第29話 修道院長の署名癖
領都北の修道院で私たちを迎えたのは、五十二歳のアグネス修道院長だった。
事情を伝えると、彼女は無駄な弁解を一切せず、過去三年分の印使用簿を持ってきた。
「貸した記録があるなら、こちらの責任も確認しましょう」
その姿勢だけで、私は少し肩の力を抜いた。
だが簿面を照合すると、問題の三か月前に原本名簿を借りた記録はない。代わりに残っていたのは、アグネス修道院長の署名見本帳だった。
私は並んだ署名を見比べ、すぐに違和感に気づく。彼女の署名は最後の払いが必ず左へ小さく返る。貸出票の署名にはそれがない。
「癖が違います」
私が言うと、アグネス修道院長は静かに頷いた。
「私の名を書いた人は、綺麗にまとめすぎましたね」
さらに彼女は保管庫から小箱を取り出した。本来、受益者代表へ預けるべき第二倉庫鍵の封印箱だ。中身は空で、封蝋だけが不自然に新しい。
「昨年秋に『錆を取るため』と管理者へ預けたきりです」
伯爵夫人の覚書で禁じられていた運用変更が、ここにもあった。
私は封蝋片を布へ包む。
「修道院長、証言していただけますか」
「もちろんです。施しは沈黙と引き換えであってはなりません」
言葉が強くて、まっすぐだった。
帰り際、アグネス修道院長が私の手を取る。
「伯爵夫人は、あなたのような人を待っていたのでしょうね」
その期待に応えたいと思った。
今度は正しい署名で、正しい人を守る番だ。




