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艶月夜  作者: 宗谷 光


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【プロローグ】秘密の夜

挿絵(By みてみん)

 月明かりが、薄絹のように部屋へ流れ込んでいた。

 障子越しに差し込む淡い光が、床に散った桜の花びらを白く照らしている。庭では枝垂れ桜が夜風に揺れ、軒先に吊るされた灯籠が、紫がかった闇の中に柔らかな灯りをともしていた。

 静かな夜だった。

 聞こえるのは、風が葉を撫でる音と、すぐそばにいる彼の穏やかな呼吸だけ。

「……玲羅」

 名前を呼ばれ、私はゆっくりと顔を上げた。

 すぐ目の前に、彼の顔がある。

 落ち着いた眼差し。優しく細められた目元。私のことを何もかも受け止めてくれるような、穏やかな微笑み。

 その表情を見るたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「どうした?」

「……いえ。なんでもありません」

 そう答えたのに、彼は私の気持ちを見透かしたように、小さく笑った。

「本当に?」

「……はい」

 私は彼の胸元に顔を寄せた。

 こうしていると、普段は胸の奥にしまい込んでいる想いが、少しずつほどけていく。

 誰にも言えない気持ち。

 口にしてしまえば、今の関係が壊れてしまうかもしれない気持ち。

 ずっと伝えられずにいる、たったひとつの願い。

 ――好き。

 その一言を伝えられたなら、どれほど楽になれるだろう。

 けれど、私にはできない。

 だから今だけは。

 この夜だけは、何も考えずに甘えていたかった。

「……もう少し、このままでいてもいいですか?」

「ああ。もちろん」

 彼の腕が、私を優しく抱き寄せる。

 背中に触れる手の温もりに、私はそっと目を閉じた。

 大丈夫。

 今は、何も心配しなくていい。

 ここでは、私は誰かの期待に応える必要も、笑顔を作り続ける必要もない。

 ただの私でいられる。

 彼の腕の中で、彼の声を聞きながら、彼に大切にされる一人の女でいられる。

「玲羅」

「……はい?」

「今夜は、ずっと一緒にいよう」

 胸が、甘く疼いた。

 私は顔を上げ、彼の瞳を見つめる。

「……本当に、今夜はずっと一緒にいてくださるんですか?」

「ああ」

 迷いのない返事だった。

 その言葉が欲しかった。

 ずっと、ずっと聞きたかった。

 私は彼の頬にそっと触れる。指先に伝わる感触を確かめるように、ゆっくりと撫でた。

 彼は逃げなかった。

 ただ、私を見つめていた。

 その眼差しに耐えられなくなって、私は小さく笑う。

「……ずるいです」

「何が?」

「そんなことを言われたら……帰りたくなくなってしまいます」

「なら、今は帰ることなんて考えなくていい」

 彼の言葉に、胸の奥が熱くなる。

 私はもう一度、彼の胸に顔を埋めた。

 頬を寄せ、腕を回し、離れないように抱きしめる。

 この温もりが、いつまでも続けばいい。

 この時間が、明日の朝になっても消えなければいい。

 叶わないと知っている願いほど、どうしてこんなにも強くなってしまうのだろう。

 彼の手が、私の銀白色の髪を優しく梳いた。

 淡い紫を帯びた毛先が指の間を滑り、月明かりの中できらりと揺れる。

「……玲羅は、いつも頑張っているな」

 不意に告げられた言葉に、私は顔を上げた。

「え……?」

「無理をしすぎなくていい。たまには、自分のことも大切にしなさい」

 優しい声だった。

 何度も聞いてきたはずなのに、今夜はどうしてか、胸の奥まで深く染み込んでくる。

 私は唇を噛み、笑顔を作ろうとした。

 けれど、うまくいかなかった。

「……そんなに優しくされたら、困ります」

「どうして?」

「だって……」

 その先は、言葉にならなかった。

 あなたが好きだから。

 あなたに、私だけを見てほしいから。

 あなたの隣にいる誰かではなく、私自身を選んでほしいから。

 けれど、それを口にすることはできない。

 私は代わりに、彼の胸元をぎゅっと握りしめた。

「……なんでもありません」

 彼はそれ以上、問いかけなかった。

 ただ、私の頭を撫でてくれた。

 それが嬉しくて、切なくて。

 私は彼の胸に頬を寄せたまま、静かに目を閉じた。

 今夜だけは、この幸せに溺れていたい。

 明日になれば、またいつもの私に戻る。

 笑顔で挨拶をして、仕事をして、彼の前では何事もないように振る舞う。

 彼にとって、私は大勢いるキャストの一人。

 その事実を忘れてはいけない。

 分かっている。

 ちゃんと、分かっているのに。

「……好きです」

 吐息に紛れるほど小さな声で、私は呟いた。

 彼に聞こえたかどうかは分からない。

 聞こえていたとしても、きっと独り言だと思っただろう。

 それでいい。

 今は、それでいいのだ。

 彼の腕の中で、私はそっと微笑んだ。

 庭の桜が、夜風に舞い上がる。

 月は静かに、二人を照らしていた。

 ――この夜が、いつか終わることを知りながら。

 私は、彼の温もりを手放せずにいた。


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