第5話 歴史の見方
朝の光が差し込む部屋で、アルベルトがいつものように机へ向かうと、ガルドはすぐには教科書を開かなかった。
机の上には歴史書と地図、それに見慣れない古びた書物が一冊置かれている。今日は歴史の授業だろうと思っていたアルベルトは、席へ着いてからガルドの顔を見た。
「今日は勉強をしないんですか?」
「いたしますよ。ただ、その前に昨日お話ししたことを少し」
そう言われ、アルベルトは昨日の授業の終わりを思い出した。
ガルドは教科書を開く前に、領主について話をすると言っていた。
「若様。領主とは、何をする者だと思われますかな」
改めて尋ねられると、アルベルトは少し考えてから答えた。
「領地を治める人です。税を集めたり、法を守らせたり、兵士をまとめたりします」
以前の教育係から習ったことを思い出しながら答えると、ガルドは否定することなく頷いた。
「どれも間違いではございません。では、作物が取れず税を払えない村が出た時、領主はどうしますかな」
「え?」
「村同士が水を巡って争った時は? 商人から、新しい街道を作ってほしいと頼まれたなら? 隣の領主から兵を貸してほしいと言われた時は?」
次々と投げかけられる問いに、アルベルトは言葉を失った。
領主の権利や義務なら教科書に書かれていた。徴税、裁判、治安維持、兵の召集。それらを答えることはできる。
だが、今聞かれたことには決まった答えがない。
「……分かりません」
アルベルトが正直に答えると、ガルドは満足そうに小さく頷いた。
「それでよろしいのです」
「分からなくてもいいんですか?」
「今は、でございます。領主になれば、教科書に答えの書かれていないことを決めねばならぬ時が何度も参ります。作物が取れないからと税を免除すれば領地の収入は減り、逆に無理に取り立てれば村が立ち行かなくなる。街道を作れば商人は喜ぶでしょうが、金も人手も必要になります」
アルベルトは黙って聞いていた。
「その時に必要なのは、覚えた知識だけではございません。何が起きているのかを知り、なぜそうなったのかを考え、いくつかの選択肢の中から一つを選ぶ力でございます」
そこまで聞いて、アルベルトは昨日の授業を思い出した。
「昨日、エルハルト一世のことを聞いたのも?」
「ええ。なぜ諸侯が一人の王に従ったのか。あの問いにも、年号を覚えるだけでは答えられませんからな」
ガルドはそこでようやく歴史書へ手を伸ばした。
「ですから今日は、歴史を少し違った見方で勉強してみましょう」
歴史書が机へ置かれた途端、アルベルトの肩がほんのわずかに落ちた。その変化を、ガルドは見逃さなかった。
「歴史はお嫌いですかな」
「嫌いというわけではありません。ただ、覚えることが多いので」
「王の名前に、出来事が起きた年、戦争の名前。確かに多うございますな」
「はい。前の先生にも、歴史は覚えるしかないと言われました」
「なるほど。では、せっかくよく覚えておられるのですから、それを使ってみましょう」
「使う?」
ガルドは歴史書を開き、ある頁をアルベルトの前へ置いた。そこには、およそ百年前に王国東部で起きた戦争について書かれている。
「この戦については?」
「知っています。百三年前、東のヴァルディア王国が国境を越えて侵攻し、三年続いた戦争です。最後は我が国が勝って、奪われた土地を取り戻しました」
「よく覚えておられますな。では、この戦が始まった理由は?」
「ヴァルディア王国が国境を越えたからです」
「その通り。教科書にもそう書いてあります。では若様、ヴァルディア王国は、なぜ国境を越えたのでしょう?」
アルベルトの表情が止まった。
戦争が始まったきっかけは覚えている。しかし、その一つ前を考えたことはなかった。
「なぜ、と言われても……土地が欲しかったから、ですか?」
「なるほど。それも理由の一つでしょう」
ガルドは机の脇に置いていた地図を広げ、東の国境付近を指でなぞった。
「この辺りを見てください。何がありますかな」
「大きな川があります。それと、王都から東へ延びる街道です」
「その二つが交わる場所には?」
アルベルトは地図を追い、そこに記された町を見つけた。
「エルドの町」
「当時も大きな町でした。川を使った輸送と、街道を行き交う商人が集まる場所だったそうです」
アルベルトは町と周囲の地形を見比べた。
「じゃあ、土地そのものじゃなくて、川と街道が欲しかった?」
「その可能性は高いでしょうな。この町を押さえれば人や荷物が集まり、商人から税を取ることもできる。川を使えば穀物や物資も運べます」
「かなり大事な場所だったんですね」
「そういうことです」
アルベルトはしばらく地図を眺めていたが、やがて小さく首を傾げた。
「でも、それだけで戦争するんですか?」
ガルドの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「いいところに気づかれましたな。金になる土地が欲しいだけで戦争を始めるなら、世の中はもっと戦ばかりになっているでしょう」
「じゃあ、他にも理由が?」
「ございました」
ガルドは歴史書の隣に置いていた古い記録集を手に取った。そこには各地の収穫や王家の歳入、主要な出来事が年代ごとに記されている。
「こちらをご覧ください。この頃のヴァルディア王国では二年続けて収穫が悪く、穀物の値段が上がり、税収も落ちていたようです」
「こんな記録も残っているんですか?」
「歴史書だけが昔を知るための書物ではございません。税や収穫、商人の記録から見えてくることもあります」
アルベルトは歴史書と記録集を交互に見る。
「だから、税が取れるエルドの町が欲しかった」
「それも理由の一つでしょう。ただ、財政が苦しいからといって、簡単に隣国へ攻め込めるものでもありません」
「負けたら、もっと大変になるから?」
「その通りです。兵を集めるにも、武器を揃えるにも、食料を運ぶにも金がかかります。では、その危険を冒してまで戦を始める事情は他に何があったのでしょうな」
アルベルトは歴史書へ戻り、当時の王の名を探した。
「この時の王は、レオル二世ですね」
「即位してまだ三年ほどで、年も二十五ほどだったとされています。それだけではなく、有力な貴族の中には前王の弟を支持する者もいたそうです」
「王様なのに、みんなが従っていたわけじゃない?」
「王冠をかぶれば、全員が心から従うとは限りません」
教科書では、王は即位した瞬間から国を治める存在として書かれていた。だが実際には、王になった後も国内で立場を固めなければならないことがあるらしい。
「では若様。国内の貴族がまとまっていない時、国外に強い敵が現れたらどうなるでしょう」
「敵と戦うために……協力する?」
「そうなる場合があります」
「戦争を使って、国内をまとめようとした?」
「その可能性もございますな。戦に勝てば王自身の力を示せますし、新しい土地を得れば税収も増やせる。戦功を挙げた貴族へ土地や利益を与えれば、味方を増やすこともできるでしょう」
アルベルトはしばらく黙り、地図、歴史書、記録集へ順番に視線を移した。
昨日までなら、百三年前に起きた戦争と聞けば、その名前と勝敗、王の名を思い出すだけだった。
だが今は、それらが一本の糸でつながり始めている。
「つまり、川や街道がある土地が欲しかったこと、国のお金が足りなかったこと、それに王様が国内をまとめたかったことが重なっていた?」
「そう考えると、教科書に書かれた『国境を侵した』という一文の奥が、少し見えてまいりますな」
「でも、教科書にはそこまで書いてないですよ」
「教科書が間違っているわけではございません。ただ、一冊の本ですべてを知ることはできません。なぜその行動を取ったのかを考えるなら、政治だけでなく経済や地理、人の思惑まで見る必要があります」
アルベルトは納得したように頷いた。
「戦争には、一つだけの理由しかない方が珍しいんですね」
「ええ。人が何かを決める時と同じでございます」
しばらくして、アルベルトが地図を見つめたまま口を開いた。
「もし僕がヴァルディアの王だったら、どうしたんでしょう」
ガルドの右目がわずかに細くなった。
「若様なら、どうなさいますか?」
「え?」
「せっかくです。考えてみましょう」
突然問いを返され、アルベルトは戸惑ったものの、すぐに地図へ向き直った。
「戦争は……できればしたくないです。負けたら大変だし、兵を集めるのにもお金がかかるから」
「その通りです」
「だったら……商人からもっと税を取る?」
「それで財政は立て直せそうですかな」
アルベルトは少し考えてから首を振った。
「取りすぎたら商人が困るし、商売をやめたり、他の町へ行ったりするかもしれない」
「では、他には?」
「貴族から取る?」
「貴族たちは喜びますかな」
「喜ばないでしょうね。今より反発されるかもしれない」
「では、どうしましょう」
答えを急かすことなく、ガルドは待った。
アルベルトは地図の上を指で追い、やがてエルドの町で指を止めた。
「交易を増やせたら……税も増えますか?」
「増える可能性はございますな」
「じゃあ、エルドの町を取るんじゃなくて、ここの商人ともっと取引できるようにする?」
「それも一つの考え方でしょう」
「でも、相手の国が認めてくれないかもしれない」
「その場合は?」
「話し合う?」
「外交ですな」
アルベルトはそこで少し笑った。
「歴史の勉強なのに、なんだか領主の仕事を考えているみたいです」
「そのために歴史を学ぶ、と考えてもよろしいでしょう」
ガルドは歴史書の表紙へ手を置いた。
「昔の人間も、我々とまったく違う生き物だったわけではございません。何かに困り、どうすればよいか考え、時には正しい判断をし、時には間違える。その積み重ねが歴史でございます」
「年を覚えるだけじゃないんですね」
「年を覚えることも大切です。順番が分からなければ、出来事のつながりも見えません。ただ、それだけで終わらせるのは少々もったいない」
アルベルトは閉じられた歴史書と、その横に置かれた記録集を見つめた。
これまでは厚い歴史書を見るたびに、また名前と年を覚えなければならないと思っていた。
だが今は違う。
その頁の向こう側で、誰が何に困り、何を考えて決断したのか。それを少し知りたいと思っている。
「ガルド」
「はい」
「この戦争の次に起きた戦も、こういう理由があるんですか?」
「ございますな」
「それも教えてください」
ガルドは一瞬だけ黙った。
昨日まで歴史書が机へ置かれるだけでわずかに肩を落としていた少年が、自分から続きを知りたいと言っている。
「もちろんでございます。では、少しだけ先へ進みましょうか」
「はい」
アルベルトは先ほどまでより少し机へ身を乗り出した。
その日の歴史の授業は、いつもより長く続いた。
けれどアルベルトが窓の外へ目を向けることは、一度もなかった。




