九.体の痛みよりも痛いこと
――――ダンッ!!!!
「珠梨、待て。珠梨!!」
大国主命から解放された珠梨は、すぐに廂の間を出て行った。彼女のただならぬ様子に、篁沙久もすぐに後を追いかけ、部屋には、大国主命とその従者だけが取り残された。
「大国主様、お怪我は?」
片立膝で俯き加減に床に座し、意味もなく一点を見つめ呆然とする大国主命の元へ、従者はすぐに駆け寄った。
「今日はもう社に戻りましょう、さあ」
大国主命の身を案じて帰還を促し、従者は軽く彼の腕を引き上げ、立ち上がった。
しかし、大国主命はまるで聞こえていないかのように、何も反応を返さなかった。
「大国主様!」
「珠梨は」
「珠梨様は先程出ていかれて」
「珠梨は……もう、よく熟れていたな」
「は?」
主人の呟きに引っかかりを覚えた従者は、俯く大国主命の表情を改めて覗き込むと、従者は思わず固唾を呑んだ。
一見、呆然としているように見えた様子の大国主命。しかしその実、目は潤んで熱を秘め、頬は赤く染まり、呼吸も浅く速くなり、恍惚とした表情を浮かべていた。
「まるで、仙桃を食むような甘美さで、つい貪ってしまった」
先程味わった甘美な感覚を何度も回顧し、その快感に溺れているよう。
「また、喰らいたいものだ……!」
「お気を確かに! いくら大国主様とはいえども、違反を重ねれば珠梨様の下賜が潰えるのは否めませぬ」
「別に下賜されずともどうでもいい」
「は……?」
予想外の大国主の呟きに、従者は思わず耳を疑った。
「正規の下賜など待たずとも、横流しできるツテは幾らでもある」
「大国主様……」
「アレは間違いなく至高品だ。正攻法で確実を狙うよりも、情けで誰かのお零れに預かる方が私への還元は高い」
大国主命は、天照大御神の縁者ということもあり、それなりに神々との繋がりは広い。
なにより、彼は縁結びの神。他者のあらゆる縁を結ぶことを生業としていれば、他の神との人脈を増やすことなど容易いこと。
大国主命は、天界には数少ない、『神の願いを叶えられる立場』にある神。それ故に、彼に恩義を感じている神は多く、大国主命からの頼みとあらば、多少の横流し程度の恩返しであれば受け入れる者は出てきてもおかしくない。
「奉納日が近づいた今、あの味は間違いなく火種になる。早く、手を打っておかねばな」
自身の手に残る珠梨の唾液を舐め取りながら、大国主命は悪辣に笑った。
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「死ね死ね死ね! キモい!キモい!キモい!!」
玉城神社から5分ほど下った場所には、小川が流れている。
岩だらけで足場は悪い。真冬になれば、日によって一部凍結することがあるほど、真冬の川の水の温度は低く、一度足を踏み入れば冷たさを通り越して痛みを感じるほど。
そんな場所に、珠梨は躊躇うことなく着の身着のまま川に飛び込み、ぐちゃぐちゃになったやりどころのない感情をただ我武者羅にぶつけた。
「もうやだ!! ムリ……ムリ……死にたい!」
岩に何度も額を打ち付けながら、珠梨は「死にたい」思いを叫んだ。
額から血が流れようが、痛みを感じようが関係ない。むしろ頭を打つ度に、もっと強い痛みを求めてより強く衝撃的に頭を打ち付けた。
「珠梨、やめろ! やめろ!!」
珠梨を見つけ、篁沙久も慌てて川へ飛び込み、岩で頭打ちをする彼女の身柄を押さえた。
「珠梨落ち着け! 大丈夫、もう大丈夫だから!」
それでも、珠梨は篁沙久の手を振り解いて、頭打ちを続けた。
篁沙久も負けじと、後ろから彼女の頭と身体を押さえ、なんとか落ち着かせようとしていた。
「離して! やめろ! 死なせろ!!」
「すまない、珠梨。本当に……守れなくて、ごめん……」
「みんな、大っ嫌い……! 死ね……うわぁーー!!」
凍てつくような冷たい水の中、珠梨は篁沙久の腕の中で子どものように泣き喚き続けた。
神々から襲われたり、嫌なことをされる度に、珠梨はいつも、攻撃的な言葉を口にしながら荒れ狂った。理不尽な目に遭わされる負の感情をぶつけたくてもがくが、本来矛先を向けたい相手にぶつけられないその遣る瀬なさから、自分を傷つけた。
そんな時、篁沙久はいつも、「死ね」「死にたい」「殺せ」と繰り返される珠梨の言葉を受け止めながら、彼女の自傷への衝動が止まるのをひたすら待ち続けた。
「もう……やだよぉ……」
30分ほど時間が経ち、珠梨の泣きが啜り泣きに変わった時、ようやく篁沙久は一息つくことができた。
啜り泣きになったのは、少し彼女が落ち着きを取り戻した証拠。その隙に篁沙久は彼女を抱き上げ、川から出した。
――「ちゃんと肩まで浸かってるか?」
冷えた身体を温めさせるため、篁沙久はすぐに彼女を風呂の中へ入れた。
「……うん」
「ゆっくり浸かれよ」
「……うん」
額の怪我は、とりあえず今は応急的に包帯を巻いて処置している。
戸越しから聞こえてくるのは弱々しい小さな声だが、返答があるだけ、だいぶ落ち着きを取り戻したらしい。
日によっては、落ち着いているようでも湯槽に顔を沈めて入水を図ることもあるため、こうして篁沙久が戸越しに何気ない会話を投げ掛けることで、珠梨の安全を確認していた。
「篁沙久」
「どうした?」
「……寒くないの?」
篁沙久の服は濡れたまま。タオルで拭くこともせず、ずっと脱衣場で座り込み、珠梨が風呂から上がってくるのを待っていた。
「人間とは違い、肉体ではなく霊体だから温度感は鈍い。気にするな」
「ふーん……。味以外にも、分からないこと多いのね」
「ほっとけ」
様子は見えないが、中からクスリと珠梨の笑う声が聞こえたような気がした。
「だから篁沙久は信用できる……」
「たまに飯の味付け失敗してもか?」
「元々そんなに料理上手くないでしょ」
「うるせぇ」
「着替えて来たら?」
「珠梨が風呂上がったらな」
「別にバカなことはしないわよ。信用ない?」
「嘘つきだからな」
すると今度はちゃんと、笑い声が聞こえてきた。
「じゃあさ。今夜は一緒に寝てよ」
「同衾はしないと言っているだろう」
「こんな時でも?」
「こんな時でも」
「別に変なことしないわよ」
「嫌だね」
「堅物頑固野郎め」
「なんとでも言え」
珠梨が幼い頃は、寝かしつけのために一緒に寝たりとかもしていたが、齢10を過ぎてからは他の神々からの当たりもあって、完全に寝室を分離させた。
「じゃあ、せめてあたしが寝る時まで側にいてよ。それなら、いいでしょ?」
「……まあ、それなら」
「ちゃんと隣にいてね」
「分かった」
「手、繋いでてね」
「……ああ」
「それ楽しみにしてるから……今は、死なない」
「だから着替えておいで」と、珠梨なりに篁沙久の信頼を作り、彼の身を案じた。
一抹の不安を抱きつつも、珠梨の気持ちを汲み取った篁沙久は、深いため息を吐きながら「すぐ戻る」と釘を刺し、服を着替えに脱衣所を離れた。
「うん。すぐ戻ってきて……側にいて」
誰もいなくなった脱衣所を見つめながら、珠梨は小さく呟いた。




