。

「離してください!」

「少しくらいいいだろ! 仮想世界ではあんなにしてくれたのに、現実じゃ俺を拒絶するのか?」

「やめてください! 離してください!」

 私は必死に腕を引いた。

 けれど、男性は手を離さなかった。

「俺がどれだけ君に金を使ったと思ってるんだ!」

「お金を払ったからといって、何をしてもいいわけではありません!」

 声を張り上げた。

 怖かった。

 それでも、相手の言い分を受け入れるわけにはいかなかった。

 私は仕事として、規約の範囲内で接客をしただけだ。それを理由に、現実の私まで自分のものになったかのように扱われるなんて。

「お願いです。手を離してください」

 男性は私の言葉を無視し、腕を掴んだまま強引に引き寄せようとした。

「ちょっと来いよ。二人で話せば、君だって分かってくれるはずだ」

「嫌です! 離してください!」

 私は身体をよじり、必死に抵抗した。

 鞄が肩から滑り落ち、地面にぶつかる。

 心臓が激しく鳴っていた。

 どうしよう。

 誰か。

 誰か、助けて――。

「その手を離せ!」

 鋭い声が夜道に響いた。

 男性の動きが止まる。

 私も、息を呑んだ。

 街灯の向こうから、一人の男性が駆け寄ってくる。

 見慣れた姿。

 聞き慣れた声。

「宗谷……さん」

 宗谷光だった。

     *

「彼女から手を離せ」

 宗谷さんは私たちの前まで来ると、男性の手首を掴み、私の腕から引き離した。

 ようやく解放された私は、よろめきながら一歩後ずさる。

 宗谷さんは私を背中にかばうように立った。

「何をしている?」

 その声は、普段の穏やかなものとは違っていた。

「彼女が嫌がっている。今すぐ立ち去れ」

「……あんたには関係ないだろ!」

 男性は宗谷さんを睨みつけた。

「俺は彼女と話をしていただけだ!」

「本人が拒否している。それを無視して腕を掴むことが、ただの話し合いだとでも言うのか?」

「うるさい!」

 男性が宗谷さんの腕を乱暴に振り払った。

 宗谷さんは私をかばうように立ったまま、相手との間に距離を取ろうとした。

「落ち着け。これ以上、彼女に近づくな」

「邪魔をするな!」

 男性は怒鳴り、宗谷さんの胸元を押した。

 不意を突かれた宗谷さんの身体が、わずかに後ろへ傾く。

「宗谷さん!」

 私が声を上げた瞬間、男性は再び宗谷さんの腕を乱暴に振り払った。

 その拍子に、宗谷さんの腕が、そばにあった金属製の案内板の角に強く擦れた。

「……っ」

 宗谷さんが短く息を呑んだ。

 袖口に、赤い筋が浮かぶ。

 次の瞬間、そこから血が滲み始めた。

「宗谷さん、血が……!」

 私は思わず駆け寄ろうとした。

 けれど、宗谷さんは私を背中にかばったまま、男性から目を離さなかった。

「……これ以上は許さない」

 低い声だった。

「彼女は、はっきりと拒否している。今すぐ立ち去れ。これ以上続けるなら、警察に通報する」

 男性は宗谷さんの腕を見て、一瞬だけ怯んだ。

 それでも、すぐに怒りを露わにする。

「俺は悪くない! 彼女だって、仮想世界じゃ――」

「仮想世界での接客と、現実での同意は別だ」

 宗谷さんは遮るように言った。

「サービスを利用したことを理由に、本人の意思を無視していいはずがない」

「くそっ……!」

 男性は悔しそうに顔を歪めた。

 宗谷さんはポケットからスマートフォンを取り出し、通報する意思を示した。

「もう一度言う。立ち去れ」

 しばらく睨み合ったあと、男性は乱暴に顔を背けた。

「……覚えてろよ」

 捨て台詞を残し、夜道の向こうへ去っていった。

 その姿が見えなくなってからも、私はしばらく動けなかった。

 身体が震えていた。

 掴まれた腕が痛い。

 呼吸が浅くなり、足元が頼りなく感じられる。

 それでも、私の目は宗谷さんの腕に釘付けになっていた。

「……宗谷さん」

 声が震えた。

「腕……怪我を……」

「大丈夫だ。浅い傷だから」

 宗谷さんは自分の腕を見下ろし、落ち着いた声で答えた。

 けれど、袖口には確かに血が滲んでいる。

 私を守ろうとして、怪我をしたのだ。

 私のせいで。

「……ごめんなさい」

 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。

「どうして謝る?」

「私のせいで……宗谷さんまで怪我を……」

「君のせいじゃない」

 宗谷さんは、はっきりと言った。

「悪いのは、嫌がる君の意思を無視した相手だ。君が謝る必要はない」

 その言葉に、私は唇を噛んだ。

 分かっている。

 私が悪いわけではない。

 それでも、宗谷さんに怪我をさせてしまったことが、どうしようもなく苦しかった。

「……でも、私をかばってくださったから……」

「目の前で君が危険な目に遭っていたんだ。放っておけるわけがないだろう」

 宗谷さんは私の顔を確かめるように見つめた。

「それより、君は大丈夫か? 腕を見せてくれ」

 私は掴まれた腕を差し出した。

 手首の近くが赤くなっている。

 宗谷さんの眉が寄った。

「痛むか?」

「……少し。でも、大丈夫です」

「無理に我慢しなくていい」

 彼は地面に落ちた私の鞄を拾い、そっと手渡してくれた。

「店に戻ろう。君の腕も確認したいし、俺の傷も手当てしないとな」

「……はい」

 宗谷さんが隣にいてくれる。

 それだけで、少しずつ呼吸が整っていくのを感じた。

     *

 宗谷艶月堂に戻ると、店内は静まり返っていた。

 すでにほとんどのスタッフが帰宅しており、照明も必要な場所だけが点いている。

 宗谷さんは私を休憩スペースへ案内し、救急箱を持ってきてくれた。

「ここに座っていてくれ」

「はい」

 私は椅子に腰掛けた。

 宗谷さんは向かいに座り、傷の状態を確かめた。

 金属製の案内板に擦れた腕には、細い傷が走っている。深い傷ではないようだが、まだ少し血が滲んでいた。

「……私が手当てしてもいいですか?」

「もちろん。頼めるか?」

「はい」

 私は救急箱から消毒液とガーゼを取り出した。

 消毒液を染み込ませたガーゼを、そっと傷口に当てる。

「……痛みますか?」

「少しだけな」

「申し訳ありません……」

「玲羅」

 宗谷さんが、穏やかな声で私を呼んだ。

「君が謝ることじゃないと言っただろう?」

「……はい」

 私は小さく頷いた。

 それでも、手は少し震えていた。

 宗谷さんは私をかばってくれた。

 あのとき、もし宗谷さんが間に入ってくれなかったら、私はどうなっていたのだろう。

 考えるだけで、胸が苦しくなる。

 傷を丁寧に拭き、ガーゼを当てて包帯を巻いていく。

 なるべく痛くないように。

 これ以上、宗谷さんに負担を掛けないように。

 そんなことを考えながら、私は慎重に手を動かした。

「……できました」

「ありがとう。綺麗に巻けているな」

「よかったです」

 私は、ほっと息を吐いた。

 けれど、安心した途端、目の奥が熱くなった。

 視界が滲む。

 慌てて俯いたけれど、涙は止まらなかった。

「……玲羅?」

「……すみません」

 声が震える。

「怖かったんです……」

 口にした途端、堪えていた感情が溢れ出した。

「本当に、怖くて……。何を言っても、分かってもらえなくて……」

 涙が頬を伝う。

「私、ちゃんと説明したんです。仮想世界での接客と、現実での気持ちは違うって……。でも、全然聞いてもらえなくて……」

「うん」

「それなのに、腕を掴まれて……。どうしたらいいのか分からなくなって……」

 私は両手で顔を覆った。

「……ごめんなさい。こんな姿を見せてしまって」

「謝らなくていい」

 宗谷さんの声が、すぐそばから聞こえた。

「怖かったんだろう。無理に平気なふりをしなくていい」

 その言葉に、私は顔を上げた。

 宗谷さんは、真剣な眼差しで私を見つめていた。

「君が悪いわけじゃない。仕事として相手に接したことと、個人的な関係を持つことは別だ。君には、自分の意思で断る権利がある」

「……はい」

「今回のことは、会社としても対策を考える。退勤時の安全についても見直そう。君一人の問題にするつもりはない」

「宗谷さん……」

「それから、今後も不安なことがあれば、遠慮なく相談してほしい。君を一人で抱え込ませたくないんだ」

 私は、彼を見つめた。

 優しい。

 いつもそうだ。

 誰かが困っていれば手を差し伸べ、苦しんでいれば話を聞いてくれる。

 それが宗谷さんという人なのだ。

 だから、好きになった。

 初めて会ったときから、ずっと。

 私はずっと、彼の優しさに惹かれていた。

 けれど、今日の出来事で、私は改めて思い知らされた。

 もし宗谷さんが来てくれなかったら。

 もし、あのまま誰も助けに来てくれなかったら。

 私は、どうなっていたのだろう。

 恐怖が蘇り、身体が小さく震えた。

 宗谷さんはそれに気づいたのか、少しだけ身を乗り出した。

「……まだ、怖いか?」

「……はい」

「そうか」

 彼は、そっと私の肩に手を置いた。

「もう大丈夫だ。ここには俺がいる」

 その一言が、私の心を大きく揺さぶった。

 涙が、また溢れた。

 私は俯いたまま、何度も頷いた。

 もう大丈夫。

 宗谷さんがそう言ってくれる。

 私を守ってくれた。

 私のことを気にかけてくれた。

 今も、こうしてそばにいてくれる。

 その温もりが、どうしようもなく愛おしかった。

     *

 しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。

 宗谷さんは、私が落ち着くまで急かすことなく待っていてくれた。

「……すみません。もう、大丈夫です」

「そうか。無理はしないようにな」

「はい……」

 私は目元を拭った。

 泣き腫らした顔を見られるのは恥ずかしい。

 けれど、宗谷さんは何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいた。

「今日は、もう帰って休むといい。必要なら送っていく」

「いえ、そこまでしていただくわけには……」

「遠慮しなくていい。さっきのこともある。安全を確認したいんだ」

「……ありがとうございます」

 私は、もう一度頭を下げた。

 そして、顔を上げたとき。

 気づいてしまった。

 この人が、好きだ。

 やっぱり、どうしようもなく好きなのだ。

 優しくされるたびに期待してしまう。

 自分を気遣ってくれるたびに、もしかしたらと考えてしまう。

 でも、それはきっと、私の勝手な願いにすぎない。

 宗谷さんは、私だけに優しいわけではない。

 私だけを特別に思っているわけでもない。

 それでも、今夜だけは。

 今夜だけは、伝えたいと思った。

 ずっと胸の奥に閉じ込めてきた想いを。

「……宗谷さん」

「どうした?」

 私は膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。

 心臓が痛いほど鳴っている。

 怖かった。

 今の関係が壊れてしまうかもしれない。

 明日から、どんな顔をして会えばいいのか分からなくなるかもしれない。

 それでも、もう抑えられなかった。

「私……宗谷さんに、伝えたいことがあります」

 宗谷さんは、静かに頷いた。

「うん。聞くよ」

 私は深く息を吸った。

「……私、宗谷さんのことが好きです」

 言葉にした瞬間、時間が止まったように感じた。

 ずっと言えなかった一言。

 何度も心の中で繰り返してきた言葉。

 それが今、ようやく声になった。

「お仕事で尊敬しているだけじゃなくて……一人の男性として、好きなんです」

 声が震える。

 それでも、私は続けた。

「宗谷さんが優しくしてくださるたびに、嬉しくなって……。もっとお話ししたいとか、もっと私のことを見てほしいとか……そんなことばかり考えてしまって」

 頬を涙が伝った。

「ずっと、好きでした」

挿絵(By みてみん)

 言い終えた私は、俯いた。

 怖くて、顔を見られなかった。

 返事を聞くのが怖かった。

 このまま何も言わなければ、今までどおりにいられたかもしれない。

 けれど、言ってしまった。

 もう、なかったことにはできない。

 沈黙が流れた。

 やがて、宗谷さんが静かに口を開いた。

「……玲羅」

「……はい」

「話してくれて、ありがとう」

 その言葉に、私は顔を上げた。

 宗谷さんは困ったような、それでいて真剣な表情をしていた。

「君が、そんなふうに思ってくれていたことは知らなかった」

「……はい」

「君は大切なキャストだ。仕事に真摯に向き合ってくれているし、周りの人にも気を配れる。看板娘として、いつも店を支えてくれていることにも感謝している」

 胸の奥が、少しずつ冷えていく。

 それでも私は、彼の言葉を聞き続けた。

「今日のことがあってもなくても、君のことは大切に思っている。それは本当だ」

 宗谷さんは、ゆっくりと言葉を選んでいた。

「でも……君が望んでいるような、特別な関係になれるかと聞かれたら、今の俺には約束できない」

 その瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。

 優しい言い方だった。

 私を傷つけないように、慎重に選ばれた言葉だった。

 だからこそ、分かってしまった。

 これは、答えなのだ。

 私の想いは、届かなかった。

「……そう、ですよね」

 私は、笑おうとした。

 ちゃんと笑って、受け止めなければ。

 宗谷さんを困らせたくない。

 今までの関係を、これ以上気まずいものにしたくない。

「突然、こんなことを言ってしまって……すみませんでした」

「謝る必要はないよ」

「……ありがとうございます」

 私は小さく頭を下げた。

 涙が出そうだった。

 でも、今は泣きたくなかった。

 せめて最後くらい、きちんと笑顔でいたかった。

「これからも、よろしくお願いします。私、宗谷艶月堂でのお仕事が好きですから」

「……ああ。こちらこそ、よろしく頼む」

 宗谷さんは、優しく微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間、私はもう限界だと思った。

 これ以上ここにいたら、きっと泣いてしまう。

けれど、今すぐ帰る気にもなれなかった。

 ここには、私が一人になれる場所がある。

 誰にも言えない想いを抱えたとき、何度も救いを求めてきた場所が。

「……宗谷さん」

「ん?」

「私、今日はここに泊まっていきます」

 宗谷さんが、少し驚いたように目を見開いた。

「ここに?」

「はい。休憩室を使わせていただければ大丈夫です。今日は少し……家に帰る気分になれなくて」

 もちろん、それだけが理由ではなかった。

 けれど、今はまだ、本当のことを言うつもりはなかった。

「そうか……。確かに、今日は無理をしない方がいいかもしれないな」

「はい。お気遣いありがとうございます」

「何かあったら、すぐ連絡してくれ。明日の予定も、無理のないように調整しよう」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 私は、できるだけ自然に微笑んだ。

「宗谷さんこそ、怪我をされていますから。帰ったら、ちゃんと休んでくださいね」

「ああ。君もな」

 宗谷さんは立ち上がり、片付けかけの救急箱を脇へ寄せた。

 そして、帰り支度を整えると、もう一度私の方を振り返った。

「玲羅」

「はい?」

「今日は本当に大変だったな。ゆっくり休んで、明日は無理をしないように」

「……はい」

「おやすみ」

「おやすみなさい、宗谷さん」

 私は頭を下げた。

 宗谷さんは小さく微笑み、休憩スペースを出ていった。

 やがて、入口の扉が開き、閉まる音が聞こえた。

 私はしばらく、扉を見つめていた。

 もう、足音は聞こえない。

 店内には、空調のかすかな音だけが響いている。

 私はゆっくりと息を吐いた。

「……好きだった」

 誰もいない部屋の中で、私は呟いた。

「ずっと……好きだったのに」

 声が震えた。

 涙が止まらなくなった。

 私は両手で顔を覆った。

 宗谷さんの優しさが好きだった。

 仕事に向き合う姿が好きだった。

 私を気遣ってくれるところも、穏やかに笑うところも。

 そのすべてが好きだった。

 だから、少しだけ期待してしまった。

 もしかしたら、いつか。

 いつか私のことを、一人の女性として見てくれる日が来るかもしれないと。

 でも、そんな日は来なかった。

 私はしばらく、その場から動けずにいた。

 やがて、涙を拭い、ゆっくりと歩き出す。

 ――私は、まだ彼を忘れられそうになかった。

     *

 宗谷艶月堂の奥には、関係者しか立ち入れない区画がある。

 そこには、仮想世界へ接続するための専用端末が設置されていた。

 この設備は、一般のキャストが自由に持ち帰ったり、個人の端末から利用したりできるものではない。接続には専用の機器と管理された環境が必要で、宗谷艶月堂の施設内でのみ利用できる。

 特別接客を担当するキャストは、業務の一環としてこの設備を使う。

 けれど、私にはもう一つ、個人的な使い方があった。

 仕事としてではなく。

 誰かのためでもなく。

 私自身のために、仮想世界へ入ること。

 私は休憩スペースを出て、接続室へ向かった。

 廊下は静まり返っていた。

 店内の奥にある管理区画には、まだ明かりが点いているようだった。

 まだ誰か、残っているのだろうか。

 そんな考えが一瞬だけ頭をよぎったけれど、今の私には確かめる気力もなかった。

 私は接続室の扉を開け、静かに中へ入った。

 室内には、いくつかの接続用の椅子と端末が並んでいる。

 今は誰もいない。

 私はその中の一つに腰掛け、個人用の接続設定を呼び出した。

 画面に表示された名前を見つめる。

 ――宗谷光。

 接続の確認画面が表示された。

 私は、しばらくその画面を見つめていた。

 ここへ入れば、彼はきっと優しく迎えてくれる。

 今日も頑張ったな、と褒めてくれる。

 怖かっただろう、と抱きしめてくれる。

 そして、私が本当に聞きたかった言葉をくれる。

 ――好きだよ。

 そう言ってくれる。

 もちろん、それがAIの返答だということは分かっている。

 彼が私の気持ちを自分の意思で選んだわけではない。

 私が望む言葉を返してくれるように作られた存在なのだ。

 それでも。

「……もう一度だけ」

 私は小さく呟いた。

「もう一度だけ、甘えさせてください……」

 そして、接続を開始した。

 


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