八 夏祭り
「彼女」を探すために歩いたのは初めてだった。そんなときに限ってなかなか遇わなかった。むしろ今まで会っていた頻度の方がどうかしていて、「彼女」と歩けるのは決して当たり前のことではないのだと、頭では分かっていたが、このとき初めて実感としてぼくの内に響いた。
結局、意識しているうちには会えず、次に遇ったのは、遅刻ぎりぎりで走って登校しているときだった。急いでいたが、この機会を逃しては次に会えるのがいつになるか分からないと思い、ぼくは立ち止まって要件を伝えた。その日は結局遅刻した。
そして今、ぼくは中学校の裏門前で「彼女」を待っていた。学校に用があるわけじゃない。そもそも今日は日曜日。待ち合わせ場所として分かりやすいから使っているだけのこと。
ふと空に目を向けると、まだ透き通るような青さが残っていた。七月の頭。夏至を過ぎたばかりで、この時間帯はまだまだ明るい。
こんな感傷はきっと今だけのものなのだろう。何故かそんなことを思った。夜明けと同じ空の青さ。哀しみ。胸の痛み。人を待つことの高揚感。この風景がいつかぼくの十五という時代を象徴するようになるのだ。
それなりに長い付き合いだが、「彼女」と待ち合わせということをするのはこれが初めてだった。そう思うと不安もある。本当に来てくれるのだろうか。「彼女」のことだから、場所を間違えるなんてことはないとは思うけれど……。
「ありゃ、普通の服」
果実に染み込む塩のような声がした。
確かにぼくの恰好は薄手のシャツに半ズボンと、いつもと変わらないものだ。
それに対して、背中の方から視界に入ってきた「彼女」の姿は確かに非日常を体現していた。
白地にほの青い蝶の紋様の入った浴衣。低めに編み込まれた髪の合間からは黄色の小さい花飾りが光る。いつも下ろしている髪を上げているからか、首はやたらと長く見え、白い衣装に包まれた顔や手足はむしろ健康そうな薄桃色を際立たせている。
改めて目の力を抜いて全身を眺めると、その立ち姿はまるで宙に浮いているようで。
「幽霊みたいだ」
素直にそう言ってしまった。
「彼女」は、だるま落としの銅が机の上を滑っていくときのような綺麗な声で笑った。
「足あるよ」
そう言って草履を片っぽ脱ぎ、素足の甲をこちらに向ける。ぼくは切なさがため息となって溢れ出そうになるのを辛うじて抑えた。
「確かにあたしは多少人間っぽくないかもしれない。けれどちゃんと生きているからね。お化けとは違うよ」
「彼女」は口笛をひとつ鳴らした。
それからぼくらは歩いて泣林の近くにある小さな公園を目指した。
「きみがお祭に誘ってくれるなんて。それも、天満宮のとかじゃなく、あんなちっぽけな」
そう。今日は林の祠でお爺さんに教えてもらったあの祭の日。
「きみが教えてくれなかったから、自分で調べたんだ」
「何を?」
「あの祠のこと。カザカミっていうんだろ。あそこに祀られている神さまの名」
瞬間、「彼女」の顔がこの薄暗い中でも分かるくらいに赤くなった。俯いて、きまりが悪そうに耳たぶを引っ張っている。
驚いた。こんな「彼女」は初めて見た。それにしても、ぼくは赤面されるほど変なことを言っただろうか。
「ああ、うん。その通り。五穀豊穣と無病息災の神として、古くからこの地域で信仰されてきた」
説明はのぼせたような早口で行われた。
変な雰囲気を引きずりながらも、ぼくらは公園に辿り着いた。決して広くはない敷地の中に十ほどの屋台が詰め込まれ、親子連れを中心とした人々がこの小さな祭を楽しんでいた。
ぼくらはひとまず屋台を見て回った。綿菓子やチョコバナナなどの食べ物のほかに、射的やスーパーボール掬いなどのゲームもある。
公園を一周したところで「彼女」は、どこに持っていたのか、手の中のがま口財布から百円玉を三枚ほど取り出した。そういえば「彼女」が鞄やポーチの類をもっているのは見たことがないけれど、普段はどうしているのだろう。
「たこ焼き買ってきて」
硬貨の載った掌が差し出される。
「ぼくが?」
「うん。露店の人とあまり話したくないんだ」
よく分からなかったけれど、ぼくは言われた通り六個入りのたこ焼きを買った。それとは別に自分の小遣いでりんご飴も買った。
「ありがとう」
「彼女」は公園を囲う低いブロック塀に腰掛けて待っていた。ぼくはたこ焼きを渡すと、隣に座って飴を舐めた。
「ひとつどうぞ」
爪楊枝の先についた玉をこちらに向けてくる。
「悪い。マヨネーズが嫌いなんだ」
「それは可哀想に。でも、まあ、賢明だよ。口に入れるものには注意を払うべきだ」
稲無田湧水の源流で、「彼女」がぼくに結局水を飲ませなかったことをふと思い出した。
「ところで、お祭って一応神様のためにやるものなんだろ。普通の祭なら神社で踊ったり、神輿を担いだりするじゃないか。あの祠は今どうなっているんだろう」
これは祭の存在を知ったときから気になっていたことだった。
「じゃあ今から行ってみようか」
「彼女」の提案はいつも唐突だ。
林の中は恐ろしいほどの闇に包まれていた。枝の間から覗く空は意外なほど明るく見える。そんな中でも白い衣装を身に纏った「彼女」の姿は見えやすく、ぼくはその背中を追って歩いた。
祭の喧騒は遠のき、闇と静寂は混ざり合って妙な緊張感を醸し出していた。人がいる場所を抜け出してこんな林の中を二人きりで歩くというのはロマンティックにも思える。
やがて、周囲が少し明るくなった。空を覆っていた枝がなくなり、半月の明かりが差し込んできたのだ。
ぼくは思わず目を見張った。不思議なものを見たわけではない。むしろその逆、何も変わったところなどなかったのだ。あの昼訪れたのと同じ、ちっぽけで寂れた祭祀場。
「お祭なのに、当の神さまはこんなところにいるなんて」
何だかんだでそれなりに賑わっていた公園が、こことは全く関係のない場所のように思われた。
「神が神社や祠に縛られているわけじゃないからね。こういった場所でしか神と交信できないのは人間側の話で、神は場所なんて関係なく人々に干渉できる。こんな林の奥にある祠の周りで何もできないのは今では仕方がないし、神さまだって案外あの公園まで出向いているかもよ」
そんなものか、と思いかけたところで、「彼女」が饅頭のようなものを口にしていることに気が付いた。
「それ、お供え物だろ。罰が当たるよ」
「罰? 面白いことを言うね」
「彼女」はまるで気にしていないといった顔で食べ続けた。
「それにしても、そんなに小規模な信仰なら、ささやかなものとはいえ祭が現代まで続けられているってことの方が不思議だ」
「昔はもうちょっと大きな祭だったんだよ。この辺りにも提灯が飾られたり、木から木へ縄が張られて紙垂が下げられたりしていた」
「何だそれ。初めて聞いたよ。ぼくが調べた以上のことを知っているなら教えてくれ」
どうもこの祠に関して「彼女」は積極的に話したがらない。いつもは、この街に関することなら訊かれなくてもペラペラ喋るくせに。
「こんな気分のいい夜にしたい話ではないけれど……。まあ、いいや。簡単に言うと、かつてこの祭では生贄が捧げられていた」
「生贄? 牛とか馬とか?」
「ううん。人」
信じがたい思いがした。この土地、ぼくが住んでいるこの街でかつてそんな野蛮なことが行われていたなんて。
「何の為に」
「ここに祀られているのは五穀豊穣と無病息災の神だと言ったよね。それは裏を返せば昔ここに住んでいた人々は不作と疫病に悩まされていたということだ。そんな天災から自分たちを守ってくれるよう、人々は犠牲を捧げて神に祈った。この場所で数え切れないほどの命が奪われた」
ひどい話だ。歴史の授業でどこどこの文明には生贄の習慣があっただなんて言われても聞き流していたが、実際に身近な場所で人の命が奪われていたと聞くと嫌な気分になる。
「生贄にされるというのはね、ただ殺されるのとはわけが違う。神の領域に永遠に追放されることを意味するんだ。あたしの愛するこの土地の人々がかつてそんなことを行っていたなんて、哀しい話だ」
「彼女」は以前、神として祀られることも「追放」と呼んでいたが、その意味が少しだけ分かった気がする。死んだ後に仲間外れにされる。それは確かに寂しいことだ。
「その慣習はいつまで続いたんだ」
「江戸の末期まで。明治以降の近代化とともに、そんな非文明的な悪習は忘れられてゆき、今じゃ完全に失われている。だから人身御供の儀式に端を発するとはいえ、現在行われている祭は純粋に楽しんでいいものだ」
この話を聴いて、どうして「彼女」はここまでこの土地に詳しいのだろうと改めて思ったが、すぐに頭を振った。「彼女」の不思議なところについてはもう考えないことにしたのだ。
それより、言わなければならないことがある。ぼくはその為の舞台として今日の祭を選んだのだ。
「ぼくが神さまの名前を本で調べなきゃならなかったのは、この祠を管理しているお爺さんが教えてくれなかったからだ。彼は神さまの名前を口に出したくないと言った」
「え、いきなり何の話」
暗がりの中にも「彼女」の動揺が感じられたが、ぼくは構わず続けた。
「ずっと昔、小さい頃にも同じようなことを言われた気がした。それがいつのことだったか、そのときは思い出せなかったけれど、すぐに分かった。初めて会ったとき、きみは教えてくれたね。名前というのは特別な言葉だからやたらと口にするものじゃないって」
「うん。それは悪用される言葉だから。もし、邪悪で巨大な力をもった者が強くきみの名を呼べば、きみは捕えられてしまうから」
「だけど、ぼくはきみにぼくの名を呼んでほしい。悪用されたって構わない。だから、名乗るよ」
「彼女」はぼくに一歩近づいたけれど、そこで立ち止まった。「彼女」はぼくの言葉を聞くしかない。口を塞ごうにも、もうぼくの方が背は高いのだから。
「献」
大きな声で言った。それなのに、音が何かに吸い込まれたかのように、不気味なほど残響は少なかった。
「ありがとう、献。いい名前だね」
初めて「彼女」に名前を呼ばれた。途端に胸のあたりが冷たくなり、心臓を乱暴に抓まれたような心地がした。むやみに名乗るものじゃないという警告の意味もよく分かる。
「名乗られたからには名乗り返すのが礼儀だけど、いかんせんあたしは憶病なんだ。近いうち、不本意だが、あたしの名前は嫌でもきみに知られると思う。だから今は勘弁してほしい」
「ぼくにはまだ知られたくないのか」
予想はしていたけれど、やはり落胆する。
「きみを嫌っているわけじゃないよ。でもね、名前を知られることは正体を知られること。怖いんだよ。じゃあ代わりに訊こう。きみはあたしのこと、何者だと思っている?」
「神さま」
考える間もなく答えた。
「きみの身体は成長しない。きみが何歳なのか、どこに住んでいるのか、どうしてあんなに頻繁に道端で遇うのか、ぼくは何も知らない。ぼくにとってのきみは神秘だ。それでいて、ぼくはきみに惹かれる。いつもきみのことを考えている。きみを基準に行動している。きみはぼくの世界の全てだ。神さまだ……」
これらの言葉は勝手に溢れ出てきた。困ったな。こんなことまで言うつもりはなかったのに。
「きみもあたしをそう呼ぶのか」
闇の向こうに幽かに見える「彼女」の顔は笑っていた。でも同時に、奇妙なことに、泣き出しそうな顔にも見えた。
「つまりきみはあたしのことが好きなんだね。ごめんね。全然気付けなかったよ」
改めて言われると気恥ずかしい。
「彼女」が近づいてきた。思っていたよりもずっとずっと近くに。そして信じられないことに、ぼくの首の後ろに両腕を回して顔を寄せてきた。うなじで感じる「彼女」の素肌は汗で湿っていた。
「だけどね」
空気より少しばかり冷たい吐息が顔にかかった。そのとき、ぼくは「彼女」の瞳を見た。林の闇よりもっと暗い黒。ブラックホールのようにぼくを吸いこんでしまいそうだ。そしてその口元は残忍な笑みに歪んでいた。今までに一度も見せたことのなかったような表情。人の子の相貌ではない。
「魅入られたのはきみの方だよ」
ぞっとした。
声がぼくの背中の産毛を逆撫でした。手足が痺れて動かなくなった。喉が渇き、呼吸が荒くなり、心臓は普段の倍の速さで脈打った。
眩暈がして、倒れかけた。二、三歩よろけて、辛うじて姿勢を立て直すと、ぼくは周囲を見回した。
静かだった。枝が風に騒ぐ音と、名前も知らない虫の鳴き声。それだけ。「彼女」はいなかった。
どこへ行ったのか。呼び掛けて探そうにも、ぼくは「彼女」の名を知らなかった。
あまりに自然に消えてしまうものだから、ぼくが「彼女」と二人でここに来たのだということも怪しまれて、ぼくはどうしてこんな時間にこんなところに立っているのだろうと不思議に思い始め、やがて恐怖が滴り、ぼくの心にひとつの波紋を生んだ。




