4 王太子だったシルヴェート
「宰相達が早めに私達を呼んでくれてよかったよ。おかげで今回の醜態は、広く知られることはないだろう」
書類仕事に要人との会談、それから各地の視察。溜まっていた政務の山をなんとか片付け、シルヴェートとエルミナは束の間の休息をとる。
お茶の席には、エルミナの好きなお菓子をたくさん用意させていた。夫婦水入らずのお茶会で、二人はお互いの健闘を称えた。
「それにしても、一体どうしたのかしら。ヨアキム王が急に女遊びに走るだなんて」
「根が真面目だったからこその反動だろうね」
シルヴェートはティーカップを口元に寄せる。苦みがなくてまろやかなこの味わいは、シルヴェートが好む茶葉のものだ。
「私は貴方のおかげで自分に自信を持つことができた。それと同じように、父もアリシラ妃で自信をつけたんだ。……これまで母に操を立てていた分、一度解放された欲の抑えが効かなくなったんだろう」
若く美しい女性に言い寄られて激しく求められ、ヨアキムは己の男としての価値を過信した。そしてそれが暴走を招いた。
「ヨアキム王は十代の若い娘が好き」「息子の婚約者を略奪するような特殊性癖もある」「自分の子供とその婚約者の未来を守るために、手練手管に長けた娼婦を先にあてがって満足させては?」と考えた高位貴族が素知らぬ顔で王に高級娼婦を紹介するようになったのは、シルヴェートがきっかけなのだが。
辺境にいようと手紙のやりとりはできる。最初の布石は、孫の様子を気にした亡き母妃の実家。開拓地での充実した暮らしを伝える手紙の中に、それとなくヨアキムへの不安を綴った。
“本当はずっと父とアリシラは不貞を重ねていて、それに耐えきれなくなったからエルミナに惹かれてしまった。万が一エルミナまで父に奪われたらもう立ち直れない。だから王都を離れられて安心している”──誰にも届かないと思っていた在りし日の悲しみを、シルヴェートはやっと誰かに伝えることができた。
シルヴェートがもたらした疑念は、またたく間に宮廷に広まった。
王妃が亡くなってから、ヨアキムは新しい王妃を選ばなかった。だから貴族達は太陽王の決断を尊重し、誰も後任の妃を差し向けようとはしなかった。
けれどアリシラがその不可侵の領域を崩した。だから、もう配慮しなくていいと考えたのだ。
高級娼婦を斡旋した者の中には、その中に─高級娼婦ではない─自分の息のかかった女をまぎれこませて、彼女を寵姫にすることで自分が権力を得ようと思った者もいたかもしれない。太陽王を沈ませたいと願う佞臣もいたのだろうか。
理由はさておき、若くて魅力的な娼婦達が王を誘惑した。そして宮廷人の予想した以上に、王はその色香に溺れてしまった。英雄色を好むとはよく言ったものだ。女遊びを覚えた男盛りの国王は、妃一人では満足できなくなったのだから。
ヨアキムには、これまでの治世で積み上げてきた信頼がある。今回はその貯金を少し切り崩しただけで済んだ。
だが、これからもそうだとは限らない。民が抱く王室への敬意と信頼が揺らぐ前に、正しく対処しなければ。
「父には遠方の離宮に行ってもらう。アリシラ妃も一緒にだ」
もうヨアキムに政治への関心はないだろう。仮にまだ残っていたとしても、家臣達はヨアキムの復権を望まない。だってヨアキムの為政者としての才能がまだ枯渇していないと思っているのなら、シルヴェートを呼び戻そうとはしないのだから。
宰相のような賢い臣下は理解している。欲はつけ入る隙になることを。ぴかぴか光る偶像を永遠にとどめておくには、その瞬間を切り取ってしまえばいいことを。
ヨアキムという理想の王は、すでに栄華の頂点に登りつめた。全盛期を過ぎれば、後は緩やかに衰退していくだけだ。さんさんと輝く太陽王が斜陽を迎えていくさまなど、わざわざ民に見せなくていい。
ヨアキムは為政者として十分頑張った。これからは田舎で好きなだけ自由に暮らしたらいいだろう。
それに、ヨアキムとアリシラを四六時中一緒にいさせておけば、そのうち二人の仲も修復できるかもしれない。シルヴェートのささやかなこの贈り物には、あの二人もきっと喜んでくれるはずだ。
「天才ありきの体制も変えていかないとね。一握りの天才が台頭するのはもちろん素晴らしいことだが、世間には私のような凡人のほうが多い。天才の基準に合わせていれば、やがて社会はひずみを生んでしまうだろう」
打って変わって自分に頭を下げる臣下達を思い、シルヴェートは小さく笑った。
理想が美しければ美しいほど、ほんの小さな瑕疵でさえ大きな失望を招く。亡き妻を偲び続ける賢王は、もうどこにだっていないのだ。
これで誰も、シルヴェートをヨアキムのおまけだとは見なさない。これからはシルヴェートの時代が来る。
「……大丈夫? 後になってヨアキム王とアリシラ妃が戻ってきたり、お二人の子が権利を主張したりしたら……」
「もしそれで私の立場がおびやかされるのなら、私はそれまでの王だったということさ。もちろん、そうならないように努力するけどね」
エルミナに愛されてシルヴェートは変わった。優しく明るいエルミナが、シルヴェートの心の欠落を埋めてくれた。
けれど、どうあってもシルヴェートは清廉潔白な君主にはなれない。光り輝く在りし日のヨアキムのような、圧倒的なパワーで周囲を虜にして引っ張っていくような天性のリーダーシップはシルヴェートにはなかった。
その代わり、シルヴェートの裡には暗い炎が燃えている。生まれながらに恵まれた天才では持ち得ない、狡猾さと執念深さ。それが、己の弱さと向き合ったシルヴェートが手に入れた新しい武器だった。
(かつての私は怠惰で無力だった。何もかもを諦めて、つまらない生き方をしていた)
あの頃の自分は空っぽだった。誰からも見向きもされなかったのも当然だ。
(でも、私はエルミナと出会った。あんな情けない私を、エルミナは一人の人間として向き合ってくれた。だから私は私なりのやり方で、エルミナの想いに応えたい)
純粋なカリスマでは、シルヴェートはヨアキムに敵わない。だから謀略を張り巡らせる。この世代交代を、当然のものとして周囲に認めさせられるように。
蟄居させたヨアキムとアリシラの間に男児が生まれれば、その子はシルヴェートの異母弟として王位継承権を持つ。けれど継承権はシルヴェートとエルミナの子のほうが上だ。だってヨアキム達を隠居させた時点で、シルヴェート達が新たな国王夫妻になっているのだから。
高級娼婦達には避妊の心得がある。仮に身ごもった者が出ても、非嫡出子に継承権は与えられないから問題ない。信頼できる家臣に養子として預けて、王家と家臣の結びつきを強めるのがこの国の昔からの慣例だ。高貴な男との間に子供ができた時の振る舞いは高級娼婦達もよく心得ているから、心配はいらなかった。
だから問題は、先王夫妻とその子供のどちらか、あるいは両方が現状に不満を持った時。
そうなる可能性の芽は、可能な限り排除しておかなければならない。
(父上。貴方が本当の意味で私を見てくれたことは一度もなかったし、貴方の背中はまぶしすぎてとても追えなかった。……だけど一つだけ、貴方から学んだことがある。嫉妬と劣等感は人を簡単に壊すのだとね)
エルミナが紅茶を飲み干した。すかさずシルヴェートはティーポットを手に取り、彼女のために手ずから紅茶を注ぐ。エルミナははにかみながら礼を言った。そんなエルミナに、シルヴェートはいたって深刻な表情を作る。
「ねえ、エルミナ。私は怖いんだ。あの男と同じ血が、私にも流れていることが。いつか私も、父のように欲に溺れて道を踏み外してしまうんじゃないか? 父と同じ過ちを、私も犯してしまうかもしれない。そうなったら、私は王としても貴方の夫としても失格だ」
「……未来のことは誰にもわからないわ。だから貴方の不安を、無責任に否定できない。でも、一つだけ言わせて」
何があっても、わたし達は夫婦だから──
エルミナの言葉は、シルヴェートの求めるものだった。
「どうか私をずっと見ていて、エルミナ。私が貴方を裏切る隙を作らないように。もしも私に裏切られたと思ったのなら、すぐにでも私のことを罰してくれ。貴方が与えてくれる戒めだけが、私を人間にしてくれるんだ」
かつて愛に飢えた少年がいた。誰からも必要とされず、誰かに認められることもなく、日陰でうつむくだけの少年が。
けれど彼をそこから連れ出してくれた少女がいた。ずっと欲しかった愛を、少女は惜しみなく与えてくれた。そんな彼女は、少年にとって生きる理由そのものになった。
だから彼女だけは絶対に奪わせない。失いたくない。彼女の嫌がることをして、彼女に嫌われるのも嫌。
その果てに思いついたのが、彼女に自分の生殺与奪権を委ねることだった。過剰に束縛したら嫌われるかもしれない──なら、こちらが望んで束縛されるのは?
「急にどうしたの、シルヴェート? ずいぶん心配性なのね。まあいいわ。それで貴方が安心できるなら、いつでも監視してあげる。わたしの前で浮気できると思わないことね」
エルミナはくすくすと笑う。その無邪気な笑顔を見て、シルヴェートも心からの笑みを浮かべた。




