八.見慣れた光景
――「あ、ヤバ」
台所で篁沙久が茶菓を用意していた時だ。
茶葉の袋がなかなか開かず、力任せに袋を破いてしまったところ、勢い余ってつい台所にぶちまけてしまった。辺り一帯から、緑茶特有のほろ苦い香りが漂う。
「良い茶葉なのに勿体ない」
肩を落とし、そんなことを呟きながら、篁沙久は一人いそいそと散らばった茶葉を片付ける。
「……良き、茶葉の香りですね」
突然聞こえた籠もった低い声に振り返ると、そこには大国主命の従者が佇んでいた。
「申し訳ありません、少し粗相をしてしまいまして。もうしばしお待ちを」
「いいえ、お気になさらず。なにか私もお手伝いしましょう」
「お気遣い痛み入ります」
「あ。よろしければ、ご一緒に手土産の柿も出して頂けませんか? 目の前で珠梨様に召し上がって頂けますと我が主も喜びましょう」
――…………ドンッ
「!」
その時、微かに床を叩くような鈍い音が聞こえた気がした。
どこから聞こえた音かまでは分からない。しかし、篁沙久は音が聞こえた瞬間、反射的に珠梨がいる廂の間の方に咄嗟に顔を振り向かせた。
「どうか、なされましたか?」
何かに反応する篁沙久を見て、不思議そうに尋ねる従者。どうやら、彼には何も聞こえなかったらしい。
「今、何か音がしたような……」
「さあ? 私には何も」
「何か物でも落ちたのだろう」篁沙久も内心、その程度にしか考えていなかった。
ただ、生真面目で慎重な彼のことだ。些細なことでも、一度気になったことは確認しておかないと気が済まない性分なのだ。
「ちょっと、珠梨様の様子を確認しに参ります」
「大袈裟な。気の所為でございますよ、きっと」
「しかし」
「それなら早く向こうに戻りましょう。柿は私の方で剥きますので、お茶の用意は篁沙久殿にお任せ致したく」
神経質になる篁沙久を諫め、従者は手早く役割分担を決め、茶菓子の準備に動き始めた。
確かに、気の所為で片付けられる程度の違和感だ。気に留めるか否かは、人の匙加減によるだろう。
だが、同じ立場の神として、如何せんこの従者の悠長さに、篁沙久は違和感を覚えた。
もし大国主命の身に何か起きていたら、自身の責任は免れられない。それなのに、なぜここまで簡単に『気の所為』で片付けられるのか――その軽さが、逆に不自然だった。
況してや彼は貴神。天界に影響を与える立場にある神の身に何かあれば、たかが従者一人の首で片付けられる問題でもなくなる。それ故に、贄姫の管理者以上に、もっと気が張って然るべきなはずなのだが……
(まさか……!)
ふと、嫌な臆測が篁沙久の頭を過った。
単なる臆測。考え過ぎな妄想。根拠なんてない。
……だが、今この胸騒ぎを『無視するな』と、軍神としての勘が、警鐘を鳴らしている。
「篁沙久殿?!」
居ても立ってもいられず、気付けば、篁沙久の身体は勝手にもう廂の間へと向かっていた。
「お待ち下され!」
足早に珠梨の元へ向かう篁沙久を追いかけ、従者は慌てて彼の前に立ちはだかり、歩を止めようとした。
「一体、どうしたというのですか」
何故かしつこく、篁沙久を珠梨の元へ行かせようとしない従者。面で素顔は見れないが、面越しでも分かるほどに従者の焦りの様子が見て取れる。
そしてそれは、篁沙久の正体不明の胸騒ぎを、段々確信に近づけているような気がして、篁沙久の表情は徐々に強張り、目つきも鋭くなる。
「どけ」
ついには従者を押しのけて、篁沙久は走った。
――――ダン!!!
「珠梨!」
部屋の障子を開けた先、胸騒ぎの答えはあった。
「あーあ。もうバレてしまったか」
珠梨が押し倒されて、神が彼女に覆い被さっている――それは、篁沙久にとって、決して珍しい光景ではなかった。そしてそういう時、決まっていつも、彼女の身包みは大きく開け、首元は赤く色付いていた。
それは、学生参拝者の時のように、彼女が神を誘惑したわけでも、況してや彼女自ら進んで脱いだわけでもないのは、珠梨の泣き腫らした目と、震えの止まらない身体を見れば明らかだった。
「まだまだ、これからだったのに」
考えることはどの神も同じ。
力で彼女一人じゃ抵抗はできないと分かっているから、助けを呼べないように口の中に指を突っ込み、声を出させないようにする。
助けは呼べず、抵抗も虚しい。何をされるか予測がつかない底なしの恐怖に絡め囚われた珠梨の瞳は、駆けつけた篁沙久に、必死の思いで「たすけて」と訴えていた。
「大国主様、摘み食いは御法度のはず」
反射的に蹴飛ばしてしまいたい衝動を理性と根性でねじ伏せ、篁沙久はまずは冷静に、大国主命が自ら珠梨から離れる機会を与えた。
だが、そんな彼の温情を嘲笑うかのように、大国主命は篁沙久の喚起を鼻で笑った。
「だが篁沙久。これは、珠梨に落ち度があるのだぞ。身の程を弁えず、普通の人間の生活を望むなど、身勝手なことを言うからだ」
反省する素振りは愚か、大国主命は篁沙久にバレても焦る様子も一つもない。
従者に篁沙久を足止めさせ、珠梨と二人きりになれる空間をわざと作った、意図的な犯行。いくら高位神とは言え、贄姫の管理者として看過できる範疇は大いに越えていた。
「我々がどんな思いで18年間待ち続けているのか考えもせず、残りの1年を『自分のために使いたい』だなんて戯けたことを。そんな暇を与えるくらいなら、遠に召し抱えているというのに。こんな風に」
「ん"ーーーー!!!」
艶かしく、珠梨の首筋に沿って大国主命は舌を這わせた。
そのおぞましい感覚に我慢ならず、珠梨は言葉にならない叫びを上げながら、ダンッ!ダンッ!と足をバタつかせ、拒絶の意を体現した。
「篁沙久、お前にこの味の価値は分かるまい!」
嫌がる珠梨など構いなしに、止める気など毛頭ない大国主命は、首を這った後、さらには彼女の耳に齧り付こうと口を開いた。
それを見て、気づけば、篁沙久は腰元の刀剣を抜いていた。思考よりも先に体が動き、次の瞬間には大国主命の首を目掛けて、刃を振り下ろしていた。
「篁沙久殿!!」
そこへ、間一髪のところで、従者が篁沙久に体当たりをして阻止し、狙いが外れた。
自身の首横をスレスレに掠め、畳が斬れただけに終わったのだが、従者が捨て身で飛び込まなければ、間違いなく大国主命の首と体は分断されていた。
それなのに、それでも大国主命は余裕な表情を崩さなかった。
「良いのか? 篁沙久。たかがこの程度で貴神の私の首を斬れば、神殺しの罪に問われ、お前は天界から追放されかねぬ。そうなれば、行き場を失ったお前は妖に零落。この神社は取り潰され、珠梨の献納は早まるのみ。良いことなど何もないではないか!」
篁沙久の反応を楽しむかのように、大国主命は彼を煽り続けた。
「珠梨様のお目付け役は勅命……贄姫をお守りするための私の行動はすべて、天照大御神様の命によるものです。延いては今の言葉、そのまま皇大神様にご報告致しましょうか?」(※皇大神…天照大御神)
自分よりもさらに位が上の神、それも事実上、珠梨の奉納先の決定権を握る天照大御神を引き合いに出されては、さすがの大国主命も権高な態度のままではいられまい。
なぜなら天照大御神の意向次第では、珠梨の奉納先の候補に、大国主命の名前が消える可能性が大いにあり得るからだ。
「いかがされますか、大国主様」
射るような目で投げ掛ける篁沙久に対し、大国主命は感情の乗らない瞳で彼を見つめ返した。




