5 王妃アリシラ
(どうして)
アリシラの視線の先にいるのは、宮廷人に囲まれてちやほやされる義理の息子夫婦。辺境に追放されたはずの、シルヴェートとエルミナだ。
(どうして、こんなことになってるの……!)
彼らに気づかれる前に、アリシラは早足で自室に戻る。一人きりになった部屋で、みじめさと悔しさの交じった叫び声が響いた。
前世で読んだ小説の通り、アリシラはヨアキムと結婚した。幸せだった。けれどその蜜月は最初の数ヶ月で終わりを告げた。
小説では、二人の間に生まれた子供が次代の王位継承者になることを示唆されて。アリシラとヨアキムは末永く幸せに暮らしたと締めくくられていたのに。
ところが現実はどうだ。ヨアキムは知らない女達を侍らすようになった。みな、汚らわしい商売女だという。最悪だ。
宮廷人達も、日ごとによそよそしくなってくる。真面目な王の変わりように、誰もが困惑しているようだった。
「陛下、貴方の妻はわたくしですわ」
「もちろんだとも。愛しているよ、アリシラ」
嫉妬する顔も可愛いと、ヨアキムはアリシラに口づけをする。
アリシラの悋気を煽りたいから、彼はこのような振る舞いをするのだろうか? そうだ、きっとそうに違いない。そう思わないとやっていられなかった。
「陛下、新しいドレスを仕立ててくださいな」
「陛下、先日仕立てたドレスに合うアクセサリーが欲しいのです」
ヨアキムの愛を試すように、アリシラは目に見える形での誠意を求めた。王妃を飾るにふさわしい、最高級の品々を。
はじめ、ヨアキムはそれに応えた。だが、だんだんと億劫そうに振る舞うようになった。
「この前贈ったイヤリングで十分だろう?」
「何着もドレスを仕立てたが、結局一度も袖を通していないじゃないか」
『男の自発的な厚意以外で物をねだらない』『高貴な男を楽しませるのはあくまでも仕事であり、それに矜持を持ち、弁える』──そうしっかり教育の施された高級娼婦と比較した時、アリシラがあまりにもわがままに見えてしまっていたからだ。
「貴方は私ではなく、王室の財産と結婚したつもりなのか?」
「なんてことをおっしゃるの!? もとはといえば、貴方が商売女などにうつつを抜かすからでしょう!?」
いつの間にか、二人の間には喧嘩が絶えなくなる。ヨアキムを愛しているのに。愛しているからこそ、憎らしい。
「貴方もシルヴェート殿下と同じ理由で、わたくしを傷つけるのね!」
その言葉に、ヨアキムは何も言い返さなかった。そして彼は、アリシラへの当てつけのように離宮に籠るようになった。
何もかもがうまくいかない。娼婦ごときに王の寵愛を取られたと、貴婦人達に嗤われているような気がする。
それはアリシラの被害妄想だったが、ふさぎ込むアリシラはそれより深刻な噂が出回っていることに気づかなかった。
かつての婚約者だけではなく今の夫にも裏切られた悲劇の娘として、アリシラは社交界に復帰しようとした。
だが、そんな彼女を社交界は白い目で見ていた──シルヴェートがエルミナに入れ込むより前に、アリシラとヨアキムが男女の仲にあったという噂のせいで。
確かに、アリシラは昔からヨアキムに恋していた。何かと理由をつけてはヨアキムのそばにいた。
だが、それはいずれ義理の娘になるという理由で容認されていたはずだ。優秀な未来の王太子妃が、賢王から直々に王族としての心構えを学んでいる。そういう大義名分があった。
けれどもう、誰もその建前を信じてくれなくなっていた。
裏切られたのはアリシラではなくシルヴェート。傷ついたシルヴェートを慰めたのがエルミナで、あの二人こそが本当の純愛。
若い娘に手を出した男が、次の若い娘を狙うのは当然だ。娼婦を遊び相手に選ぶだけまだ理性がある──そんな風に囁かれ、針のむしろに座らされ。とうとうアリシラは音を上げた。何もかもが嫌になり、担っていた公務もすべて投げ出したのだ。
アリシラの実家である公爵家は悪質な噂を沈静化しようと試みてくれたが、火消しは思うようにいかなかった。否定しようとすればするほど、宮廷人達はそのゴシップを面白がるからだ。
アリシラには、もう誰が味方かわからなかった。味方のような顔をして近づき、新しい火種を聞き出すつもりなのではないか。疑心暗鬼に陥ったアリシラは、友人達すら遠ざけた。
「こんなはずではなかったのに」
あの小説通り、愛しい人と結ばれた。それなのに、幸せにはなれていない。一体何が違ったというのだろう。考えても答えは出なかった。
アリシラは気づかなかった。小説と現実では、『アリシラ』の行動が違っていたことを。
『小説のアリシラ』は、『小説のシルヴェート』が浮気することなど知るよしもない。『小説のアリシラ』は『小説のヨアキム』に憧れるあまり、『小説のシルヴェート』に彼を投影していた。『小説のヨアキム』とは節度のある交流を続ける一方で、『小説のシルヴェート』を理想通りの男に……『小説のヨアキム』の分身にしようとしていたのだ。
同世代の優秀な婚約者にねちねちした過干渉を受ける『小説のシルヴェート』は、やがてその性根をねじ曲げる。『小説のアリシラ』に激しい反発を示した彼は『小説のアリシラ』と異なるタイプの少女達と浮き名を流し、どうせ自分は出来損ないだからと自暴自棄に振る舞うのだ。可愛げのない『小説のアリシラ』を冷遇し、その果てに『小説のエルミナ』に真実の愛を見出した彼は、度重なる愚行への制裁として王位継承権を剥奪された。
けれど『現実のアリシラ』はそうではなかった。彼女は最初から『現実のシルヴェート』に興味を持たず、『現実のヨアキム』のことしか考えなかった。
『現実のシルヴェート』は、婚約者として『現実のアリシラ』の気を引こうとした。それを袖にしたのは『現実のアリシラ』だ。『現実のシルヴェート』に瑕疵があったとすれば、『現実のアリシラ』との婚約中に『現実のエルミナ』と親しくしていたことぐらいで……けれどその咎は、彼を廃嫡するほどのものとはみなされなかった。
だから、現実ではアリシラとシルヴェートの婚約は破棄されない。婚約の解消と、婚約者の交代だけが起きた。
そしてもう一つ。アリシラの知らないことがあった。小説に書いていなかったからだ。悪役に過ぎない『エルミナ』の父親が誰かなんて、『アリシラ』と『ヨアキム』の恋の物語には重要ではなかったから。
小説では、辺境に送られた『小説のエルミナ』は、『小説のシルヴェート』を捨ててとっとと逃げ出し、その道中で賊に襲われて殺されたとだけ書いてあった。
真実は、隣国の王によって祖国に連れ戻され、両国の外交問題を引き起こしかけた罰として処されたのだ。隣国の王が娘にその過剰な罰を下したのは、恐ろしき名君として諸外国にも影響力を持つ『小説のヨアキム』が遠回しに圧をかけたという背景があった。『小説のアリシラ』が再起した悪役達の逆襲を恐れていることを、賢く優秀な『小説のヨアキム』は汲み取っていたからだ。
もちろんこの真実も、『アリシラ』の知り及ぶところではないが。
『現実のヨアキム』は、『現実のエルミナ』の血筋と『現実のシルヴェート』の利用価値を考え、そこまでの制裁を下さなかった。『現実のシルヴェート』の地位を剥奪するとしても、それは『現実のヨアキム』と『現実のアリシラ』の間に健康な男児が生まれてからでも遅くないと判断したのだ。
そしてその判断が今、ヨアキムとアリシラに牙を剥いた。
*
「ヨアキム様、アリシラ様。これは宮廷の総意です。お二人には、南部の保養地にて静養していただきたい。後のことはすべて私達に任せ、どうか心安らかにお過ごしください」
無能のはずのシルヴェートが、家臣達を引き連れている。しばらくぶりに公の場に引きずり出されたアリシラは、久しく見ていなかった夫の姿を目にした。
記憶よりも少し太った気がする。美貌はいまだに健在だが、自堕落な暮らしぶりが見て取れた。あの凛々しかった彼を堕落させた娼婦達が憎らしくてたまらないと、アリシラは奥歯を噛み締める。
「父親を排除する気か」
「国と民を思ってのことです」
ヨアキムとシルヴェートは静かに睨み合う。
「私を追放したことを、お前はいずれ後悔するだろう。その時にはもう遅いぞ」
「貴方こそ、後悔なさらないでくださいね。人間の時間はあっという間に過ぎるものです。妻であるアリシラ様との時間を、もっと大事になさっては?」
シルヴェートにそう言われ、アリシラは思わずヨアキムを見た。不安そうなアリシラに気づいたのか、ヨアキムは小さくため息をつく。
「……私から妻を奪ったお前に、そんなことを言われるとはな」
「母は貴方と生きる未来より、私が生きる未来を望んでくれたのでしょう。あの方が命をかけて私を生んでくれたことを、私は何にも代えられないほど感謝していますよ」
おかげで最愛の運命の人に出会えたから。シルヴェートははっきりと告げる。
シルヴェートの隣には、美しいエルミナが寄り添っていた。シルヴェートに愛されているからか、幸せそうに輝いている気がする。
(わたくしだって、ヨアキム様に愛されていたのに)
なぜ。なぜ。なぜ。
なぜ主人公であるはずの自分がこうも落ちぶれて、悪役であるはずのあの二人が──
「アリシラ」
ヨアキムがアリシラを見ていた。輝くサファイアの眼差しは、深い海のようにアリシラを溺れさせる。
「わかった。王位は返上し、アリシラと二人で穏やかに暮らしていこう。贅沢はさんざん味わったから、次は心豊かな日々をのんびり楽しむとするか」
ヨアキムはアリシラの手を引いてその場を去る。久方ぶりの彼の温もりに、アリシラは思わず縋りついた。
*
与えられた離宮の外に出ることは許されない。それでもアリシラは満ち足りていた。ヨアキムが女遊びをやめて、アリシラだけを見てくれるようになったからだ。
「アリシラ、庭園の花が見頃を迎えたようだ。一緒に散策しようか」
「はい、ヨアキム様!」
もうアリシラは王妃ではない。それでも、もう一度幸せを再構築できた。
不安定だった精神は、徐々に安定を──
「ごらん。貴方によく似合いそうだ」
生け垣の花を取ろうと、ヨアキムは腰をかがめた。
(あ)
アリシラは、ヨアキムの金色の髪が少し薄くなっていることに気づいた。
この人は、わたくしより年上だ。
この人は、どうあってもわたくしより先に逝ってしまう。
限られた時間の中で、この人はまたわたくしを裏切ることがあるかもしれない。
けれど今、この人はわたくしだけを見ていてくれている。
アリシラの頭の中をぶわりと思考が駆け巡る。
そして最後に、シルヴェートの言葉が蘇った──「貴方こそ、後悔なさらないでくださいね。人間の時間はあっという間に過ぎるものです。妻であるアリシラ様との時間を、もっと大事になさっては?」
(その言葉のおかげで、ヨアキム様は行いを改めてくれた。不安がるわたくしに、やっと寄り添ってくれた)
──この離宮には、シルヴェートの息のかかった使用人しかいない。
──この離宮の至るところには、鋏やナイフがこれ見よがしに置かれ、根に毒を持つ美しい花が植えられている。
──この離宮の使用人は全員通いで、アリシラとヨアキムと顔を合わせることはほとんどない。深夜と早朝に最低限の家事だけ済ませていなくなるから、誰もアリシラとヨアキムの邪魔をしない。
(もうヨアキム様を失いたくない。あんなみじめな思い、二度としたくない)
アリシラの視界の隅で何かが光った。太陽の光を受けて輝いているのは、庭師が片付け忘れた剪定鋏だった。
ヨアキムはアリシラに背を向けている。
娼婦達の甲高い笑い声が聞こえた気がした。
二人の愛を永遠にとどめておく、素晴らしい手段。救いを求めて祈るように、アリシラはそれに手を伸ばした。




