【エピローグ】月はまた登る
朝の光が、宗谷艶月堂の窓から差し込んでいた。
店内には、撮影の準備を進めるスタッフたちの声が響いている。
衣装ラックには、今日の撮影で使う華やかな衣装が並び、カメラや照明の調整も着々と進んでいた。
いつもと変わらない朝。
けれど、私にとっては、少しだけ違う朝だった。
「玲羅さん、今日の撮影スケジュールです。最初は月見庭園のセットで、そのあと新作衣装の撮影をお願いします」
「はい、ありがとうございます。確認しますね」
私はスタッフさんから受け取った資料に目を通した。
撮影の順番、衣装の変更、休憩時間。
ひとつずつ確認しながら、頭の中で今日の流れを組み立てていく。
こうして仕事に向き合っていると、心が落ち着いた。
私は、この仕事が好きだ。
自分が身につけた衣装を通して、普段とは違う自分になれること。
カメラの向こうにいる誰かに、少しでも喜んでもらえること。
そして、宗谷艶月堂という場所で、仲間たちと一緒に働けること。
そのどれもが、私にとって大切なものだった。
「……よし」
私は資料を閉じ、小さく頷いた。
もう、大丈夫。
そう言い切れるほど、心が整理できたわけではない。
ふとした瞬間に、宗谷さんのことを思い出す。
優しく声をかけてくれたこと。
私を守ってくれたこと。
そして、勇気を出して告白した夜のこと。
思い出せば、今でも胸の奥が少し痛む。
あの人が好きだという気持ちは、まだ私の中に残っていた。
無理に消そうとは思わなかった。
好きになったことを、間違いだったことにしたくなかったから。
ただ、もうひとつだけ、心に決めたことがある。
私は、私自身の人生を歩いていく。
誰かに愛されるためだけに頑張るのではなく、自分が好きだと思えるものを大切にしていく。
その先で、いつかまた新しい幸せに出会えるかもしれない。
今は、まだ分からない。
それでも、未来を閉ざす必要はないのだと思えた。
「玲羅さん、準備できました!」
「はい、今行きますね」
私は顔を上げ、撮影スペースへと向かった。
*
今日の撮影場所は、月見庭園を再現した特別なセットだった。
淡い紫の花が咲く庭に、白い石畳が続いている。
池の水面には、人工の月明かりが柔らかく反射し、枝垂れ桜の枝が風に揺れていた。
現実のスタジオでありながら、まるで夜の庭園に迷い込んだような景色。
照明の角度が調整され、カメラのレンズがこちらを向く。
「それでは、玲羅さん。最初は少し遠くを見つめるような感じでお願いします」
「分かりました」
私は衣装の裾を整えた。
今日の衣装は、白と淡い紫を基調とした和装風のドレス。
月を模した髪飾りが、銀白色の髪にそっと添えられている。
肩の力を抜き、静かに息を吸う。
カメラの向こうには、まだ見ぬ誰かがいる。
私の写真を見て、綺麗だと思ってくれる人。
少しだけ心が弾む人。
明日も頑張ろうと、思ってくれる人。
そんな誰かに届くように。
私は、そっと顔を上げた。
「はい、撮ります。三、二、一……」
シャッター音が響いた。
私は庭園の奥を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「いいですね! とても自然な表情です。次は、もう少しこちらに視線をお願いします」
「はい」
指示に合わせて、私はカメラへ視線を向けた。
その瞬間、胸の奥に小さな温もりが広がった。
笑うことが、少しだけ楽になっていた。
誰かのために作る笑顔ではなく、自分の心から生まれる笑顔。
それが戻ってきたことを、私は嬉しく思った。
「玲羅さん、すごく素敵です!」
スタッフさんの声に、私は頬を緩めた。
「ありがとうございます。皆さんのおかげです」
「いえいえ。今日の玲羅さん、いつも以上にいい表情ですよ」
「……そうですか?」
「はい。なんだか、柔らかくなった感じがします」
私は少しだけ考え、それから微笑んだ。
「……そうだと、嬉しいです」
撮影は順調に進んでいった。
ポーズを変え、表情を変え、衣装の魅力が伝わる角度を探していく。
そのたびに、カメラのシャッターが鳴る。
私は、目の前の仕事に集中した。
今、この瞬間を大切にしたかった。
過ぎてしまった夜に囚われるのではなく、まだ来ていない未来を恐れるのでもなく。
今日という一日を、自分の足で歩いていくために。
*
撮影の合間、私はスタッフさんから飲み物を受け取り、セットの端にある椅子へ腰掛けた。
「玲羅、お疲れさま」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、宗谷さんが立っていた。
「宗谷さん……。お疲れさまです」
私は立ち上がり、軽く頭を下げた。
彼はいつもと変わらない様子で、撮影スペースを見回していた。
「今日の撮影、順調そうだな」
「はい。スタッフの皆さんが、丁寧に準備してくださったので」
「そうか。さっき少し見ていたけど、いい表情をしていたよ」
胸の奥が、かすかに揺れた。
以前なら、その言葉だけで一日中幸せな気持ちになっていたかもしれない。
今だって、嬉しくないわけではない。
好きな人に褒めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
けれど、もう、その言葉だけに自分の幸せを預けなくてもいい。
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
「そう言っていただけると、励みになります」
宗谷さんは、少しだけ目を細めた。
「玲羅は、本当に頑張ってくれているな。看板娘としても、キャストとしても、これからも期待しているよ」
「はい。これからも、よろしくお願いします」
私は、まっすぐに彼を見つめた。
その瞳に映る私は、きっと、彼にとって大切なキャストの一人なのだろう。
それでいい。
今は、そう思える。
彼の隣に立つ特別な存在にはなれなかった。
それでも、彼と一緒にこの場所を支えていくことはできる。
彼が大切にしている宗谷艶月堂を、私も大切にしていきたい。
「……玲羅?」
「あっ、すみません。少し考えごとをしていました」
「疲れているなら、休憩を長めに取ってもいいんだぞ」
「大丈夫です。ちゃんと休んでいますから」
私は微笑んだ。
「それに、今日の撮影は楽しいんです」
宗谷さんは、少し驚いたような顔をした。
それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「そうか。それならよかった」
短い会話だった。
それ以上、何かを求めるつもりはなかった。
彼が私をどう思っているのか。
いつか、その気持ちが変わることがあるのか。
今は、もう考えなくてもいい。
私は、彼に微笑みかけた。
「宗谷さんも、お仕事頑張ってくださいね」
「ああ。玲羅も、無理はしないようにな」
「はい」
彼はスタッフに呼ばれ、撮影スペースを離れていった。
私はその背中を、ほんの少しだけ見送った。
まだ、好きだった。
その気持ちを、なかったことにはできない。
でも、今の私は、その想いを抱えたままでも前に進める。
そう思えた。
*
スタッフたちが帰り支度を始めたころ、宗谷は撮影スペースの入口で足を止めていた。
片付けの合間に、玲羅がスタッフと笑いながら話している。
先ほど撮影した写真を見せてもらい、嬉しそうに頷いていた。
その表情には、まだ少しだけ、言葉にできない影が残っているようにも見えた。
それでも、彼女は笑っていた。
無理に誰かへ見せるための笑顔ではなく、自分の気持ちから生まれた笑顔に見えた。
宗谷は、しばらくその姿を見つめていた。
そして、ほんのわずかに目を細める。
何かを言おうとして、結局、言葉にはしなかった。
「宗谷さん?」
ふと、玲羅がこちらに気づいた。
彼女は一瞬だけ驚き、それから、柔らかく微笑んだ。
「どうかしましたか?」
「いや。今日もお疲れさま」
「はい。宗谷さんも、お疲れさまです」
短い挨拶を交わす。
玲羅は、またスタッフの方へ向き直った。
宗谷は、その背中を静かに見送った。
やがて、彼女の笑い声が、片付けの音に混じって聞こえてくる。
宗谷は、小さく息を吐いた。
その眼差しは、穏やかだった。
けれど、その奥に何があるのかを、誰も知ることはなかった。
*
帰り支度を終えた私は、店の出口で一度だけ振り返った。
宗谷艶月堂。
私が働く、大切な場所。
ここには、たくさんの思い出がある。
嬉しかったことも。
悲しかったことも。
誰にも言えなかった秘密も。
そして、これから増えていく思い出も。
私は、そっと微笑んだ。
「……明日も、よろしくお願いします」
誰にともなく呟き、扉を開ける。
外へ出ると、夜の空気が頬を撫でた。
空には、月が昇り始めていた。
淡い光が街を照らし、遠くの雲を銀色に染めている。
私は空を見上げた。
あの夜も、月が出ていた。
泣いて、傷ついて、どうしようもなく苦しかった夜。
そして、仮想世界で温もりに包まれ、少しだけ前を向けた夜。
あの夜があったから、今の私がいる。
そう思える日が、いつか来るのかもしれない。
私は胸元にそっと手を添えた。
宗谷さんへの想いは、まだここにある。
けれど、その想いに囚われたままではなく、抱えながら歩いていこう。
いつか、この恋を懐かしく振り返れる日が来るかもしれない。
あるいは、ずっと大切な思い出として残り続けるのかもしれない。
どちらでもいい。
今はただ、自分の歩幅で進んでいきたい。
私は、もう一度だけ月を見上げた。
「……おやすみなさい」
小さく呟き、歩き出す。
月は、静かに夜空を照らしていた。
昨日と同じように。
今日も、そして明日も。
誰かの願いが叶わなくても、夜は明ける。
失ったものを、すぐには取り戻せなくても。
悲しみが、すぐに消えてくれなくても。
それでも、月はまた昇る。
そして、私もまた歩き出す。
自分自身の明日へ。
――今度は、自分のために笑えるように。
最後まで『艶月夜』をお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、誰かを好きになることの喜びと苦しさ、そして、想いが届かなかったとしても、その気持ちを抱えながら前へ進んでいくことを描いたお話です。
月白玲羅は、宗谷光への想いを胸に秘め、勇気を出して自分の気持ちを伝えました。
けれど、願った答えは返ってきませんでした。
大切な人に想いが届かないこと。
その人にとって、自分が望んだ存在にはなれないこと。
それは、簡単に割り切れるものではないと思います。
それでも、玲羅は自分の気持ちを否定することなく、少しずつ前を向こうとします。
誰かに愛されることだけが、幸せのすべてではない。
自分自身のために笑える明日も、きっとある。
そんな想いを、彼女の姿を通して描けていたら嬉しいです。
そして、物語の中で玲羅を支えた、もうひとりの宗谷光。
彼との時間は、現実では得られなかった温もりを玲羅に与えました。
その優しさが何を意味するのか。
彼の中に生まれた小さな変化が、これから何につながっていくのか。
その答えは、物語の余韻の中に残しておきたいと思います。
夜がどれほど深くても、いつか朝は訪れます。
そして、夜空を見上げれば、月はまた昇る。
叶わなかった願いがあっても、人は自分の明日へ歩き出せる。
玲羅の物語が、そんな小さな希望を感じていただけるものになっていたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
改めまして、『艶月夜』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
またどこかで、彼女たちの物語をお届けできる日があれば幸いです。
それでは、また次の物語でお会いしましょう。
宗谷艶月堂




