6 男爵令嬢だったエルミナ
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王宮の片隅で、エルミナは膝を抱えて泣いていた。
今日はエルミナの、腹違いの姉の誕生日。第一王女として人々に慕われる少女が無事に一つ歳を重ねたことを祝う、華やかなパーティーの日だ。
五歳のエルミナにとって、十ほど年の離れたその姉は、きらきら輝く憧れのお姫様だった。エルミナは一生懸命覚えた淑女の礼を執って彼女にお祝いの言葉を言った。異母姉は微笑んでお礼を言った。
緊張しながら挨拶を済ませ、エルミナはパーティー会場の端っこに来た。そして付き添いの乳母に、喜びと興奮を隠さずにまくしたてた。
「王女さまのドレス、とってもすてきだったの! ぴかぴかの石もたくさんつけててね、いつかわたしも、あんなお姫さまになりたいなぁ!」
その瞬間、優しい乳母は表情をこわばらせた。そしてエルミナを会場から引きずり出した。
「二度とそのようなことを言ってはなりません! 立場を弁えてくださいませ!」
幼いエルミナはただ、可愛くて綺麗なものへの憧れを口にしただけだった。
それでも乳母は、その言葉を王の落胤の野心と受け取った。
寵姫の子供は、王の血を引くだけで正式な王族ではない。男児であろうと女児であろうと寵姫の実家に引き取られ、その家の子供として育てられるのがこの国の習わしだ。
しかし、その身に流れる尊い血には価値がある。王家の政略上の駒として扱われ、王家との繋がりを持ちたい家に婿や嫁として求められるのが常だった。
だから寵姫の子供は、王と王妃、そして王妃が生んだ王家の子供達に従順に仕える存在でなければいけない。
あんなお姫様になりたい──第一王女になりたいなんて、決して言ってはならないのだ。
何故自分が怒られたのか、幼いエルミナには理解ができない。だってエルミナにそんなつもりはなかったのだから。
突然の叱責に、エルミナは火がついたように泣き出してその場から逃げ出した。
脇目も振らずに走り続けて迷子になったエルミナは、その場にしゃがんで泣き続けた。今泣いているのは、知らないところでひとりぼっちになってしまった心細さのせいだ。男爵家で育ったエルミナが王宮に来ることは数えるほどしかなかったので、王宮の地理に明るくなかった。
「大丈夫……?」
幼い少女の泣き声に気づいたのは、駆けつけてきた兵士ではなかった。きらきら輝く真っ青な宝石のような目をした、知らない男の子だ。
「ま……迷子になって、しまったんですか……?」
男の子はハンカチを差し出す。エルミナはしゃくり上げながらそれを受け取った。綺麗な顔をした優しい彼が、絵本の王子様に見えた。
「じつは、ぼくも迷子なんです。迷子になったらだれかさがしてくれるかなって思ったけど、だれもきてくれなくて。……ぼくたち、同じですね」
男の子はエルミナの隣に座った。男の子も泣きそうな顔をしていた。
「あなたの……お父さまと、お母さまは……?」
「母上はいません。父上は……母上がいなくなったのはぼくのせいだから、ぼくのことがきらいなんです」
エルミナは伯父夫婦である養父母にも、実の両親にも可愛がられている。もちろん王である実父からの愛は、寵姫の子供に向けるものとしての範疇を逸脱したものではない。王からの寵愛を理由にして王妃やその子供達から嫌われているわけでもなかったから、男の子の言っていることはよくわからなかった。
「このままぼくも、いなくなれたらなぁ……」
「……やだ。そしたらわたし、一人になっちゃう」
エルミナはまた目を潤ませる。けれどぐしぐし目をこすって、男の子の手を取って立ち上がった。
「きっとみんな、わたしたちをさがして迷子になっちゃったのよ! だから、わたしたちが見つけてあげないと!」
男の子はきょとんとした。けれどすぐに笑い出す。
「そっかぁ。なら、しかたないですね」
王子様のまぶしい笑みに、エルミナは釘付けになった。
これがエルミナの初めての恋の記憶。
男の子に気を取られていたせいで、それからのことは覚えていない。多分大人に見つけてもらって、二人はそれぞれの親元に引き渡されたのだろう。名前も知らない、あの青い目をした男の子とは、それきり会うこともなかった。
幼い日のことで、エルミナの視界も涙のせいでぼやけていたから、彼のことはあの印象的な瞳しか覚えていない。
それでもエルミナにとっては、初々しくて甘酸っぱい大事な思い出だった。
*
男爵令嬢エルミナには婚約者がいた。王家の血目当ての、典型的な政略結婚だ。
相手の男とは、はっきり言ってそりが合わない。侯爵家の嫡男で、王家の血さえなければお前みたいなちんちくりんと結婚するわけがないと言うのが彼の口癖だった。
エルミナは確かに父王に愛されているが、それで王に何か個人的なわがままを聞いてもらえるかと言うとそういうわけでもない。そんなことをすれば、寵姫の子供のくせに身の程を弁えていないと怒られる恐れすらある。だからエルミナは、婚約者の横暴にはその都度言い返しつつ、いやいや婚約を続けていた。
しかしとうとう我慢の限界が訪れる。招かれてやってきた隣国の大きな舞踏会でのことだ。エスコートしてくれるはずの婚約者にドレスを贈られないという屈辱を味わわされた挙句、婚約者は以前からの浮気相手である伯爵令嬢としれっと会場で合流した。そしてエルミナに見せつけるように、彼女と踊り出した。
伯爵令嬢はエルミナが自分で用意したドレスにジュースをかけ、エルミナを舞踏会から締め出そうとした。婚約者も彼女と一緒になってエルミナを馬鹿にして嗤う。カッとなったエルミナは、とうとう婚約の解消を宣言してその場から立ち去った。
(あーあ。国に戻ったら、きっとすごく叱られるだろうな。勝手なことをするなって)
何もかもが嫌になったエルミナは、異国の宮廷のテラスでぼんやりと夜空を見上げていた。
とはいえやってしまったものは仕方ない。エルミナはすべてを諦めて室内に戻ろうとした。
その時、一人の少年と目が合った。
彼のことは知っていた。祖国の催しで、賓客の一人として招かれているのを見たことがある。何度か挨拶をしたこともあった。
婚約者とその浮気相手と喧嘩したなんて、わざわざ言う必要のないことを言ってしまったのは、やけになっていたからだ。けれど相手は意外にも乗ってきた。
「わたしはその場で婚約解消を言い渡しましたけど、シルヴェート王子はどうされました?」
「それができるだけの勇気がないもので」
今にも泣きそうなその青い目に、懐かしい既視感があった。
初恋の王子様の姿が重なる。彼があの時の王子様であるかなんてわからない。でも、どうしても放っておけなくて。
せっかく宝石のような美しい目をしているのに、その目がこれ以上悲しみに染まっているのが見ていられなかった。
どうせ侯爵家との縁談を台無しにした罰を受けることになるなら、その前に誰かの役に立ってみたかった。
理由なんてそれだけだ。だからエルミナは、シルヴェートの手を取った。
結論から言えば、エルミナが祖国の誰かに怒られることはなかった。侯爵家の嫡男の日頃の素行の悪さと、他国の舞踏会で揉め事を起こしたことが、“あの家は王家の血を嫁がせるには値しない”と判断されたからだ。こんなことならもっと早く不満を訴えていればよかった。
エルミナが怒られなかった理由はもう一つ。エルミナが─個人のわがままではなくあくまでも政略として─隣国の王太子であるシルヴェートとの婚約を打診したからだ。
シルヴェートは現在の婚約者と不仲であり、シルヴェートは彼女の不貞に悩まされている。
この国には、シルヴェートと釣り合う年齢の未婚の女性王族がいない。適しているのは寵姫の子供であるエルミナだけだ。
不良債権の侯爵家より、国力が高い隣国の王家のほうが旨味のある相手だ。
これらの事情が噛み合い、父王はエルミナの新しい縁談を承諾した。
過去には寵姫の子供が他国の王族に輿入れした例もある。それは人質という意味が強いので今回とは事情が異なるが、今のシルヴェートが王太子としてはやや不安定な立場であることも手伝ってすんなりと許可は降りた。
なんやかんやでエルミナが実権を得ればそれでよし、もし何か問題が起きてもエルミナなら切り捨ていいとみなされたのだろう。
そしてエルミナは、なんやかんやで正しく権力を持つ王太子妃に……否、王妃になった。
かつて夢見たきらきらのドレスや宝石を望んでも、誰もエルミナを咎めない。憧れていたお姫様に、エルミナはとうとうなることができた。それ以上に嬉しいのは、傍にシルヴェートがいることだけど。
公務と並行して王妃教育を受けているが、正直結構大変だ。基本的な淑女の教養は男爵家で身につけていたが、それだけでは不十分。この国にはこの国の礼儀作法があるのだから。
催しを開く時の家格ごとの席次や挨拶の順番、主催の時と来賓の時のマナー。国内の貴族達の名前と家系図はもちろん、国中の有力者のことまで。覚えることは山ほどある。
それでもエルミナは音を上げない。勉強の後の息抜きでシルヴェートがお茶会を開いたりデートに連れ出してくれたりするのが嬉しいし、困った時は頼りになる女官達やシルヴェートが助け舟を出してくれるからだ。
それに理由はもう一つある──国母になる以上、誰にも恥じない王妃でありたい。
「エルミナ、開拓村から献上品が届いたよ。彼らの手作りみたいだ。見て、ユリアンのための靴下にブランケット、毛糸の帽子もある」
「本当? 嬉しいわ! 久しぶりに村の人達にも会いたいわね。次に視察に行けるのはいつかしら」
「再来月に北部の領主達との会合があるから、その時に開拓村にも顔を出そうか」
やってきたシルヴェートに目くばせされ、乳母は抱いていた小さな王子を恭しくシルヴェートに捧げた。シルヴェートは柔らかく微笑んで息子を抱く。父親にあやされ、赤子はきゃっきゃっと声を上げて笑った。
「ユリアンがもう少し大きくなったら、この子も一緒に村に連れて行きたいね」
「いいじゃない。シルヴェート提督のマント、着せてあげたら?」
エルミナは愛息子の頭を撫でる。最愛の人との間に生まれた可愛い息子が健やかに育っていくのが楽しみで仕方なかった。
シルヴェート譲りのサファイアの目は、世界のすべてに希望を見出しているかのように今日もきらきら輝いている。




