第6話 文字が伝えるもの
「今日は読み書きについてお話しいたします」
翌朝、いつもの机を挟んで座ったガルドからそう告げられ、アルベルトは少し意外そうな顔をした。
「読み書きですか?」
「はい」
「でも、それなら最初の授業の時に、できるって確認しましたよね」
アルベルトの言う通りだった。最初の授業で文章を読ませ、短い文章を書かせた結果、読み書きについては年齢相応以上の能力があることをガルド自身が確認している。
「もちろん覚えております。ですから今日は、文字の読み方や綴りを覚えていただくつもりはございません」
「では、何をするんですか?」
「若様が、なぜ読み書きをできなければならないのかを考えていただきます」
アルベルトは首を傾げた。
「本を読むためじゃないんですか?」
「それも一つですな。他には?」
「手紙を書いたり……記録を残したり?」
「それもございます」
ガルドは頷いたものの、それ以上答えを教えようとはせず、机の上に一枚の領地図を広げた。
「若様が領主になられたとしましょう。この屋敷から最も遠い村まで、どれほどかかりますかな」
「馬なら半日くらいだと思います」
「では、その村で問題が起きるたびに、若様ご自身が見に行かれますか?」
「毎回は無理だと思います。ほかの仕事もあるでしょうし」
「そうでしょうな。領地には他にも村がありますし、町もございます。領主だからといって、自分の目で領内すべてを見ることはできません」
アルベルトも素直に頷いた。
「では、離れた村で何が起きたのか、若様はどうやって知ります?」
「村から知らせてもらいます」
「どのようにしてですか?」
「誰かが伝えに来るか……手紙とか?」
「その通りです」
ガルドは地図を畳み、その代わりに二枚の紙を取り出した。
「領主のもとには、村からの陳情、役人からの報告、商人からの申し出、他領からの手紙など、様々な情報が文字となって届きます。税の帳簿もそうですし、契約書や命令書も文字で残されます」
「だから読めないと領主はできない?」
「それだけなら、文字を覚えれば済む話でございますな」
ガルドは二枚の紙をアルベルトの前へ並べた。
「少し読んでみてください」
アルベルトは左側の紙を手に取った。
『ラト村の者ども、本年納めるべき麦の一部を納めず。度重なる催促にもかかわらず、納入の意思を示さず』
短い文章だったため、すぐに読み終わった。
「どう思われます?」
「税を払ってないんですよね」
「そう書かれておりますな」
「催促されても払っていないなら、村の人たちが悪いと思います」
「では、処罰しますかな」
「税を払わなくても何もされないなら、他の村も払わなくなるかもしれませんから……何か罰は必要だと思います」
「なるほど」
ガルドは良いとも悪いとも言わず、今度は右側の紙を差し出した。
「こちらも読んでください」
『ラト村、本年は長雨により麦の収穫が例年を大きく下回る。規定量を納めれば冬越しの種麦まで不足する見込みにつき、村長より納入期限の延期を願い出る』
読み終えたアルベルトは、もう一度最初の紙を見た。
「これ、同じ村ですか?」
「同じ年、同じ村について書かれた報告ということにいたしましょう」
「でも、全然内容が違いますよ」
「何が違います?」
「最初の方だけ読んだら、村の人が税を払いたくなくて拒んでいるように見えます。でも、こっちだと払えない理由がある」
「そうですな」
ガルドは二枚の紙を並べ直した。
「起きていること自体は同じです。ラト村が決められた量の麦を納められていない。しかし、誰が何を見て書くかによって、受け取る印象はこれほど変わります」
「最初の報告を書いた人は、村のことを嫌っていたんですか?」
「その可能性もございます。しかし、それだけとは限りません」
「違う理由も?」
「徴税を担当する者なら、決められた税が入ってこないことを重く見るでしょう。反対に村へ何度も足を運ぶ役人なら、不作の状況を先に見るかもしれません。どちらかが嘘をついているとは限らないのです」
アルベルトは二枚の報告を見比べた。
「じゃあ、どっちを信じたらいいんですか?」
「それを考えるのが、受け取った者の仕事でございます」
「書いてあることを読んだだけじゃ駄目なんですか?」
「文字を声に出せることと、その文字から何が分かるのかを考えることは別ですからな」
ガルドは一枚目を指した。
「誰が書いたのか。なぜこの報告を書いたのか。書かれていないことはないか。他の報告と食い違っていないか。そのようなことまで考えなければ、大切な判断を一枚の紙に任せることになります」
「だったら、村からも話を聞けばいい?」
「良い考えです」
「収穫が本当に少なかったか、別の人にも確認するとか」
「それも必要でしょうな」
アルベルトの表情に、昨日の歴史の授業で見せたものと同じ変化が現れていた。
答えを覚えるのではなく、自分から次の手を考え始めている。
ガルドは急かすことなく、もう一つ問いを重ねた。
「では若様。実際に不作だったとして、どうなさいます?」
「税を減らす?」
「そうしてもよろしいでしょう」
「でも、毎回減らしたら領主のお金がなくなる……」
「ええ、その通りです」
「だったら、今年払えない分を来年に回すとか?」
「それも一つです。ただし、来年も不作なら?」
「また足りなくなる……」
アルベルトは腕を組み、本気で考え始めた。
ガルドはそこで話を止めた。
「今日は税のお勉強ではございませんから、その答えはまた別の機会に考えましょう」
「あ……そうでした」
アルベルトは少し残念そうだったが、その顔には昨日までのような退屈さはなかった。
「読む方は少し分かりました。書いてあることを、そのまま信じるだけじゃ駄目なんですね」
「ええ。では今度は、書く方を考えてみましょう」
ガルドは新しい紙を一枚置いた。
「若様が領主になり、ある村へ麦を用意するよう命じるとします。試しに命令を書いてみてください」
「分かりました」
アルベルトは羽根ペンを取り、少し考えてから紙へ文字を書いた。
『村に麦百袋を用意するよう命じる』
「できました」
ガルドは紙を受け取り、一度読んだ。
「では私は、この命令を受け取った村長ということにいたしましょう」
「はい」
「若様。この麦は、いつまでに用意すればよろしいので?」
アルベルトが止まった。
「……書いてません」
「どこへ運べば?」
「それも書いてないです」
「村に置いておけばよろしいですかな。それとも屋敷へ運びますか?」
「屋敷に……いや、何に使うかによりますね」
「そもそも、この百袋は税でございますか。それとも領主が代金を払って買い上げるので?」
「あ」
アルベルトは自分の書いた命令書を見た。
最初に書いた時には、それで十分伝わると思っていた。しかし、問いを重ねられるほど足りないものが増えていく。
「これだと、何をすればいいのか分からないですね」
「麦を百袋用意してほしい、という意思だけは伝わります。ただ、受け取った者が若様の頭の中まで知ることはできません」
「だったら、全部書かないと」
「必要なことを、でございます」
「全部じゃない?」
「長ければ分かりやすいとも限りません。余計な言葉ばかり増えれば、大事な部分が分からなくなることもございます」
アルベルトは考えながら、先ほどの文章へ書き加えていった。
何のために麦が必要なのか。いつまでに用意するのか。どこへ納めるのか。そして代金を支払うのか、それとも税として求めるのか。
何度か書き直し、ようやくガルドへ差し出した。
「これなら?」
ガルドは目を通した。
「先ほどより、ずっと分かりやすくなりました」
「でも、書くことが増えました」
「命令する側には分かり切っていることでも、受け取る側には分かりませんからな」
アルベルトは自分の文章を見ながら頷いた。
「もし最初の命令をそのまま出していたら、村ごとに違うことをするかもしれない」
「十分あり得ます」
「それで僕が怒ったら……村の人からすれば、書いてなかったってなりますね」
「そういうことでございます」
ガルドは穏やかに笑った。
「領主の言葉では、多くの人や物が動きます。曖昧な命令一つで、必要のない荷物を運ばせたり、余計な金を使わせたりすることもあるでしょう」
「だから、ちゃんと書く必要がある」
「はい。読むことは、離れた場所から届いた情報を受け取ること。書くことは、自分の考えを離れた場所へ正しく届けることです」
アルベルトはしばらく黙っていた。
これまで読み書きの授業といえば、正しい綴りを覚え、文章を書き写し、間違いを直すものだった。
それが必要なことは今でも分かる。
だが、自分がなぜ文字を学んでいるのかまで考えたことはなかった。
「文字って、読めて書ければ終わりじゃないんですね」
「道具というものは、持っているだけでは役に立ちませんからな」
「使い方が大事?」
「その通りでございます」
アルベルトは最初に渡された二枚の報告書へ目を向けた。
「ガルド。もし本当にこういう二つの報告が来たら、どうします?」
「若様なら、どうなさいます?」
また返された。
昨日から、ガルドはなかなか答えを教えてくれない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「まず、どっちを書いた人なのか調べます。それから収穫が本当に少なかったか、他の報告も見ます。できれば村長にも話を聞く」
「それから?」
「それから……税をどうするか考えます」
ガルドはゆっくり頷いた。
「今はそれでよろしいでしょう」
「合ってますか?」
「少なくとも、一枚目を読んですぐ村を罰するよりは、多くのことが分かってから決められますな」
「もっといい方法もあります?」
「あるかもしれません。しかし、最初から完璧な答えを出す必要はございません。まずは、足りないことに気づけるようになれば十分です」
その言葉にアルベルトは納得したようだった。
机の上には歴史書ではなく、二枚の報告書と、自分で書き直した命令書が並んでいる。
それなのに今日も、授業をしているという感覚が昨日までとはまるで違った。
「今日はここまでにいたしましょう」
ガルドが紙をまとめ始めたところで、アルベルトが窓の外を見た。
「もうそんな時間ですか?」
「ええ」
アルベルトは少し驚いた。
前の授業では、時折窓の外を見ながら、まだ終わらないのかと思うことがあった。
昨日も今日も、それがない。
「明日は何をするんですか?」
アルベルトが自然に尋ねると、ガルドは少し考えてから答えた。
「それは明日になってからのお楽しみといたしましょう」
「またですか」
不満そうな言葉とは裏腹に、アルベルトは笑っていた。
ガルドもわずかに口元を緩めると、机の上の紙を整えて立ち上がった。
昨日は歴史。
今日は読み書き。
どちらもアルベルトがすでに学んできたものだったが、これまでとは少し違う姿を見せ始めていた。
そしてアルベルト自身もまた、勉強とはただ答えを覚えるだけのものではないのだと、少しずつ気づき始めていた。




