八 恋の話
取り巻く蝉たちの声はブーイングのようにも聞こえる。
ぼくは今、カザカミの祠の格子扉に手を掛けている。夏祭りの夜、お供え物の饅頭を食べる「彼女」に「罰が当たる」と言ったぼくだが、ここに祀られているのが「彼女」であると分かった今、躊躇うことはない。人間が作った祠の中を覗いただけでどうして「彼女」が怒るだろうか。
扉は拍子抜けするほど簡単に開いた。中には外からうっすらと見えていた女の人の木像が納められているだけ。ぼくは像を手に取った。かなり古いものなのだろう。顔の輪郭はぼやけてよく見えなかった。しかし雰囲気が「彼女」に似ていると言えなくもない。
「祠荒らしとは。罰が当たるよ」
振り返って目に入ったのが「彼女」の姿でむしろ安心した。人に見られて通報されでもしたら流石に事だ。
「罰も何も、この祠の主はきみだろう」
像を再び祠に納めて扉を閉じ、振り返った瞬間痛みを感じた。「彼女」の右手がぼくの頬を抓っていた。
「何をする」
「罰」
しばらく引っ張り回してから「彼女」は手を離した。結構痛かった。
「彼女」はいたずらっぽく笑った後、ぼくの眼を正面から見据えて口を開いた。
「おかえり」
何故だか、すごく安心するような声だった。よっぽど「ただいま」と言いたかったが、胸が詰まって言葉が出てこなかった。
「長い間見なかったね。どこ行ってたの」
「おじいちゃんの家に。それと、笹音さんに会ってきた」
それを聞いた「彼女」は少しの間幼子のようにぽかんと口を開けていたが、やがて笑い混じりのため息をもらした。
「そんな気はしていたよ」
本当だろうか。その割には随分と驚いていたように見えたけれど。
「笹音と何を? やっぱりあたしの昔話かな」
「まあ、そんなところ。あれ以来笹音さんとは会っていないんだろ?」
「うん。笹音ったらちょっと旅行に行くって言ったっきり帰ってこなかったから。あれは寂しかったなあ。そんなとき、小さい男の子がこの街に入ってくるのを感じたから話し掛けてみようって思ったんだ」
ぼくは笹音さんがいなくなって空いた穴を埋めるために使われたってことか。
「……だから、きみが街を離れたとき、笹音と同じように、もう帰ってこないんじゃないかって思っちゃったよ。また会えて良かった」
そう語る「彼女」には、ぼくの高校進学の話をしたときと同様のしおらしさがあった。そして、こういうことを言われるとぼくは相変わらずどきどきするのだ。
「ササメ」
ちょっとの沈黙の後、思わずその名が口を衝いて出た。
「どこでその名を?」
そう訪ねる「彼女」は明らかに動揺していた。あの祭の夜にカザカミの名を呼ばれたときのように、耳まで真っ赤になっている。
「笹音さんから」
「そりゃそうか。恥ずかしいからやめてよ」
「恥ずかしい?」
「あたしも、人間の名前で呼ばれたいと思ったことがあった。でも、そんなのは昔の話だよ」
「じゃあ、ぼくはきみを何と呼べばいい?」
以前この質問を投げかけたとき、「彼女」は名を明かしたくないと言った。でも、今やその名は既に知られている。カザカミ。それが神としての「彼女」の真名。でも、それはこの地域の人々が「彼女」を祀るためにつけた名だ。ぼくにとっての「彼女」は少なくとも信仰の対象ではない。
「だからそれはどうぞお好きに。それにしても、本当久しぶりだよね。いつ以来かな」
明らかに話題を逸らそうとした「彼女」の発言が、ぼくの中の暗い記憶を呼び戻した。
「きみが念夫を殺した日以来だよ。……どうして殺さなきゃならなかった?」
一瞬「彼女」は、何の話をされているのか分からない、といった顔をし、ちょっとして合点がいったように頷いた。
「男の子の方は、あの子――晴があたしの力を見たがっていたから。女の子の方、羊子は、特に理由なんてなかったかな」
理由なんてなかった。笹音さんもそんな話をしていたが、改めて本人の口からそんな台詞を聞くと理不尽さに対する怒りがこみ上げてくる。
「理由もなく人を殺すなんて。それじゃ羊子があまりに可哀想だ」
「意味のある死なら、多少は彼女も浮かばれたと? ともかく、そんなこと言われたって何となく殺したとしか答えようがないよ」
「彼女」は、読書感想文を書けないで困っている小学生のように眉間に皺を寄せた。
「どうして殺さなきゃならなかった、と言ったね。じゃあ逆に訊こう。きみはどうして生きなきゃならなかった?」
もちろんぼくは答えに窮した。また笹音さんと同じことを言う。ぼくがこの問に答えられないように、「彼女」は殺人の同機を説明できないとでも言いたいのだろう。でも、生きることと殺すことを同列に扱うのは絶対におかしい。
「人は自分の意志で生まれてくるわけじゃない。ぼくを産んだのはぼくの親だ。ぼくは生まれさせられた。そういう意味で、人生は、ぼくの選択とかそういうものを越えて、どうしようもなく始まってしまっていたものだ。でも殺しは違う。きみはきみの意志で人を殺したんだろう。その問い返しは不適切だよ」
「彼女」はそれを聞くと、今度は面白そうに笑った。可笑しい、というより、興味深い、といった様子で。
「つまりきみはこう言うんだね。きみが生きなきゃならなかった理由は、生きさせられたからだ、って」
「それがどうした」
「……あたしにだって、人を殺せば怖れ憎まれるんだってことは分かっているよ。でも殺しはやめられない。やめるにはそれこそ特別な意志が必要だ」
それを聞いてぼくはいよいよ我慢ならなくなり、言おうかどうか迷って心の中に留めていた言葉の堰を切った。
「聞いたよ。きみはかつてこの土地の人々に嬲り殺されたんだろ。きみが人を殺すのは、自分を殺した人間たちを憎んでいるからじゃないのか」
「彼女」の反応は予想外のものだった。「彼女」は可笑しそうに笑った。
「自分が何言ってるか分かってる? 殺された人間がどうやって人を殺せるって言うの」
「それはきみが神として蘇ったから……」
「そんな非科学的な話、本気で信じてるの?」
他ならぬ神自身からそんなことを言われて、ぼくはすっかり言葉を失ってしまった。
「あのとき殺された少女――ササメとあたしはきっと同一の存在じゃないよ。あの子は人間で、あたしは神なんだもの。だからあたしはこの土地の人々に殺されたことなんかない。怨む理由もないよ。まあ、ササメの死に方には同情するけどね」
笹音さんが言ったのと同じだ。「彼女」自身、ササメと自分は別のものだと考えている。身体の連続性がなければ……。ぼくは祖父に言われたことを思い出していた。
「笹音さんにはすぐ正体を明かしたそうじゃないか。何故ぼくには最後まで隠していた?」
今は笹音さんと話をして浮かんできた疑問点を洗おう。「彼女」についてできる限りの情報を集めて、人殺しをやめさせる方法を考えるのだ。
「きみに名前を言わなかったのは笹音のときの失敗を踏まえてのことだ。彼女はあたしが人を殺すのだと知るとやはりこの街を離れていった。きみにはこの街を出ていってほしくなかったから、明かさないで済む間は正体を隠していた。もっとも、きみは戻ってきたけれど」
「出ていってほしくない……。ぼくに何を期待している? 何のために近づいた?」
「きみの命がほしい」
その言葉はぼくの中の忘れかけていた恐怖を呼び醒ました。でも今度は逃げ出さない。薄汚れたスニーカーで大地を踏みしめ、歯を食いしばって「彼女」を睨む。
「きみはあたしを恐れているよね。次殺されるのは自分じゃないかと身構えている。それなのに、どうして橋を渡らなかった? あたしにはそれが不思議でしょうがない」
「きみの正体を知っても、祭の夜に話した気持ちは変わらない。それだけだ」
ぼくの答えを聞いて「彼女」は少しだけ苦しそうな表情を浮かべた。
「愛しているのなら、命を捧げたまえよ。その為に生まれてきたのだと、諸手を挙げて。悪霊に魅入られたきみを呼び戻す友の声、家族の声、きみ自身の理性の声、そんな全ての正しき制止を振り払って、あたしのところに来てよ」
その声は、言葉は、内容の異常さとは裏腹に、とても美しかった。また「彼女」を可愛いと思った。心から抱きしめたくなった。
積もった沈黙がぼくに反応を要求してきたので、仕方なく「彼女」の言葉の意味を噛み砕いた。要するに、死ね、と言われているのだ。
「嫌だ。死にたくない」
「変な人だ。殺される危険を冒してまで街に戻ってきたのはきみだよ?」
「彼女」の言うことももっともだった。「彼女」が本当にぼくの命を欲するのなら、今すぐにだって殺すことができる。そんな状況に自分から身を置いて、それでいて「死にたくない」だなんて変な話だ。
「しかし、帰ってきてくれたのは本当に良かった」
「彼女」は独り言のように、自分の胸に向かって呟いた。
「ねえ、きみは笹音からササメのこと、聞いたんだろう」
「彼女」がいきなり近づいてきたので、ぼくは思わず仰け反ってしまった。
「そこまで知ってしまったのなら、あたしからも話そう。かつてこの土地で殺された、ササメという少女のこと」
「笹音さんが話してくれた以上のこと?」
「もちろん。だってこれは恋の話だよ」
こい。その音が頭の中で漢字として浮かび上がってくるまでには少しの時間を要した。
「どうしてそんな話を」
「楽しいじゃない。あたしらは、十五かそこらの少年少女なのだから」




