九 ノスタルジア
「ここに街道が通ったのは江戸時代のことだけど、それより遥か以前から、よそ者はここを通ってこの土地に入ってきた」
稲無田の外れ。今や日夜車が行き交う国道を跨ぐ歩道橋の上にぼくらはいた。
「ぼくもよそ者だった。この道を通って稲無田に来たんだろうか」
「そうだったよ。あたしは憶えてる」
足下を車がびゅんびゅん過ぎてゆく。遠い昔に思いを馳せている今、それは遥かな年月を人々が過ぎていった幻影にも似て見えた。
「あれがいつのことだったか、今となっては分からない。でも、このあたりに村ができていたくらいには最近のことだったよ。ササメとその父親もこの道を通って、この土地、清村にやってきた」
そう言うと「彼女」は歩き出した。ぼくは黙ってその後をついていった。
移動中、ぼくらは言葉を交わさなかった。次に立ち止まったのは一面に広がる田圃の前。
「このあたりの人々は昔から稲無田湧水の恩恵を受けて暮らしていた。清村という名前もそのあたりから来ているんだろう」
そのままあぜ道の上を進んだ。視界を阻む建物がなくて遠くまでよく見える。
「当時はこんな大規模な用水路はなかったから、人々は崖線に沿って農業を営んでいた」
ぼくらが住んでいる小里野段丘面はつい百年前まで雑木林だったと言うし、人の住める範囲は相当狭かったのだろう。
「さて、ササメの話だったね。二人は歓迎されなかった。よそ者だし、娘の方は指が足りないときている」
「彼女」は自分の左手の甲に視線を落とした。
「やっぱり、気持ち悪いかな」
俯いたままの問いかけ。
「ぼくが答えてもしょうがない」
「それもそうだね」
「彼女」はこっちを見て笑った。
それからまた歩き始め、ぼくらは古民家の前を通った。竹林を背に建てられた木造の屋敷。稲無田にはこのように、古くからの住居がいくつか残っている。ぼくはふと思いついて尋ねた。
「きみら――ササメたちが住んでいたのはこんな家だったのか?」
すると彼女は楽しげに微笑んで、首を横に振った。
「古民家っていっても、これはせいぜい江戸時代中期のものだ。ササメらが住んでいたのはもっと原始的なところだよ。竪穴式住居って知ってるでしょ」
「ああ。歴史の時間に習った。でも、あれって縄文時代とかの話じゃないのか」
「確かにその時代のものが有名だけどね、都から離れたこんな片田舎では平安時代くらいまで造られ続けていたんだよ。地面を掘って、柱を立てて、茅葺の屋根で覆って……」
そうやって話す「彼女」の姿は相変わらず活き活きとしていた。自分が殺されたときの話をしているのに。「彼女」がこの稲無田の地に異常なほどの愛着を抱いているのは知っていたが、あの凄惨な過去を知った今、その理由は明らかになるどころかもっと謎に包まれた。
やがて稲無田崖線と稲無田湧水に沿う道へと出た。流れを遡るようにして進む。
「ササメも日々の仕事を手伝った。ここへはいつも水を汲みに来たものだった」
「彼女」は徐々に歩みを遅め、そのまま立ち止まった。その視線は湧水の水面に向けられていた。そこに古代の清村が映っているとでも言うかのように、「彼女」の表情は憧憬に充ちていた。目の下のあたりが少し赤くなっていた。
「イナマロという少年がいてね」
唐突な人名に、「彼女」の横顔に半ば陶酔していたぼくはふと我に返った。
「ササメと同じ年頃で、彼も毎朝ここへ水を汲みに来た。大人たちはササメらを除け者にしたけれど、彼は優しくしてくれた」
話が妙な方向に進んでいる。ぼくは眉をひそめた。
「好きだったんだと思う。恋仲になりたいなんて考えも知識もなかった。でも、彼と話せるってだけで毎日楽しかった。彼がいると思えばこの薄暗い村も良いところだと思えた」
ぼくの方を見ないで話す「彼女」は酸っぱいものでも噛んだかのような表情を浮かべていた。
「何とも言えない気分だ」
素直にそう口に出した。
「嫉妬?」
「彼女」は笑いながらこっちに向き直った。その顔はもう、ぼくが普段見ていた「彼女」の顔に戻っていた。
「そういうんじゃない。けど、何て言うか……」
嫉妬なんて言葉で表現してほしくなかった。ぼくのこの動揺はもっと別の、そう、「彼女」がぼくのすべてなのに、その「彼女」が誰かに想いを傾けている様を見てしまったってことはぼくのすべてが揺らいだってことで、どうしたらいいか分からなくて……。
「あの日」
「彼女」は視線を再び水面に落とした。
「斧や鎌を持ってササメを襲った連中の中に、イナマロの姿があった」
ぼくは唖然とした。どうしてそんなに穏やかな顔でそんなことを語れるのか分からなかった。
「無数につけられた傷のどれが彼によるものだったかなんて分かりようがない。ひょっとしたら彼は大人たちについてきただけで、暴行には参加しなかったのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。きっと、ササメはただ……」
そこで言葉は途切れた。「ただ寂しかった」。多分そう言いたかったのだと思う。
「残念だったのは、ササメが死んだ後すぐに、彼が例の疫病で死んでしまったことだ」
声の調子が急に変わって、ぼくはまた驚いた。その横顔は夏祭りの夜にぼくに見せた、あの邪悪な色彩を浮かべていた。
「後にも先にも、あたしがはっきりと『殺したい』って思った人間はイナマロだけだよ。でもそれは叶わなかった。逃げ切られた。結局あたしはずっと片想い。だから」
「彼女」は何故かぼくに背を向けて少し遠ざかった後、
「きみはあたしのために死んでね」
振り向かずにそう言った。
ふと思った。いつか、遠いいつか、ぼくはこの時代をどう振り返ることになるのだろう。羊子が死んだ。念夫が死んだ。暗く、救いがない。でも、「彼女」がいた。それだけでぼくの十五という時代は柔らかい空気に包まれると思うのだ。一抹の寂しさと共に、計り知れない憧れを抱いて、思い出すことになると思うのだ。
そして思った。「彼女」にとってのササメの記憶というのはそういうものなのかもしれない。拒まれ、殺された、陰鬱な時代でありながら、それでも大切な思い出として回顧し続ける記憶なのではないか。
ノスタルジア。どこの国の言葉か知らないけれど、この感傷のことを確かそう呼ぶのだ。




