第7話 数字の向こう側
「今日は算術をいたしましょう」
翌朝、ガルドがそう告げると、アルベルトは机の上に置かれた紙へ目を向けた。歴史書を前にした時とは違い、嫌そうな様子はない。むしろ少し自信があるらしく、羽根ペンへ手を伸ばしながら口元を緩めた。
「算術ですか。嫌いではないです。計算なら、わりとできますから」
「それは頼もしいですな。では、簡単な問題から始めましょう」
ガルドは紙を一枚アルベルトの前へ滑らせ、その横に羽根ペンを置いた。
「百戸の家がある村で、それぞれの家が麦を十袋ずつ収穫したとします。村全体では何袋になりますかな」
「千袋です」
アルベルトは紙を使うことなく答えた。
「では、その三割を税として納めてもらえば?」
「三百袋。村には七百袋残ります」
「その通りです」
あまりにも簡単だったのか、アルベルトは拍子抜けしたように羽根ペンを指先で転がした。
「これだけですか?」
「まだ続きがございます。各家は、来年植える種として麦を二袋ずつ残さなければならないとしましょう」
「百戸だから、二百袋ですね」
「さらに、一年間暮らすための食料として、一戸につき六袋必要です」
「六百袋……」
そこまで答えたところで、アルベルトの手が止まった。
税を納めた後に村へ残る麦は七百袋。そのうち二百袋を種麦として取り分ければ、食料に使えるのは五百袋しかない。
今度は羽根ペンを取り、数字を紙へ書き並べて確かめる。
「足りません。食べる麦が百袋足りないです」
「そうなりますな。では若様、先ほど計算した通り、三百袋の税を取ることはできますかな?」
問われたアルベルトは、すぐには答えなかった。紙に並んだ数字を見直してから、ゆっくり首を横へ振る。
「計算では取れます。でも、本当に三百袋取ったら村の人が困ります。食べる麦が足りなくなって、よそから買えなければ、種麦を食べる人も出るかもしれません」
「その種麦を食べてしまえば?」
「来年植えられる麦が減るから、次の収穫も少なくなるかもしれない……」
掛け算も引き算も難しくない。それなのに、いつもの算術問題とは何かが違っていた。
これまでなら、計算して正しい数字を出せば終わりだった。しかし今回は、正しく計算して三百という答えを出したにもかかわらず、それをそのまま使えば問題が起きる。
アルベルトが紙を見つめていると、ガルドはさらに条件を加えた。
「では、不作によって一戸あたり八袋しか収穫できなかったとすれば、どうなりますかな」
「八袋が百戸だから八百袋。三割なら二百四十袋を税で納めて……」
書き始めたアルベルトだったが、種麦と食料の数字を加えるうちに眉間へ皺を寄せた。
「待ってください。税を引いて、そこから種麦を残して、食べる分も考えて……村全部でやると、なんだか分かりにくいです」
「なるほど。では、村の話はいったんやめましょう。分かりにくいものを、分かりにくいまま続けても仕方ありませんからな」
ガルドは無理に計算を続けさせず、紙を裏返した。
「若様は、旦那様から小遣いをいただいておりますか?」
突然話が変わり、アルベルトは目を瞬いた。
「はい。毎月もらっています」
「今月分はまだ残っておりますかな?」
「ありますよ」
「では、少し見せていただけますか」
何をするのだろうと思いながら、アルベルトは机の引き出しから小さな革袋を取り出した。口紐を緩め、中に入っていた硬貨を一枚ずつ机へ並べていく。
「これで全部です」
「では今度は、この小遣いを使って考えてみましょう。自分の金なら、先ほどの村より分かりやすいでしょう」
意図が少し分かったのか、アルベルトは並んだ硬貨を見て笑った。
「それは確かに。村の麦よりは分かりそうです」
「今、何か欲しいものはございますかな。本でも食べ物でも構いません」
腕を組んで考えていたアルベルトは、すぐに一つ思い当たった。
「町の本屋に、続きが読みたい物語があります」
「おいくらです?」
「銀貨四枚です」
「では、買ったことにしましょう」
ガルドが四枚を少し離れた場所へ移す。
「他には?」
「町へ出た時に菓子を買うことがあります。何度か買っても、銀貨一枚くらいだと思います」
「では、それも使ったことにいたしましょう」
さらに一枚が移された。それでも手元にはまだ十分な硬貨が残っているため、アルベルトには余裕があった。
「これなら、まだ全然残りますよ」
「そうですな。では、筆記用のインクがなくなったとしましょう」
「それなら屋敷のものを使えば――」
「今回は、ご自分で買うことになったといたしましょう」
条件を付け加えられ、アルベルトは必要になりそうな分を取り分けた。
「これくらいかな。それでもまだ残っています」
「ではもう一つ。月末に友人の誕生日があり、小さな贈り物を用意することになりました」
「それもですか?」
「買わなくても構いませんよ」
「いや、それは買います」
アルベルトは即座に答え、自分で硬貨を数えて別の場所へ置いた。
最初はかなり多く見えていた小遣いも、使い道を一つずつ決めていくにつれて減っていく。それでも何枚か残っていたため、アルベルトは満足そうに頷いた。
「まだ残っていますよ」
「ええ。では、その残りも全部使ってしまってよろしいですな」
何でもないことのように言われ、アルベルトはすぐに首を横へ振った。
「それは駄目です。何かあった時に困ります」
「何かとは?」
「急に必要な物ができるかもしれないし、また欲しい本が出るかもしれません。それに、今は使う予定がなくても、少しは残しておきたいです」
「なるほど。つまり、手元にあるからといって、すべて使ってよいわけではない?」
「はい。……あれ?」
自分で口にしたところで、アルベルトの動きが止まった。
目の前の硬貨と、先ほど村の収穫量を計算した紙を交互に見る。
「さっきの村も、同じですか?」
ガルドの右目がわずかに細くなる。しかし答えは与えず、続きを促した。
「どういう意味でしょう」
「麦が千袋取れたからって、全部好きにできるわけじゃないですよね。来年の種にする分もいるし、食べる分も必要です。それに、不作や何かあった時のために残しておく分だっているかもしれない」
アルベルトは紙に書かれた千という数字を指した。
「だったら、千袋あるから三百袋を税にしても大丈夫だって、簡単には言えないんですね」
「その通りです。数字の上で取れることと、実際に取って問題がないことは別でございます」
先ほどまで遠い村の話だったものが、自分の小遣いを通した途端、ずっと身近なものに思えてきた。
ガルドは裏返していた紙を元へ戻す。
「では、一戸あたり八袋しか収穫できなかった不作の年へ戻ってみましょう」
「今なら少し分かる気がします」
アルベルトは言われる前に羽根ペンを取り、紙へ八百と書いた。
「まず村全体で八百袋。その中から来年の種に二百袋は残す。食べる麦も必要で……」
「税はどういたします?」
横から尋ねられると、アルベルトは少し考え、紙の端へ『税』と書いた。
「最後に考えます」
ガルドの口元がわずかに緩む。
「なぜ最後なのですかな?」
「最初に税の量を決めたら、あとで何が足りなくなるか分からないからです。必要な分を先に考えて、そのあとでどれくらい取れるか決めた方がいいと思います」
今度は先ほどより迷いなく数字を書き進めた。必要になる量を順番に積み上げれば、不作の年に平年と同じ税を取ることが難しいことが、アルベルトにもはっきり見えてくる。
しかし、そこで別の疑問が浮かんだ。
「でも、税を取らなかったら領主も困りますよね。兵士に給金を払ったり、橋や道を直したりするお金もなくなるんでしょう?」
「その通りでございます」
「だったら、村のことだけ考えればいいわけでもない……」
「領主になれば、そのようなことばかりでしょうな」
アルベルトは困ったように紙を見つめた。しかし以前のように正しい答えを求めてガルドを見ることはせず、自分で別の方法を探し始めた。
「豊作の年に少し多めに取って、余った分を残しておくのはどうですか?」
「できますな」
「そうすれば、不作の年にそこから使える」
「ええ。ただし、豊作だからといって取りすぎれば、領民から不満が出るかもしれません」
新しい条件を出され、アルベルトは思わず笑った。
「また考えることが増えた。じゃあ、どれくらい取るなら大丈夫なのかも考えないといけないんですね」
「そこまで参りますと、算術だけでは済まなくなりますな」
「難しいです。でも、前にやっていた算術とは違いますね」
「算術ではございませんかな?」
ガルドに問われ、アルベルトは紙に並んだ数字を指先でなぞった。
「計算はしてるんですけど、答えが一つじゃないからです。前は計算すれば答えが一つ出て、それで終わりでした」
「数字を出すことだけが、算術の役目ではありません」
ガルドはそう言いながら、机の上に並べられた小遣いの硬貨を指した。
「例えば若様の手元に銀貨が十枚ある。それ自体はただの数字です。しかし、そのうち何枚を使ってよく、何枚を残す必要があるのかまで考えれば、十という数字が持つ意味は変わります」
「数字の意味……」
「帳簿も同じです。百の収入があり、九十しか使っていなければ、数字の上では十余っています。しかし来月には二十必要になると分かっているなら、本当に余裕があると言えますかな?」
アルベルトは少し考え、自分の硬貨を見て頷いた。
「言えません。今残っていても、あとで使う分まで使ったら困ります」
「規模が違うだけで、考え方には似たところがございます」
村の収穫や領地の帳簿と聞けば、自分とは遠い世界のことに感じていた。それが小遣いと同じように考えられるのだと分かり、アルベルトの表情には少し嬉しそうな色が浮かんでいる。
ガルドは机の上に広げていた紙を重ねた。
「では、本日の授業はここまでにいたしましょう」
「はい」
アルベルトが硬貨を革袋へ戻そうとしたところで、ガルドは一冊の薄い帳面を机の上へ置いた。
「最後に、若様へ一つお願いがございます」
「これは何ですか?」
「小遣い帳でございます。今日から、小遣いをいただいた額、使った額、何に使ったのか、そして残っている額を記録してください」
アルベルトは何も書かれていない頁をめくった。
「毎日書くんですか?」
「使わなかった日は必要ございません。ただし、金を使った時には忘れずに記録し、帳面に書かれた残金と実際に持っている金が合うようにしてください」
「これも算術の勉強なんですか?」
「ええ。自分の金を管理できずに、領地の金を管理するのは難しいでしょうからな」
「父上にも見せるんですか?」
少し警戒した顔をされたため、ガルドは小さく笑った。
「今のところ、その予定はございません」
「じゃあ、ガルドが見る?」
「一月ほど続けていただいた後、若様ご自身に見返していただきます」
予想していなかったらしく、アルベルトは目を瞬いた。
「僕が見るんですか? 何を見るんです?」
「それは一月後のお楽しみにしておきましょう」
「またそれですか」
呆れたように息を吐いたものの、口元には笑みが残っていた。
アルベルトは帳面を机の引き出しへしまいかけたが、途中で思い直して取り出すと、羽根ペンを手にした。最初の頁へ今日の日付を書き、その横へ現在持っている小遣いの額を記していく。
「これでいいですか?」
差し出された帳面を確認したガルドは、静かに頷いた。
「結構です。まずはそこから始めましょう」
アルベルトが初めて小遣い帳へ記したのは、歴史書に残る年号でも、算術書に並ぶ計算問題でもない。ただ、自分が今持っている金額にすぎなかった。
けれど、その小さな記録を始めたことで、これまで紙の上に並んでいるだけだった数字は、少しずつ自分の暮らしや、やがて治めることになる領地の営みへと結びつき始めていた。




