第23話 お休み(上)
① 魔女
そこは、空だった。
いや、正確に言うなら、空と呼んでいいのかわからない場所だった。
上下の感覚は薄く、遠くには巨大な岩の塊がいくつも浮かんでいる。
足場もない。
風もない。
空気もあるのかないのかわからない。
その中に、ひとつだけ、木の扉があった。
あまりにも場違いである。
だが、最近の私にとって一番大切な扉だった。
「そろそろね」
ふわふわと浮いたまま扉の前へ移動して、ドアノブを捻る。
ガチャ。
――開かない。
「ん?」
もう一度回す。
ガチャガチャ。
開かない。
「……あれ?」
少しだけ眉を上げて、今度は本気で回す。
ガチャガチャガチャガチャ!!
「……開かない」
なんだ、この扉。
開店時間のはずでしょうが。
周囲を漂う岩の一つに刻んだ時計のような紋様を確認する。
普通の時計ではない。
魔力の流れと星の位置と、世界のズレを読むためのものだ。
やっぱり合ってる。
怒りを込めて扉を睨みつけるが、ふと思い出した。
「あー」
そういえば、昨日マスターが言っていた。
『明日はお店を閉めますからね』
言っていた。
確かに言っていた。
……。
扉は沈黙している。
世界も沈黙している。
空間全体が「忘れてたの?」みたいな顔をしている気がして腹立たしい。
「暇だなぁ」
周囲では、岩がゆっくりと回っている。
指を鳴らすと、空間に小さな幻影が浮かぶ。
これまでバーで見た客たちの姿だった。
「……増えたわねぇ」
少しだけ笑う。
それから、幻影のアンドロイド警察官に向かって、小さな花を出してみる。
幻影なので、反応はない。
「処理落ちしないの、つまんないわ」
……。
「研究でもするか」
空間に巨大な魔法陣をいくつも展開する。
世界接続、魂識別、異世界座標、言語変換、カード決済等の文字が浮かぶ。
だが、数分後。
「違うのよねぇ」
魔法陣を全部消して、扉の取っ手を引いてみる。
開かない。
「私は研究がしたいんじゃなくて、誰かが変なこと言ってるのを見ながら飲みたいのよ」
世界最強の魔女らしい言葉ではなかった。
だが、誰にも聞こえない本音だった。
② 異世界転生者
「待ってくださーい!」
「逃げるなヘタレー!!」
「今日こそ誰の手料理が一番好きか言ってもらいます!」
「抜け駆けはなしって言ったじゃないですか!」
「今日は私のを最初に食べる約束だったよね!?」
「約束してない!誰ともしてない!」
俺は、石畳の街路を全力で走っていた。
後ろから追ってくるのは、非常に華やかな女性たちである。
全員、手に弁当箱を持っている。
とても平和な光景に見える。
本人たちの表情だけ見れば。
「五人分は無理だって!昼から会議あるんだよ!」
「私のだけでもいいですよ!」
「ちょっと!私のお弁当の方が美味しいわよ!」
露店の果物を飛び越え、荷車の横をすり抜け、噴水広場を斜めに横切る。
後ろから五人の美女が、やはり全力で追いかけている。
非常に華やかで、非常に切迫した光景だった。
街の人々は慣れているのか、誰も驚かない。
「ああ、救世主様がまた追われてる」
「今日は弁当か」
「昨日は手作りケーキだったな」
「平和だねぇ」
平和ではない。
必死に逃げる。
勇者だの救世主だのと呼ばれて久しいが、モンスターに追われる時より必死だった。
「ふぅ……」
人気のない路地裏に入り込み、樽の陰に身を隠した。
息を整える。
遠くから、まだ声が聞こえる。
「こっちですか!?」
「気配が薄くなりました!」
「魔法で探しましょう!」
「やめてくれないかなぁ……」
空を見上げた。
好感度管理は、仕事である。
しかも、命と世界が賭けられた仕事である。
誰のお弁当から食べても戦争が起きる。
世界を救った後に、弁当の順番で世界が割れるのは困る。
「このまま夕方まで逃げ切って、夜になったらバーに……」
あのバーに行けば、また異世界転生者仲間たちと会える。
魔法使いさんにからかわれるかもしれないけど。
マスターの出してくれるカルーアミルクを飲んで、ただ愚痴を言う。
それだけで、かなり救われる。
そこまで考えて、気が付く。
「……あ。今日、休みだったか」
終わった。
ちょうどそこへ、鎧姿の兵士が歩いてきた。
「あ、救世主殿。大臣がお探しでしたよ」
「……あ、はい。すぐ行きます」
逃げ場はない。
弁当からも、会議からも、好意からも、責任からも。
「……仕方ない。ちゃんと働くか」
その直後。
「見つけました!」
「救世主様!」
「まず私のから!」
「いや、だから五人分は無理だってぇぇぇぇ!!」
やはり逃げ切れなかった。
③ 侍
斬る。
斬る。
斬る。
風が裂ける。
枝が落ちる。
崖上から飛びかかってきた巨大な百足の脚が、音もなく散った。
斬る。
斬る。
斬る。
化物は咆哮した。
谷の底に響くような声だった。
一歩踏み込む。
次の瞬間、百足の巨体は左右に分かれて、地面へ崩れた。
「……終わりでござるな」
静かだった。
山には風が吹いている。
倒れた木々の間から、鳥の声が聞こえた。
「……さて」
次はどこへ行くか。
東に強い剣豪がいると聞いた。
北には、人を喰らう鬼がいると聞いた。
西には、雷を斬ったという老剣士がいると聞いた。
強い者がいるなら行く。
化物がいるなら斬る。
剣を究めるために流浪の旅を始めてから、はや数年。
「……」
最後に、この世界で誰かとまともに会話したのはいつだろうか。
いや、会話自体はする。
道を聞かれれば教えるし、斬る前には挨拶もする。
だが。
「騎士殿や剣士殿と、剣の話をする時間の、なんと平和なことよ」
ぽつりと漏れた言葉に、自分で少し驚く。
あの店で会った、異なる世界の剣士たち。
剣の理を語り、刀の造りを語り、振ればどうなるかと目を輝かせていた者たち。
魔王や吸血鬼という、本来なら一生に一度会うかどうかの存在と、酒を酌み交わして話す時間。
それが。
「……楽しい、と感じる自分自身に、驚きもあるでござるがな」
誰もいない山道で小さく笑った。
そしてまた歩き出す。
次の戦いのために。
だが、今日はほんの少しだけ、あの酒場が恋しかった。




