七 風神
六月も終わりが近づいてきた。あとひと月もしないうちにこの梅雨は明け、ぼくらは最後の夏休みを迎えることになる。
最後の夏休み。そんなセンチメンタルな響きと関係があるのかは知らないが、最近恋愛絡みの噂話をよく聞くようになった。誰が誰に告白しただの、誰と誰が付き合い始めただの。皆、羊子の死もほとんど忘れて最後の中学校生活を楽しんでいるようだ。
恋愛、といえばひとつ奇妙な噂を聞いた。念夫がある女子生徒と二人きりで、何やら重苦しい雰囲気で話していたという。それだけで騒ぐこともないと思うが、ぼくが気になったのは、その女子生徒というのが晴と一緒になって羊子をいじめていた一人だという点だ。念夫はそのことを知らないのだろうが、これがもし本当に恋愛沙汰に発展したらかなり皮肉なことになる。
そんな学校の熱とは縁遠いぼくは、その日一人で地元の図書館を訪れていた。目当てはこのあたりの郷土について書いた本である。市の図書館には一般の書店や他の地域の図書館にはまず置いていない、市の歴史や地域の文化といったローカルな内容の本が保管されているのだ。
「稲無田市の本」とラベルの貼られた本棚の中から、あの祠について書いてありそうな本を探す。とりあえず三冊ほどそれらしきものを見つけたので閲覧席に持っていった。
最初の一冊のページを捲り始めると、案外早くその記述は見つかった。
泣林の祠。建立時期は不明。伝承によると、祀られているのは五穀豊穣と無病息災の神「カザカミ」だという。「カザカミ」は「風神」あるいは「風上」の意。風は空気の流れを意味し、天気に異常が生じると不作となり、穢れた空気が疫病を運ぶとされたことからこのような名が付いたのだろう。素朴な民間信仰が現在まで受け継がれてきたものだと思われる……。
それ以上の記述はなかった。まあ充分だ。神さまの名前は分かったのだから。
「それ、ちょっと見せてくれる」
こんなところで遇うはずがないと思っていた相手の声が急に聞こえてくると驚いてしまう。話し掛けてきたのは晴だった。本なんか読むようには見えない晴が、よりにもよって図書館の郷土資料のコーナーにいて、ぼくの読んでいた本を見せてほしいだなんて、いったい何がどうなっているのか。
カザカミの名を見つけたことで目的は達せられたので、ぼくはすぐに本を晴に差し出した。すると彼女は、既に小脇に抱えていた二冊に加え、ぼくの読んでいた三冊も全部持っていってしまった。
もう用もないので、図書館を出ることにした。当然の流れだが、出口のところで本を借りて出てきた晴と一緒になった。雨に塗り潰された風景を前に、傘を開く手が止まる。
「お前がそんなに本を借りるなんて」
思わず呟いた。
「ちょっと調べていることがあってね。それより」
晴の答える声を聞いて不思議な感じがした。晴にしてはあまりに落ち着いた喋り方。彼女がこんなに穏やかに話すのを聞いたことがない。
「昔、変な女の子の話をしていたことなかった? 何者なのか全然分からないけれど道端でしょっちゅう遇う、みたいな」
「彼女」のことだ。確かに、中学に入ったばかりの頃にそんな話をしたこともあった。時間が経つにつれ、この話はあまり受けが良くないどころか、ぼくがちょっとおかしい奴みたいに思われる危険性もあるということに気付き、口にしなくなったのだ。そんな話を晴が憶えていたのは意外だった。
「ああ。『彼女』とは今でもよく会うよ」
「その人について、詳しく聴かせてくれない」
ぼくはぼくと「彼女」の関係について簡潔に説明した。泣林で迷子になっていたときに出逢ったこと。特に約束などせず、道端で遇うといった形で関係が続いてきたこと。「彼女」の名前も住所も身分も、未だに何も知らないこと。……何故か「彼女」は初対面のときから肉体的成長が認められないこと。
「自分で話しててさ、変だと思わない?」
晴の指摘はもっともだった。
もちろん、ぼくだって不思議に思わないはずがない。だけど、「彼女」はこの前もきちんと質問に答えてくれなかったし、「彼女」が何者かなんてことは本人が気まぐれで明かしてくれでもしない限り分かりっこない。この謎は仕方がないことで、ぼくが現在「彼女」との関係を続けるにあたっての障害にはならない。だから放置しているのだ。
「その女の子、本当に人間なの?」
「人間じゃないかもしれないね。何年経っても見た目変わらないし」
ぼくの答えを聞いた晴の顔に純粋な拒絶の色が浮かんだ。正常な反応だと思った。
「そんな得体の知れない相手と、どうして一緒にいるの?」
「それには答えたくないな」
ぼく自身その理由に気付かないふりをしているというのに。
「そう、分かった。じゃあわたしは家に帰るね」
「ちょっと待て。何で今になって『彼女』の話を?」
「いずれまた色々尋ねると思う。そのときにでも話すよ」
そう言い残して晴は一方的に立ち去った。
最近、晴は何かを調べている。何かに集中している。何故あんな本を借り、何故ぼくに「彼女」のことを尋ねたのか、それは分からない。けれど、きっと皆羊子の死に関することなのだろう。結局今の晴にはそれしかないのだ。
そんな晴の切実さとは裏腹に、ぼくは少し浮いた心で、どこへ行くともなく、雨の中を歩き始めた。




