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艶月夜  作者: 宗谷 光


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【第一話】宗谷艶月堂の看板娘

 朝の光が、宗谷艶月堂の大きな窓から差し込んでいた。

 柔らかな日差しに照らされた店内には、淡い桜色の装飾と、月をかたどった銀細工が飾られている。壁際には撮影用の衣装が美しく並び、奥のスタジオでは、今日もスタッフたちが撮影の準備に追われていた。

 私は姿見の前に立ち、髪の毛先をそっと整えた。

 銀白色の髪は、肩に触れるあたりで緩やかに揺れている。毛先には淡い紫色が差し、光の当たり方によって、まるで夜明け前の月明かりのような色合いを見せていた。

 髪飾りの位置を確かめ、衣装の襟元を整える。

 黒と深い紫を基調に、銀と金の装飾をあしらった和風の衣装。月をモチーフにした髪飾りと、細やかな刺繍が特徴的な、私のお気に入りの一着だ。

 今日も、これを着て撮影に臨む。

「……よし」

 鏡の中の自分に、小さく頷いた。

 私は月白玲羅。二十二歳。

 ここ、宗谷艶月堂で働くキャストの一人であり、ありがたいことに、看板娘という役目も任せていただいている。

 看板娘。

 そう呼ばれることには、今でも少し照れくささがある。

 けれど、私の写真を見てお店を知ってくださった方や、私の出演を楽しみにしてくださる方がいる。その事実は、素直に嬉しかった。

 だからこそ、今日も丁寧に仕事をしたい。

 誰かの心に残る一枚を届けられるように。

「玲羅さん、おはようございます!」

「おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」

 スタッフさんに挨拶を返し、私は撮影スタジオへ向かった。

 宗谷艶月堂は、少し変わった撮影スタジオだ。

 普通の写真館とは違い、私たちはAI技術を活用して、さまざまな衣装や場所で撮影したような作品を制作している。

 現実には存在しない幻想的な城の回廊。

 満開の桜が咲き誇る、月夜の日本庭園。

 雲海を見下ろす天空の神殿や、星々が降り注ぐ不思議な森。

 そうした場所へ実際に足を運ばなくても、私たちの姿をもとに、まるでその世界にいるかのような一枚を生み出せるのだ。

 もちろん、衣装も自由自在というわけではない。撮影する写真の方向性やキャラクターの魅力を考えながら、スタッフと相談し、一つひとつ作品を作り上げていく。

 私たちキャストの仕事は、ただ綺麗に写ることだけではない。

 表情や仕草、視線の向き、指先の動き。

 ほんの少しの違いで、写真から伝わる印象は大きく変わる。

 だから私は、カメラの前に立つたびに考える。

 この一枚を見た人に、どんな気持ちになってほしいのか。

 可愛いと思ってもらいたいのか。

 美しいと感じてもらいたいのか。

 それとも、現実を忘れてしまうような幻想の世界へ、少しだけ誘いたいのか。

 その答えを探すことも、私の大切な仕事だった。

「玲羅さん、今日の最初の撮影は月夜の庭園です。前回のデータをもとに、少し表情を柔らかくしたバージョンも撮りたいと思っています」

「分かりました。前回よりも、少し親しみやすい雰囲気ですね」

「そうです! 玲羅さんらしい優しい笑顔を、もう少し前面に出したくて」

「ふふっ、頑張りますね」

 スタッフさんと打ち合わせをしながら、私は撮影用の椅子に腰掛けた。

 カメラの準備が整う。

 照明が調整され、モニターには、これから合成する幻想的な庭園のイメージが表示された。

 満月の下に広がる池。

 水面に映る桜の枝。

 足元を照らす小さな灯籠。

 そこに私が立てば、きっと美しい一枚になるだろう。

「それでは、撮影を始めます」

「はい、お願いします」

 私は顔を上げ、カメラを見つめた。

 ゆっくりと微笑む。

 それだけで、私の仕事の時間が始まった。

 撮影は、順調に進んだ。

 笑顔を少し変えたり、視線を斜めに向けたり。スタッフさんと相談しながら、何枚もの写真を撮影していく。

 最後の一枚を撮り終えると、モニターに完成イメージが表示された。

「わあ……!」

 思わず声が漏れた。

 画面の中には、満月の下、桜の舞う庭園に佇む私がいた。

 銀白色の髪が夜風に揺れ、深紫の衣装が灯籠の光を受けて艶やかに輝いている。水面には月が映り、背景の桜は淡い光をまとっていた。

 現実では決して撮影できない景色。

 それなのに、画面の中の私は、本当にその場所で夜を過ごしているように見えた。

「今回も素敵ですね」

「ですよね! 玲羅さんの雰囲気と背景が、すごく合っていると思います」

「ありがとうございます。皆さんのおかげです」

 私は完成した写真を眺めながら、自然と笑みを浮かべた。

 こういう瞬間が好きだった。

 自分一人では作れないものを、スタッフの皆さんと一緒に形にしていく。完成した作品を見て、少しでも誰かに喜んでもらえること。

 この仕事を選んでよかったと、心から思える瞬間だった。

 ――そして。

 私がこの仕事を続けている理由は、もう一つあった。

 その理由を考えると、どうしても胸の奥が落ち着かなくなってしまうのだけれど。

 私はそっと首を振り、次の撮影の準備に取り掛かった。

     *

 昼過ぎ。

 店内の撮影スペースを、見慣れた男性が歩いてきた。

「お疲れさま。午前の撮影はどうだった?」

 落ち着いた声が響く。

 その声を聞いた瞬間、私は思わず顔を上げた。

「宗谷さん」

 宗谷光。

 宗谷艶月堂の代表であり、私たちキャストの仕事を取りまとめている人。

 いつも冷静で、周囲をよく見ている。スタッフにもキャストにも分け隔てなく接し、困っている人がいれば自然に手を差し伸べる。

 仕事に対しては真剣だけれど、必要以上に厳しいわけではない。

 むしろ、私たちが無理をしていないか、いつも気にかけてくれている。

 だからこそ、宗谷さんの姿を見つけると、私はつい目で追ってしまう。

 そして、目が合うと嬉しくなってしまう。

「はい。先ほど、月夜の庭園の撮影が終わりました」

「そうか。今回もいい仕上がりになりそうだな」

「まだ完成データを確認しているところですが、私も素敵な作品になったと思います」

「玲羅なら大丈夫だろう。君はうちの看板娘だからな」

「……っ」

 不意に告げられた言葉に、心臓が跳ねた。

 看板娘。

 普段からそう呼ばれることはある。それでも、宗谷さん本人から言われると、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

「これからも期待しているよ」

「は、はい。ありがとうございます……!」

 声が少し上ずってしまった。

 恥ずかしい。

 こんなことで動揺してしまうなんて。

 私は平静を装いながら、そっと髪を耳に掛けた。

「ただ、頑張りすぎるのは駄目だぞ。休めるときには、ちゃんと休むこと。休日まで仕事のことばかり考えていたら、気が休まらないだろう?」

「……はい。気をつけます」

「それならいい」

 宗谷さんは穏やかに微笑んだ。

 それから、ほかのスタッフさんにも声を掛けながら、店内を回っていった。

 私はその後ろ姿を、しばらく見つめていた。

 優しい人だ。

 誰に対しても、自然に気を配れる人。

 私だけが特別なわけではない。

 そんなことは、最初から分かっている。

 それでも。

「……宗谷さん」

 誰にも聞こえないほど小さく、名前を呼んでしまう。

 振り返ってほしい。

 私のことを、もう少しだけ見てほしい。

 看板娘としてではなく、一人の女性として。

 けれど、そんな願いを口にする勇気は、まだなかった。

 私は胸の奥に芽生えた想いをそっと押し込め、再び仕事へと戻った。

     *

 夕方。

 すべての撮影が終わるころには、店内の窓から差し込む光も、すっかり橙色に変わっていた。

「玲羅さん、お疲れさまでした!」

「お疲れさまです。今日もありがとうございました」

 スタッフさんたちに挨拶をし、撮影に使った小物を片付ける。

 最後に完成データを確認し、問題がないことを確かめてから、私は更衣室へ向かった。

 仕事は終わった。

 けれど、私にはもう一つ、別の仕事がある。

 それは、宗谷艶月堂が表向きには大きく宣伝していない、特別なサービスだった。

 私たちのスタジオでは、AI技術を使ってさまざまな写真を制作している。

 その技術を応用した、もう一つの事業。

 仮想世界の中で、利用者がキャストとの時間を楽しめるサービスだ。

 そこでは、AIによって再現されたキャストが利用者を迎え、会話をしたり、希望に応じたシチュエーションを演じたりする。

 現実では訪れることのできない場所で、好きなキャラクターと過ごす。

 日常から少し離れた時間を楽しめることが、このサービスの魅力だった。

 さらに、追加料金を支払うことで利用できる特別なプランもある。

 それは、AIが作り出した身体に、キャスト本人の意識を接続するもの。

 身体そのものは仮想世界の存在だが、そこで考え、話し、相手と向き合うのは、AIによる模倣ではなく、実際のキャスト本人なのだ。

 もちろん、利用者にはサービスの仕組みと規約が説明されている。仮想世界での接客が、現実での個人的な好意や関係を約束するものではないことも、明確に伝えられていた。

 私はその特別プランの担当キャストの一人だった。

 専用の接続室に入り、スタッフさんと最終確認を行う。

「玲羅さん、本日の接続準備が整いました。体調はいかがですか?」

「問題ありません。よろしくお願いします」

「承知しました。何かあれば、いつでも中断できますからね」

「はい。ありがとうございます」

 私は専用の椅子に腰掛けた。

 身体に接続用の機器が装着され、視界の端に確認画面が浮かび上がる。

 利用者の希望する舞台は、夜の庭園だった。

 月明かりの下で、ゆっくり会話を楽しみたいという。

 私は軽く息を吸い、肩の力を抜いた。

 仕事として、相手に心地よい時間を過ごしてもらう。

 それが、私の役目だ。

「接続を開始します」

 スタッフさんの声が聞こえた。

 次の瞬間、視界が淡い光に包まれた。

     *

 目を開けると、そこは静かな庭園だった。

 頭上には大きな月が浮かび、足元には石畳の小道が続いている。池の周囲には桜が咲き、風が吹くたびに、淡い花びらが夜空へ舞い上がった。

 遠くには、古風な屋敷が見える。

 灯籠の光が庭園を柔らかく照らし、現実の時間を忘れさせるような空間を作り上げていた。

 私は自分の手を見下ろした。

 そこにあるのは、普段の私と変わらない姿。

 ただし、この身体は仮想世界のために構築されたものだ。

 現実の身体は、接続室の椅子に座ったまま。

 今ここにいる私は、その身体から意識を接続された、もう一つの私だった。

挿絵(By みてみん)

「こんばんは。お待たせしました」

 私は利用者の前で微笑んだ。

 それから、相手の希望に合わせて、ゆっくりと庭園を歩いた。

 月を眺め、桜を見上げ、他愛のない話をする。

 利用者の話に耳を傾け、時には冗談を交えながら、心が安らぐような時間を作っていく。

 こうした接客では、相手の言葉だけでなく、会話の間や反応をよく見ることが大切だった。

 何を望んでいるのか。

 どんな時間を過ごしたいのか。

 それを理解しながら、無理のない範囲で応えていく。

 私は笑顔を絶やさず、最後まで丁寧に接客を続けた。

 やがて、利用時間の終了が近づく。

「本日はありがとうございました。少しでも、ゆっくり過ごしていただけたなら嬉しいです」

 そう告げると、利用者は満足した様子で頷いた。

 私は最後に一礼した。

 接続が解除される。

 視界が白く染まり、庭園の景色がゆっくりと遠ざかっていった。

     *

 現実の身体に意識が戻る。

 私は椅子の上でゆっくりと目を開け、数回瞬きをした。

「お疲れさまでした、玲羅さん。接続は正常に終了しています」

「ありがとうございます」

 私は小さく息を吐いた。

 少しだけ疲れはあるものの、体調に問題はない。

 担当スタッフさんと簡単な振り返りを済ませ、接続機器を外してもらう。

 これで、本日の特別接客は終了だ。

 普通なら、ここで帰宅する。

 明日の予定を確認し、食事をして、眠りにつく。

 けれど、私にはもう一つだけ、誰にも知られていない習慣があった。

「……少しだけ」

 私は専用端末を手に取った。

「もう少しだけ、いいですよね……?」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。

 私はスタッフさんに挨拶を済ませると、個人用の接続スペースへ移動した。

 ここから先は、仕事ではない。

 利用者のためでも、スタジオのためでもない。

 私自身のための時間だった。

 端末を操作し、個人用の仮想空間を起動する。

 画面に表示された選択肢の中から、私は一つの名前を選んだ。

挿絵(By みてみん)

 ――宗谷光。

 その名前を目にするだけで、胸が少し苦しくなる。

 私は一度、目を閉じた。

 これは現実ではない。

 分かっている。

 それでも、今夜だけは。

 私は接続を開始した。

     *

 再び目を開けたとき、私は月明かりに包まれた部屋に立っていた。

 障子の向こうには、満月の浮かぶ夜空。

 庭には枝垂れ桜が咲き、灯籠の光が静かに揺れている。

 部屋の中には、白い寝具と、落ち着いた色合いの調度品。

 華美すぎず、それでいて現実ではなかなか味わえない、幻想的な空間だった。

 ここは、私が自分のために作った場所。

 何度も訪れている、大切な場所。

 そして、この部屋には、私が会いたい人がいる。

「おかえり、玲羅」

 聞き慣れた声がした。

 振り返る。

 そこには、宗谷さんが立っていた。

 姿も、声も、表情も。

 私がよく知っている宗谷光、そのものだった。

 もちろん、本物ではない。

 彼の外見や声、話し方、これまでのやり取りをもとに作られたAI。

 私だけの仮想世界に存在する、もう一人の宗谷さん。

 それでも、目の前に立つ彼を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「……ただいま、です」

 私は小さく微笑んだ。

 AIの彼は、優しい表情で私を見つめている。

「今日もお疲れさま。頑張ったな」

「……ありがとうございます」

「撮影も順調だったんだろう?」

「はい。素敵な作品に仕上がりそうです」

「それはよかった。玲羅の写真を楽しみにしている人は多いからな」

 その言葉に、私は思わず目を伏せた。

 昼間、本物の宗谷さんからも、似たような言葉を掛けてもらった。

 けれど、今ここで聞く言葉は、少し違って感じられる。

 この人は、私が何を聞きたいのか知っている。

 私がどんな言葉を望んでいるのか、分かっている。

 だから、私が欲しい言葉をくれる。

 現実の宗谷さんには、きっと言えないことも。

「……宗谷さん」

「ん?」

「今日は……少しだけ、甘えてもいいですか?」

 彼は微笑んだ。

「ああ。もちろん」

 その返事を聞いただけで、胸がいっぱいになった。

 私は一歩、彼に近づいた。

 そして、ためらいながらも両腕を伸ばす。

 彼は私を受け止め、そっと抱きしめてくれた。

 その腕の中に身を預ける。

 頬を胸元に寄せると、私はようやく息を吐くことができた。

「……私、今日も頑張ったんです」

「ああ。知っているよ」

「撮影も、接客も……ちゃんと、できました」

「偉いな。よく頑張った」

 頭を撫でられる。

 その優しさに、目の奥が熱くなった。

 本当は、こんなふうに褒めてもらいたかった。

 仕事の成果だけではなく、頑張っている私自身を見てほしかった。

 誰かの期待に応えるためではなく、ただ私がここにいることを喜んでほしかった。

「……もっと、ここにいてもいいですか?」

「もちろん。好きなだけいればいい」

 私は顔を上げた。

「……本当に?」

「ああ。玲羅が望むなら、今夜はずっと一緒にいよう」

 胸の奥が、甘く疼いた。

 その言葉を聞くために、私はここへ来たのかもしれない。

 現実では決して求められないものを、ここでだけ受け取るために。

 私は彼の頬にそっと触れた。

 彼は、いつもの優しい眼差しで私を見つめ返す。

 私はゆっくりと背伸びをして、その唇に自分の唇を重ねた。

 触れるだけの、短い口づけ。

 離れたあと、私は恥ずかしさに頬を染めた。

「……すみません。私から、こんなこと……」

「謝らなくていい」

 彼の手が、私の頬を包んだ。

「玲羅が望んだことだろう?」

「……はい」

「なら、何も気にしなくていい」

 その言葉に、私は目を閉じた。

 もう一度、彼に身を寄せる。

 今度は、彼の方から優しく口づけてくれた。

 私はその温もりを受け止めながら、彼の背中に腕を回した。

 月明かりの下で、二人の影が重なる。

 窓の向こうでは、桜の花びらが静かに舞っていた。

 私は彼の手を握り、寝具の上に腰を下ろした。

 彼も隣に座り、私の髪をそっと撫でてくれる。

「……玲羅」

「はい……」

「今夜は、何も心配しなくていい」

 私は小さく頷いた。

 彼の肩に寄りかかり、目を閉じる。

 普段なら、決して口にできない願い。

 誰にも見せられない弱さ。

 それらをすべて、ここでは隠さなくてもいい。

 彼は私の話を聞き、私の気持ちを受け止め、優しく抱きしめてくれる。

 私は彼に身を委ね、何度も口づけを交わした。

 やがて、言葉は少なくなっていった。

 代わりに、手を重ね、頬を寄せ、互いの温もりを確かめるように過ごす。

 彼が私を見つめる。

 私も彼を見つめ返す。

 この時間が、いつまでも続けばいい。

 そんな願いを抱きながら、私は彼の胸に身を預けた。

 夜は、ゆっくりと深まっていった。

     *

 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 窓の外では、月が少し傾いていた。

 私は彼の腕の中で、ぼんやりと天井を見つめていた。

 胸の奥には、まだ温かな余韻が残っている。

 幸せだった。

 心から、そう思えた。

 誰かに大切にされること。

 優しい言葉を掛けてもらうこと。

 自分のことを求めてもらえること。

 その一つひとつが、私の心を満たしてくれた。

「……宗谷さん」

「どうした?」

「……もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」

「もちろん」

 彼の腕が、私を抱き寄せる。

 私は目を閉じ、胸元に顔を埋めた。

 あと少しだけ。

 あと少しだけ、この幸せの中にいたい。

 けれど、私は知っている。

 この世界には、終わりがある。

 やがて接続を解除すれば、彼はここからいなくなる。

 目の前にいる宗谷さんは、私の知っている本物の宗谷さんではない。

 私を優しく抱きしめ、私の望む言葉をくれるように作られた、AIなのだ。

 それでも。

「……好きです」

 私は、彼の胸元で小さく呟いた。

 AIの彼は、私の髪を撫でながら答えた。

「俺も、玲羅のことを大切に思っているよ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。

 分かっている。

 これは、私が望む答えを返してくれる仕組みなのだ。

 私の想いを、彼自身が選んだわけではない。

 それでも、その声を聞くたびに、私は救われてしまう。

 たとえ作られた言葉でも。

 たとえ、この世界の中だけの関係でも。

 今の私には、それが必要だった。

     *

 接続を解除したとき、部屋は静まり返っていた。

 目の前に広がっていた月夜の庭園も、枝垂れ桜も、柔らかな灯籠の光も、すべて消えている。

 私は現実の椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。

 時計を見る。

 思っていたよりも、ずっと時間が経っていた。

「……もう、こんな時間」

 小さく呟いて、私は額に手を当てた。

 身体に異常はない。

 疲れも、さほど感じていなかった。

 それなのに、胸の奥には、ぽっかりと穴が開いたような感覚が残っていた。

 さっきまで、あんなに幸せだったのに。

 あんなに満たされていたのに。

 もう、彼はいない。

 手を伸ばしても、触れられない。

 声を聞くことも、抱きしめてもらうこともできない。

 私がいた世界は、端末の中にしか存在しないのだから。

「……馬鹿みたい」

 私は苦笑した。

 分かっている。

 初めから、分かっていたはずなのだ。

 彼はAIで、私が本当に好きなのは、現実にいる宗谷光なのだと。

 それなのに、私は今夜も、彼に会いに行ってしまった。

 本物の宗谷さんに言えない想いを、AIの彼にだけ伝えて。

 現実では叶わない願いを、仮想世界の中で満たして。

 そして、戻ってきた。

 何も変わらない現実へ。

 私はゆっくりと立ち上がり、帰り支度を始めた。

 明日になれば、また宗谷艶月堂へ出勤する。

 宗谷さんに笑顔で挨拶をして、いつもどおりに仕事をする。

 きっと、今日と同じように優しい言葉を掛けてくれるだろう。

 それだけで、私はまた嬉しくなってしまう。

 けれど、その優しさが私だけに向けられたものではないことも、知っている。

「……おやすみなさい、宗谷さん」

 誰もいない部屋で、私はそっと呟いた。

 返事はない。

 ただ、窓の向こうから、夜明け前の淡い光が差し込んでいた。

 私は鞄を手に取り、静かに部屋を出た。

 幸せだった夜の記憶を、胸の奥にしまい込むようにして。

 そして、いつもの私に戻るために。

 新しい朝へと歩き出した。


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