第29話 夢魔だってのんびりしたい夜もある
カラン。
「いらっしゃいま、せ」
いつものように声をかけた瞬間、少しだけ息が止まった。
入ってきたのは――美女だった。
長い黒髪。
夜色の薄いドレス。
歩くたび、ふわりと甘い香りが揺れる。
視線の流し方まで、妙に艶っぽい。
頭の横から小さな黒い角。
背中には、薄く艶のある羽。
腰のあたりでは、細い尻尾がゆっくり揺れていた。
……うん。
これは。
「こんばんは」
女性が、やわらかく微笑む。
「今日は仕事じゃないの。静かに甘いお酒を飲ませて」
非常に甘い声を出しながら、女性がカウンターにスッと座る。
「かしこまりました」
バーのマスターに必要なのは、どんなお客様にも平等に接することだ。
たとえ、明らかに“色気が服を着て歩いている”ようなお客様であっても。
「どうぞ」
リキュールにカカオを重ね、クリームのやわらかさを足した一杯を差し出す。
甘いが重すぎず、夜に溶けるような酒。
「ありがとう」
指先でグラスを持ち上げる女性の姿が妙に艶っぽいのは、たぶん気のせいではない。
一口飲んで、目を細める。
「……いいわね」
「ありがとうございます」
「甘くて、少しだけ強い。仕事じゃない夜にちょうどいいわ」
「それは何よりです」
仕事。
この方の仕事とは、なんだろうか。
いや、聞かない。
バーのマスターには、踏み込まない技術も必要である。
「夢魔か」
カウンターで静かに飲んでいた吸血鬼さんが踏み込んだ。
お客様同士が踏み込む分には、私の技術範囲外である。
「あら、正解」
夢魔さんが楽しそうに吸血鬼さんを見る。
「わかるのね、さすが吸血鬼さん」
「……身に纏っているのは香水のようなものか?」
優雅にグラスを揺らしながら吸血鬼さんが返す。
おお、なんか貴族の社交場のような空気だ。
「まあ、種族の匂いみたいなものよ。気を抜くと漏れちゃうの」
おそらく夢魔さん自身は、本当にただ飲んでいるだけなのだと思う。
だが。
彼女がグラスを傾けるたびに、店の空気がほんのり甘くなる。
「ふむ。私には効きが薄いな」
「あら」
「吸血鬼は夜に慣れている。甘い気配も、闇の誘いも、すべて夜の一部だ」
「素敵な言い方」
二人はにこやかに会話を続けている。
強い。
非常に強い。
「そっちのお姉さんにも効いてないみたいだけど、聖職者かしら?」
今度は夢魔さんが聖女様に話しかける。
「はい。聖女と呼ばれております」
「あら」
夢魔さんの瞳が少しだけ細くなった気がする。
「私も、少しふわふわする程度ですね」
「聖女様だから?」
「神のご加護もあるかもしれませんが」
にこにこしたまま、聖女様はグラスを持ち上げる。
「今日はお酒の方が勝っています」
「え、お酒に負けたの?」
「良いお酒ですので」
夢魔の魅了を酒の力で受け流す聖女。
神はそれでいいのだろうか。
聖女様がいいなら、いいのかもしれない。
一方で、問題は私だ。
いや、別にどうということはない。
綺麗なお姉さんが微笑んでいて、ちょっとだけ心拍数が上がっているだけである。
営業に支障はない。
たぶん。
「マスター」
夢魔さんが、少しだけこちらへ身を乗り出した。
「はい」
「あなた、面白いわね」
「そうでしょうか」
「落ちそうで落ちないのが可愛いわ」
落ちそうだというのは否定したい。
「女の人に翻弄されることに慣れてるのかしら」
「そのような経験は特に」
「へぇ、じゃあ私が初めてかしら?」
夢魔さんが、甘い笑顔を浮かべる。
吸血鬼さんが、少しだけこちらを見た。
聖女様も、微笑んでいる。
明らかに助ける気がない。
この二人、完全に観戦する気である。
「ね」
夢魔さんが、少しだけ身を乗り出す。
甘い香りが近づいてくる。
「私って、好みの幅が広いの」
「そうなのですね」
絡めとられそうな声。
なんて答えるのが正解なのかわからない。
「――どう?今夜」
夢魔さんの指が、カウンターの上をゆっくり滑る。
こちらへ。
ほんの少しだけ。
私の手に。
触れるか、触れないか。
その手前で。
「そこまで」
奥の席から低い声がして、店内の空気が一瞬で変わった。
夢魔さんの指が止まる。
奥の席に、魔法使いさんが姿を現した。
脚を組み、頬杖をつき、ちょっとだけ不機嫌そうな顔をしている。
「休みだと言うならちゃんと魅了止めなさい。迷惑よ」
「迷惑だなんて」
夢魔さんが、魔法使いさんと私を見比べて、甘く笑う。
「嫉妬かしら?」
吸血鬼さんは、面白そうにグラスを持ち上げる。
聖女様は、にこにこしたままグラスを飲み干す。
私は空気が「ピシィッ!」と鳴った音を聞こえなかったことにして、お代わりを作る。
魔法使いさんは、ゆっくりと笑った。
「常連としての注意よ」
「ふぅん?」
夢魔さんが唇だけで妖艶に笑う。
「なら、私にも一口くらいちょうだい?」
「何を」
「あら、言っていいの?」
「嫉妬じゃないって言ってるでしょ!?」
魔法使いさんが翻弄されている。
珍しい。
「だって、あなた、ずっと割り込む隙うかがってたじゃない」
「うかがってない」
「じゃあ何?マスターの顔が赤くなるまで待ってたの?」
「待ってない!」
「へぇ。じゃあ、このままマスターに触ってもいいでしょ?」
「だめに決まってるでしょ!」
魔法使いさんの声が、少し高くなる。
一方で夢魔さんは、楽しそうに片眉を上げる。
「やっぱり嫉妬じゃない」
「違うって言ってるでしょ!」
聖女様が、そのやり取りを見ながら穏やかにグラスを傾ける。
「魔法使いさんも楽しそうで何よりです」
「楽しんでないわよ!」
魔法使いさんの声が飛んだが、聖女様はすべてを受け止める微笑みで頷いた。
強い。
吸血鬼さんも楽しそうな顔を隠そうとしない。
「いい肴だ。マスター、お代わりを」
肴。
目の前のやり取りのことだろう。
否定は難しい。
「かしこまりました」
私としてもあの二人の争いに巻き込まれたいとは思わない。
何を言っているのか、わからないからだ。
わからないとも。
「夢魔さん」
穏やかに聖女様が話しかける。
「なあに、聖女様?」
「お仕事は、大変なのですか?」
その問いに、夢魔さんは少しだけ目を丸くした。
それから、グラスの中を見つめる。
「……大変というか」
少しだけ、声の温度が変わる。
「誤解されやすいのよ」
「誤解」
「夢魔だから、誘惑して当然。相手を溶かして当然。そう思われる」
「なるほど」
「ただ座っているだけなのに、周りが勝手に甘くなる。声を出すだけで、相手が勘違いする」
「それは疲れますね」
聖女様が真面目に頷いた。
この人は本当に話を聞くのが上手だ。
「誰かを落とすためじゃなくて、ただ美味しいお酒を飲みたいだけの日もあるのよ」
「とても自然なことだと思います」
「……ありがとう」
夢魔さんは、聖女様に軽くグラスを掲げた。
「聖女って、もっと説教してくるものかと思ってた」
「説教が必要な時はしますよ」
「必要?」
「たとえば、無理に誰かの心を奪おうとした時など」
聖女様は、にこやかに言った。
笑顔だった。
だが、少しだけ圧があった。
「……気をつけるわ」
「はい」
聖女様は満足そうに微笑んだ。
夢魔さんも笑った。
甘い空気が、少しだけ柔らかくなる。
「出力が安定してきたじゃない」
聖女様の介入で魔法使いさんも落ち着いたのか、いつもの楽しそうな表情で口を挟む。
「お酒が効いてきたのかしら」
ほんのり赤くなった頬を押さえながら夢魔さんも返す。
「それもあるでしょうね」
「夢魔が酔うとどうなると思う?」
「面倒そう」
「ひどい」
「違うの?」
「少しだけ、甘えたくなる」
「やっぱり面倒じゃない」
魔法使いさんの即答に、夢魔さんが笑った。
「でも、あなたもずいぶんこの店に馴染んでいるのね」
「馴染んでないわよ」
心外だと言う表情で答える魔法使いさんを見て、吸血鬼さんが小さく笑う。
「馴染んでいるだろう」
「吸血鬼さんまで」
「常連として店の秩序を守ろうとしたのだろう?」
「そうよ」
「それを馴染んでいると言うのではないか」
「……」
吸血鬼さんの言葉に魔法使いさんは、少しだけ黙った。
聖女様が微笑む。
「良きことです」
「聖女様、そういうまとめ方ずるいわ」
「そうでしょうか」
今日は、魔法使いさんが全体的に劣勢のようだ。
「いい店ね」
夢魔さんがそのやり取りを眺めて、とても楽しそうな表情でこちらを向く。
その言葉は、私にとってはとても嬉しい。
「ありがとうございます」
「ただ、ちょっと強い魔法使いに怒られたけど」
「怒ってないわ」
「嫉妬?」
「違う」
「本当に?」
「違う」
「じゃあ、マスターにもう一回近づいても?」
「ダメ」
「ほら」
「常連としての注意よ!」
夢魔さんがからかうように、私に少し手を伸ばす。
吸血鬼さんは、完全に肴として楽しんでいる。
聖女様は、見守りながら微笑んでいる。
魔法使いさんが、少し不貞腐れている。
……私で遊ばないでほしい。
けど。
魔法使いさんが対人で劣勢なのが珍しく、少しだけ見てて楽しかった。
――そんなこと考えているのがバレたら、怒られるだろうけど。




