第25話 お休み(下)
⑥ 聖女
「聖女様、本日もお美しいわ……」
「見て、あの穏やかな横顔」
「きっと、世界平和を祈っていらっしゃるのよ」
「尊いわ……」
教会の中庭を歩いていると、そんな声が聞こえてきます。
皆様が私に向けてくださる敬意は、ありがたいものです。
ありがたいものです。
本当に、ありがたいものです。
ですが。
今、私が考えていることは世界平和ではありません。
いえ、世界平和ももちろん大切です。
それは大切です。
大切ですが。
今日は、あのバーがお休みです。
マスターさんが、昨日、丁寧に教えてくださいました。
『明日は用事でお店を閉めますからね』
とても穏やかな声でした。
私も微笑んで頷きました。
そして今。
人目を気にせず、気兼ねなく、全力でお酒を飲める場所が本日はない、という事実に向き合っています。
これは試練です。
おそらく、神が私に与えた試練。
休肝日の試練。
……休肝日。
良い言葉ですね。
神聖さがあります。
肝臓を休ませる日。
身体を慈しむ日。
祈りと節制の日。
そう考えると、とても尊いもののように思えます。
「聖女様」
「はい」
年若い神官見習いの少女が、緊張した様子で近づいてきました。
「本日の予定ですが神殿長との会食がございます」
「会食」
「はい。北方修道院から届いた薬草茶をいただきながら、今後の支援についてお話しされるとのことです」
「薬草茶」
「はい」
私は微笑みました。
微笑みました。
きっと、とても穏やかな微笑みだったと思います。
「聖女様、何か?」
「いえ」
薬草茶。
身体に良いものです。
とても良いものです。
ですが、今日は本当に休肝日のようです。
神の意志が強い。
「神の御心のままに」
「はい!」
神官見習いの少女は感動したように頷きました。
違います。
私はただ、薬草茶かぁ、と思っただけです。
ですが、それを言うわけにはいきません。
聖女ですから。
「聖女様」
年配の司祭様が、静かに近づいてきました。
「はい」
「どうかご無理はなさらず」
「ありがとうございます」
「最近、少しお元気そうで安心しております」
「そうでしょうか」
「はい。以前より、よく笑っておられる」
私は、少しだけ目を伏せました。
あのバーのことを思い出します。
魔法使いさんが笑い、大学生女子さんが恋占いで盛り上がり、魔王さんが真面目に困っている。
あの場所では、私は聖女ですが、ただのお客様でもあります。
それが、少しだけ楽なのかもしれません。
「良い場所を見つけたのです」
「そうでしたか」
「はい」
「それは何よりです」
司祭様は、それ以上聞きませんでした。
ありがたいことです。
私は空を見上げました。
青く、高く、雲がゆっくり流れています。
今日は我慢しましょう。
明日、たくさん飲めばいいのです。
これは堕落ではありません。
調整です。
計画的な信仰生活です。
⑦ 魔王
魔王城に、休日という概念はある。
あるにはある。
だが、魔王に適用されるかは別問題である。
「こちら東方氷獄将からの嘆願書でございます」
「何の」
「暖房費の増額です」
「氷獄将なのに?」
「部下が寒いそうです」
「氷獄将なのに?」
「はい」
我は、玉座で頭を抱えた。
骸骨宰相は、平然とした顔で書類を積んでいる。
「緊急度が高い書類はこちらでございます」
「……勇者ごっこにおける安全基準」
骸骨宰相が、真面目に頷く。
「はい。木の枝を聖剣に見立てて走る幼子が増えておりますので」
「角に当たると危ないな」
「はい」
「よし、柔らかい模造剣を作らせよ」
「すでに試作品を手配しております」
「さすがだ」
有能である。
「しかし、問題がございます」
「何だ」
「魔王軍の鍛冶工房が、逆に切れ味の鋭い剣しか作れず困っております」
「……困ったな」
「困っております」
なぜ、柔らかい剣が作れない。
いや、よく考えれば当然かもしれない。
我が軍の鍛冶工房は、魔将軍の大斧、黒騎士団の剣、地獄竜の鱗を貫く槍を作ってきた職人たちである。
安全な玩具を作る訓練はしていない。
「試作品をご覧になりますか」
「ああ」
骸骨宰相が合図すると、部下が一本の剣を持ってきた。
見た目は可愛らしい。
丸い装飾。
短めの刃。
柄には小さな翼の模様。
「ふむ」
我は剣を手に取った。
「軽いな」
「はい」
「柔らかそうだ」
「はい」
机の端に軽く当てる。
机が真っ二つになった。
会議室が静かになった。
「……これは玩具ではない」
「はい」
「暗殺用短剣だ」
「はい、幼子がこれを持てば、魔王城の柱が何本か落ちます」
数日後には魔王城が崩れ落ちそうだ。
「木製はどうか?」
「試しました」
骸骨宰相が別の書類をめくる。
「魔樹を使った結果、対象を呪う杖になりました」
「普通の木は」
「魔王城周辺の瘴気で三日後に自我を持ちました」
「自我」
「はい。現在、厨房裏で盆栽として保護しております」
「なぜ盆栽に」
「コック長がぜひ剪定してみたいと言いましたので」
頭が痛い。
魔王なのに、頭が痛い。
戦ではなく、頭痛で倒れるかもしれぬ。
「魔王様」
「何だ」
「若き賢者を頼りましょう」
「……そうだな」
あのバーの大学生たち。
――魔王軍に革新をもたらした若き賢者。
彼らなら、何か知っているかもしれない。
柔らかく、痛くなく、子どもが遊べて、呪わず、自我を持たない剣。
……そんなものが本当にあるのか?
「だが、今日はあの店は休みだ」
「はい。マスター殿のご用事とのことです」
「そうか」
少し残念だった。
相談としては馬鹿馬鹿しい。
だが、馬鹿馬鹿しいことほど、あの店で話すにはちょうどいい。
「では、明日だ」
「はい」
「それまで、幼子たちには木の枝の使用を控えさせよ」
「すでに通達済みです」
「仕事が早い」
「ありがとうございます」
骸骨宰相が一礼した。
「代替案として、現在は勇者殿本人が聖剣を光らせる見学会を実施しております」
「……本人の負担は」
「楽しそうでした」
「そうか」
それならよい。
たぶん。
魔王とは、孤高であるべき存在だ。
少なくとも昔はそう思っていた。
だが最近は。
幼子の玩具と、勇者の休日と、バーの休業日について考えている。
悪くない。
問題は多い。
だが、悪くない。




