五 湧水
六月のある休日、ぼくは用水路沿いを「彼女」と歩いていた。梅雨に入ってしばらく経つが、今日はその晴れ間。日差しは強く、気温は三十度を超え、「彼女」も袖なしの青いワンピースといった涼しげな恰好をしている。
「この川の水源って見たことある?」
「彼女」はそう言って用水路を覗きこんだ。せせらぎが冷たく響き、水草が流れの方向を示している。
「いや、ないな」
「知っての通り、これは江戸時代、稲作の為に掘られた人工の川だ。用水はこの街の西端に起源をもつ稲無田湧水から水を引いている」
「彼女」はいつものように説明した。
それからしばらく歩くと別の流れにぶつかった。これが稲無田湧水。用水はここから水を引いているのだ。そのまま遡ると湧水は段丘崖の下を走るようになった。
崖線。初めて遇った日、「彼女」が話してくれたのを憶えている。ぼくの家がある小里野段丘面に降った雨水は地面に浸透して地下水脈を成し、この段丘崖から湧き出る。その水場に人が集まり、この街の遠い祖先にあたる集落ができた。この崖の連なり、稲無田崖線は街の始まりであり、中心なのだ。……「彼女」の言葉の中で、聞いたときは意味がよく分からなかったが、知識が増えるにつれ納得されてきたり、後に自分で調べることによって理解されたりしたものは多い。この崖線の話も郷土学習や地理の授業で知識を得てからはなんとなく分かるようになった。
やがて川幅はひと跨ぎで越えられるほど狭くなり、ぼくらは小さな水溜りに辿り着いた。
「あれが水源」
「彼女」の指した方に目をやると、水溜りの奥、崖の土の間から、水がちょろちょろと糸のように流れ出ているのが確認できた。
「こんなのがあんなに大きな流れになるんだ」
ぼくは率直に驚いた。
「歩き疲れた。それに暑い」
「彼女」はそう言うとヘアゴムを手に取り、髪を頭の上でまとめ、水溜りの前にしゃがみ込んだ。汗の玉がひとつ、うなじを伝っているのが見えた。そのまま両手で水溜りの水を掬って飲むと、もう一度掬って立ち上がり、ぼくの方を向いた。
「ほら。大丈夫、お腹壊したりはしないよ」
両手を差し出してくる。このまま飲めというのか。
「自分で掬うよ」
「いいから」
ぼくは首を少し傾け、その器を覗き込んだ。水の底に「彼女」の掌が揺れる。
「もっと屈まないと。きみはもう背が高いんだから」
言われてぼくは膝を折り、地面に映る自分の影をちらりと見た。なんだかまるで「彼女」に首を差し出しているみたいだ。
いよいよ飲もうと繊細な「彼女」の両手に唇を近付けた瞬間、冷たい水がぼくの顔を勢いよく叩いた。続いて「彼女」の風鈴のような笑い声が頭の上で響いた。
「可笑しい。本当に飲もうとするなんて」
からかわれていただけなのだとようやく気付いた。
それにしても、こうして無邪気に笑っている「彼女」の姿は本当に美しいな。
ぼくはしばらく黙って「彼女」を眺めた。
「……少し、びっくりしちゃったよ」
その言葉を発する頃には「彼女」の笑顔は消えていた。この悪戯の意図も、今になって醒めたような顔をする理由も、ちっとも分からない。
そんな中、ひとつの疑問が頭の隅で膨れ上がっていた。「彼女」の手から水を受け取るという状況に胸を高鳴らせる一方で、確かに抱いていた違和感。
「左手の指、足りないよね。どうして」
そう、「彼女」の左手には薬指がないのだ。初対面のときから気になってはいたが、「彼女」の方から指の話をしてきたことはなかったから、きっと触れてほしくないことなのだろうと思い、訊いてこなかった。けれど今、改めて間近に見て、どうしても確かめたくなった。これくらい「彼女」も許してくれるだろう。
「ああ、これ? 生まれつき。気味悪がる人もいるけれど、特に不便していないし、気にしないで」
その答え自体はがっかりするほど平凡なものだった。しかし長年タブー扱いしていた話題に触れたことがぼくの質問の堰を切った。
「ほんとうは何歳なんだ」
「どうしたの、いきなり。……歳を数えたことなんてないよ。でも、たぶん今のきみと同じくらいじゃないかな」
そんなはずはない。いや、確かに今の「彼女」はぼくの同級生の女子たちと同じくらいの歳恰好に見えるけれど、初めて遇ったときの「彼女」は間違いなくぼくよりひと回り大きかった。そもそも歳を数えたことがないなんて話、あるものか。
「どこに住んでいる」
「この街に」
「大ざっぱすぎる」
「そうとしか言いようがない。家のことを言っているんだったら、この街があたしにそんなものを与えてくれるはずがないでしょ」
これも信じられない。こんな少女が家もなく生きていけるものか。
「学校は」
「通ったことは一度もないよ」
さっきから聞いていると、「彼女」はまるで人間の社会に属していないみたいだ。ぼくに素性を知られたくないからでたらめを言っているのか。
「きみにとってのあたしは、随分と謎の多い存在なんだね」
「彼女」は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。きみが何も教えてくれないからじゃないか。ぼくは若干の苛立ちを募らせた。
「あたしはきみのこと、よく知っているけどね」
一瞬、息が止まった。いつもそうだ。「彼女」がぼくを客体化するとき、ぼくは刃物を突き付けられたときのような――もちろんそんな経験はないけれど――、テレビ画面の向こうの人物が急にこっちを見て話し掛けてきたときのような――当然そんなことはあり得ないのだけれど――、肝が冷える心地を味わうのだ。だっていつもはぼくが一方的に「彼女」を見つめているから。「彼女」はこの街のことばかり話してぼくのことなど話さないから。
「まあ、何年も自己紹介を渋っているのはあたしなんだから、きみに何と呼ばれようと、何者と思われようと、文句は言えないよ」
またいい加減なことを言う。
ぼくは「彼女」の名前を知らないし、勝手なあだ名で呼ぶ気にもならない。ただ、「彼女」が何者か、ということについては少し思うところがある。何者と思われても構わないと言うのならば、言ってしまおうか。恐らく「彼女」は……、いや、止めておこう。我ながら呆れるほど荒唐無稽だ。




