第21話 正式任命と遺贈信託
ヴァイス領公証室が開いて十日目の朝、私の机に積まれていたのは相続相談でも婚姻契約でもなく、古い布紐で綴じられた嘆願書の束だった。
差出人は炭鉱村の未亡人たち。表紙には揃わない字で、『救恤金が届かない件につき』とある。
「開室祝いにしては、ずいぶん重い贈り物ですね」
私が呟くと、向かいの椅子に座ったディートリヒが目だけで頷いた。
「故アーデルハイト伯爵夫人の遺贈信託だ。事故で夫を失った者と、坑内で働けなくなった者を支えるための基金だった」
彼が差し出した原本は、丁寧な羊皮紙に記された信託設定証書だった。元本は鉱山収益の一部、公証付きの年次報告を義務とし、受益者名簿は常に公開、扶助物資の倉庫は二本の鍵で開ける。文面は驚くほど堅実だ。
「ずいぶん実務に明るい伯爵夫人だったのですね」
「私がまだ若い頃、領内で一番怖かったのは母ではなく、あの人の帳簿だった」
珍しく少しだけ柔らいだ声音に、私は思わず笑ってしまう。
だが現物の帳簿を開いた瞬間、その笑いは消えた。寡婦台帳の事故年欄に、大きな空白がある。五年前の落盤事故で支給されたはずの十七名の名前が、八名分しか残っていない。
「抜かれています」
私が指で綴じ穴のずれを示すと、ディートリヒの視線が冷えた。
「誰が扱っている」
「現在の管理者はカスパル・メルデン。伯爵夫人の死後に任命された実務責任者です」
控えていたフリーダがそう答えた。
私は嘆願書を一枚ずつ読み、署名欄を確かめる。『夫は死んだのに、私まで帳簿の外へ追いやられた』『療養所契約に署名しないと扶助金は出せないと言われた』『倉庫の毛布まで減った』。訴えは別々なのに、臭いは同じだった。
公証室を開いたばかりで、もう次の仕事が来る。
私は印章箱を閉じた。
「正式に任せてください。これは施しの問題ではありません。信託の履行不全です」
ディートリヒは短く言った。
「任命する。領内救恤信託監査役として」
その言葉と同時に、新しい辞令が机に置かれる。私は受け取り、もう一度空白だらけの台帳を見た。
遺された善意を、誰かが都合よく食べている。
ならば次に暴くのは、遺言ではなく信託だ。




