第4話 もう一度
自室へ戻ったガルドは扉を静かに閉めると、壁際に置かれた小さな燭台へ火を灯し、その揺れる明かりの中でゆっくりと部屋を見渡した。
与えられた部屋は狭く、寝台と小さな机、それに衣服を入れるための木箱が一つあるだけだったが、奴隷商のもとで何人もの奴隷と同じ場所に寝起きしていた頃に比べれば、十分すぎるほど静かで落ち着ける場所だった。
ガルドは寝台の端へ腰を下ろし、一日中歩き回ったことで鈍く痛み始めた左脚を前へ伸ばした。膝から太腿にかけて古傷の周囲をゆっくりさすりながら、しばらくは何も考えず、燭台の光が薄暗い床の上で揺れる様子を眺めていた。
やがて意識の中へ浮かんできたのは、昼間に向き合った少年の顔だった。
アルベルト・レイン、十三歳。
読み書きはでき、算術にも問題はなく、歴史や地理についても、これまで教えられてきたことをよく覚えている。それだけなら、裕福とは言えなくとも男爵家の嫡男としてきちんと教育を受けてきた少年なのだから、特別珍しいことではない。
ガルドが気になったのは、知識の量とは別のところだった。
問いかければ、アルベルトは考えようとした。すぐに答えが分からなくても、知っていることを一つずつ拾い上げ、自分なりに答えへたどり着こうとし、分からないことを誤魔化したり、間違えたことで機嫌を損ねたりすることもなかった。
そして何より、人の話を素直に聞くことができる。
「……地頭は悪くない」
整えられた髭を撫でながら小さく呟いたガルドは、すぐにその評価を心の中で改めた。
悪くないどころか、教え方さえ間違えなければ、あの少年はかなり伸びるのかもしれない。
頭の良い者なら、これまでにも数え切れないほど見てきた。
かつてガルドが仕えていたレグナ王国にも、幼い頃から神童と呼ばれる貴族の子弟はおり、書物を一度読めば内容を覚え、複雑な計算を苦もなくこなし、大人顔負けの弁舌を披露する者さえいた。
しかし、知識が豊富であることと、よい統治者になれることは同じではない。
自分の考えに固執して他人の意見を聞こうとしない者もいれば、身分の低い者の言葉には最初から価値がないと決めつける者もいた。間違いを認めることを恥だと思い、失敗を部下へ押しつける者や、都合の悪い報告を遠ざけて聞きたい話だけを聞く者も、決して少なくなかった。
ガルドは、それらを嫌というほど見てきた。
まだ自分がレグナ王国の軍師だった頃には、それでも国を立て直すことはできると考えていた。
情報を集め、兵の数を整え、街道を調べ、食糧の備蓄を確認する。敵軍だけを見ていては国を守れないと考え、農村の疲弊や商人の動き、貴族同士の対立にまで目を向けながら、戦う前に勝てる形を作ることこそが軍師の役目だと信じていた。
戦とは、戦場で突然始まるものではない。
剣を交えるよりずっと前から、その勝敗を左右する条件は少しずつ積み重なっていくのだと、ガルドは何度も説いてきた。
しかし三十八の時、政争に敗れた。
地位を失い、軍から離され、財産の多くまで失ったものの、それでも祖国を捨てる気にはなれず、ガルドは一人の臣民としてレグナ王国に残った。
そこからの十年は、国が内側から少しずつ壊れていく様子を見続ける時間となった。
税は年々重くなり、農村は疲弊していった。貴族たちは国全体よりも互いの領地や権益を優先し、軍では必要な物資さえ満足に揃わなくなっていったが、それでも危険を訴える声が完全になかったわけではない。
これ以上税を重くすれば、翌年の収穫まで減る。
軍を動かすのであれば、先に兵糧と輸送路を確保しなければならない。
敵国が国境付近へ兵を集め始めている以上、今は貴族同士で争っている場合ではない。
そうした声は確かに存在していた。
それでも、本気で耳を傾けようとする者は少なかった。
そしてガルドが四十八の年、レグナ王国は滅んだ。
敵国の軍勢だけが祖国を滅ぼしたのではなく、その刃が届くより前から、国はすでに内側より崩れ始めていたのだと、ガルドは今でも考えている。
戦乱の中で捕らえられた彼は奴隷となり、それから十年以上、過去の名も地位も必要とされないまま生きてきた。
ふと右手へ視線を落とすと、手の甲には奴隷であることを示す紋が刻まれている。
かつて王国の行く末を論じていた男も、今では一人の老奴隷にすぎない。
その事実に、いまさら大きな感情を抱くことはなかった。
王国は戻らず、失った地位も若さも、古傷によって失った左脚の自由も戻ってこない。それならば残された人生は、与えられた仕事をこなしながら静かに終わればよいと、少なくともこの屋敷へ来るまではそう考えていた。
ガルドは寝台へ身体を預けながら、再びアルベルトの姿を思い浮かべた。
知らないことを恥じず、問いかければ考えようとし、間違えても腹を立てることなく人の話を聞くことができる。
それが十三歳という年齢ゆえの素直さにすぎず、この先成長する中で変わってしまう可能性もあるのだろう。
だからこそ、今のうちに教える意味がある。
知識そのものだけではなく、その使い方を。
何かを決める前に、なぜそうなるのかを考えること。一つの話だけで判断せず、別の見方がないか確かめること。自分より身分の低い者であっても、必要な言葉には耳を傾けること。そして、自分が間違っていたと分かった時には、それを認めて考え直すこと。
どれも書物を暗記しただけでは身につかないものだが、領主となる者には必要なことだった。
「育ててみるか……」
思わず口から出た言葉に、ガルド自身がわずかに目を細めた。
誰かを育ててみたいなどと考えたのは、いったいいつ以来だろう。
名君にしてみせるなどと、大それたことを考えているわけではない。ただ、あの少年が今持っているものを伸ばしてみたいと思った。
知識を持っているだけの貴族ではなく、自分で考え、人の話を聞き、最後には自らの責任で決断できる男へと育ててみたい。
もし、そこまで導くことができたなら、かつて国一つを相手にしても届かなかった自分の言葉が、今度は一人の少年には届くのかもしれない。
そんなことを考えている自分がおかしくなり、ガルドは自嘲するようにわずかに笑った。
「老いぼれが、今さら何を考えておるのやら」
しかし、そう呟いた声に後悔はなく、むしろ胸の奥には長い間忘れていた感覚が、ほんのわずかながら戻り始めていた。
明日は、歴史を教えてみよう。
年号や王の名前を覚えさせるだけではなく、その出来事がなぜ起きたのかを考えさせる。
戦争一つを取っても、原因は兵や剣だけではない。土地があり、金があり、食糧があり、さらにそこへ人の欲や恐れ、思惑が絡み合うことで、初めて一つの出来事が起こる。
アルベルトなら、問いを重ねていけば考えようとするだろう。
ガルドは燭台の火を吹き消し、暗くなった部屋の中で寝台へ身体を横たえた。
目を閉じると、今日初めてまともに言葉を交わした少年の顔が浮かんでくる。
国も地位も自由も失ったが、自分の中へ積み重なった知識と経験まで奪われたわけではない。
それを次へ渡すことなら、まだできる。
老軍師だった男は、久しく感じることのなかった小さな目的を胸の内に抱きながら、やがて静かな眠りへ落ちていった。




