第3話 教師として
アルベルトの部屋を出たガルドは、静かに扉を閉めると、そのまま屋敷の奥にある執務室へ向かった。
午後の日差しはまだ高く、南向きの窓から差し込む光が廊下の床を長く照らしている。古い屋敷ではあったが手入れは行き届いており、磨かれた床板には窓枠の影がくっきりと落ちていた。壁際には花を生けた小さな壺や、代々の当主と思われる肖像画が控えめに飾られている。
左足に古傷を抱えるガルドは急ぐことができない。歩くたびにわずかに身体が傾き、硬い床へ靴音が一定の間隔で響いていたが、歩調そのものは乱れなかった。
何人かの使用人とすれ違うたび、相手は一瞬だけ右手の甲へ視線を落とす。
そこには奴隷であることを示す紋が刻まれている。
昨日この屋敷へ連れてこられた時とは違い、髪も髭も整えられ、身につけている衣服も清潔なものになっていた。それでも、ガルドが奴隷であることに変わりはない。使用人たちは教育係になった老奴隷をどう扱えばよいのか、まだ決めかねているのだろう。
ガルド自身は、そんな視線を気にすることなく歩き続けた。
やがて執務室の前まで来ると、姿勢を整えて扉を二度叩いた。
「入れ」
中から低い声が返ってくる。
「失礼いたします」
扉を開けると、レイン男爵家当主バリアス・レインが大きな執務机に向かい、何枚もの書類を広げていた。
机の上には書簡や帳簿が積まれ、脇には封を切ったばかりらしい手紙まで置かれている。壁際の棚にも帳面が並び、椅子の横には領地図を丸めた筒がいくつか立てかけられていた。
決して広い執務室ではない。
だが、この小さな男爵領を動かすための仕事が、この一室へ集まっていることだけはよく分かった。
「ガルドか。どうした」
バリアスは手にしていた羽根ペンを置き、顔を上げた。
「若様の本日の教育が終わりましたので、ご報告に参りました」
その言葉を聞くと、バリアスは窓の外へ目を向けた。まだ日が高いことを確かめるように眺めてから、少し意外そうな表情を浮かべる。
「もう終わったのか? 随分早いな。前の教育係なら、この時間でもまだ教えていたぞ」
責めている様子はなく、単純に授業時間の短さを不思議に思っているらしい。
ガルドは机の前で静かに頭を下げた。
「本日は授業を進めることよりも、若様がこれまでどこまで学ばれているのかを確認することを優先いたしました。必要なことは一通り把握できましたので、そこで終わりといたしました」
「そういうことか」
バリアスは椅子の背へ身体を預けると、机の上で指を組んだ。
「それで、アルベルトはどうだった?」
「読み書きについては問題ございません。算術も年齢を考えれば十分でございます。歴史や地理についても、これまで教えられたことはよく覚えておられました」
ガルドが淡々と報告すると、バリアスは肩の力を少し抜いた。
「なら、少なくとも今までの金が全部無駄だったわけではないな」
冗談めかして笑ったものの、その言葉の裏には切実さが混じっている。
以前の教育係へ支払っていた給金は、この家にとって決して軽い負担ではなかったのだろう。
「以前の教育係の方は、きちんと仕事をしておられたのでしょう」
「そうか」
息子の出来が悪いと言われなかったことで安心したのか、バリアスの表情がわずかに緩んだ。
その様子を見てから、ガルドは少し間を置いた。
「旦那様。一つ、お願いしたいことがございます」
「何だ?」
「若様への教育方法を、私なりに変えさせていただいてもよろしいでしょうか」
バリアスが眉を上げる。
「変える?」
「はい。これまでのやり方を否定するつもりはございません。書物を読み、必要なことを覚えていただくことは大切です。ただ、それだけではなく、今後は若様ご自身に考えていただく時間を増やしたいと思っております」
バリアスはすぐには返事をせず、机の向こうからガルドを見た。
「具体的には?」
「歴史であれば、戦が起きた年や王の名だけを覚えるのではなく、なぜ戦が起きたのかを考えていただきます。地理であれば、川や町の名前を覚えるだけでなく、なぜその場所に町ができ、人が集まったのかを考えていただく。そのような形でございます」
「なるほど」
バリアスは腕を組み、背もたれから身体を起こした。
「必要なことを覚えさせるのをやめるわけではないんだな?」
「もちろんでございます。読み書きや算術などの基礎を疎かにするつもりはございません。ただ、覚えたものを使って考えることにも、少しずつ慣れていただきたいと思っております」
しばらくガルドの言葉を吟味するように黙っていたバリアスだったが、やがて腕を解いた。
「なら構わん」
あまりにもあっさりとした答えに、ガルドがわずかに顔を上げる。
「よろしいので?」
「お前を教育係にしたのは、私がアルベルトに勉強を教える時間を十分に取れないからだ。教え方まで一つ一つ私が決めるなら、お前を置いた意味がないだろう」
そう言いながら、バリアスは机の書類を一枚手に取り、署名の必要な箇所へ目を落とした。
「結果が出るなら好きにやれ。ただし、基礎を忘れさせるな。それだけだ」
「承知いたしました」
ガルドは深く頭を下げた。
話が終わったと判断し、退室しようとしたところで、バリアスが再び顔を上げる。
「それにしても、授業がこれだけ早く終わるなら、その後ずっと暇にさせておくのも勿体ないな」
ガルドは扉へ向けかけていた身体を戻した。
「何か仕事がございましたら、お申し付けください」
「そう言うと思った」
バリアスは口元をわずかに緩めると、机の端に積まれた厚い帳簿へ目を向けた。
「お前、計算はできるんだったな」
「はい」
「なら、教育のない時間は帳簿を手伝ってくれ。ここにあるのは屋敷の支出と、領地から入る税の記録だ。全部を任せるわけではないが、計算の確認と整理くらいならできるだろう」
「拝見してもよろしいでしょうか」
「ああ、構わん」
許可を得ると、ガルドは机へ近づき、積まれていた帳簿の一冊を両手で持ち上げた。
革張りの表紙は何度も開かれたことで角が丸くなっており、頁の端にも指の跡が残っている。
最初の頁を開くと、麦や豆による納税、銀貨で納められた税、使用人への給金、馬の飼料、薪や油の購入費などが細かく記されていた。ところどころ書き手が変わっているため文字には癖があったが、読めないほどではない。
ガルドは何頁か静かにめくり、記載方法を確かめた。
「かなり細かく記録されておりますな」
「家令がまとめている。私は最後に確認するが、最近は他の仕事が多くてな。村からの陳情もあるし、水路の修繕も止められん。どうしても帳簿は後回しになる」
バリアスは机に積まれた書類を顎で示しながら、少し疲れたように息を吐いた。
「では、数字の照合と項目ごとの整理を行えばよろしいでしょうか」
「ああ。ただし、勝手に数字を書き換えるな。間違いらしいものを見つけても印をつけるだけにして、私か家令に確認しろ」
「承知いたしました」
ガルドは帳簿を閉じかけたが、窓から差し込む光を一度見たあと、そのまま手に持った。
「では、本日から始めさせていただきます」
「今からか?」
「まだ日が高うございますので」
バリアスは一瞬だけガルドを見つめた。
昨日買ってきたばかりの老奴隷が、初日の教育を終えた直後から別の仕事まで引き受けようとしているのだから、少し呆れたのかもしれない。
やがて口元に苦笑を浮かべた。
「好きにしろ。だが無理はするなよ。買った翌日に倒れられても困る」
「心得ております」
そうしてガルドは執務室の端に置かれた小さな机を借り、帳簿へ向かった。
最初に行ったのは、ただ数字を追うことだった。
税として記録された麦の量と倉庫へ収められた量、銀貨で支払われた税と物納されたもの、屋敷から出ていった金額と、その用途を一つずつ照らし合わせていく。
羽根ペンを手にして数字を書き写すのではなく、間違いがないかを確認しながら小さな印だけを残していった。
しばらく頁をめくっていると、紙の擦れる音と羽根ペンが走る音だけが執務室に続いた。
バリアスも余計な話をせず、自分の仕事へ戻っている。
ガルドにとって、こうした作業は苦になるものではなかった。
帳簿は数字の羅列に見えて、その実、その家の暮らしそのものを記している。
馬の飼料が増えれば、使っている馬の数や移動が増えたことが分かる。薪の購入量が増えていれば、季節の変化や備蓄の不足を考えることもできる。修繕費が続いていれば、屋敷や領内の設備に問題があるのだろう。
だが、ガルドはそれらに気づいても余計なことを口にはしなかった。
この屋敷へ買われて、まだ二日目にすぎない。
自分に求められているのは、この家の財政へ意見することでも、領地の内情へ踏み込むことでもない。今はただ、命じられた数字を正確に確認し、任された仕事を果たせばよかった。
頁を何枚か進めるうちに、窓から差し込んでいた光は次第に傾き、机の上へ伸びる影が長くなっていった。
使用人が一度だけ灯りの準備に顔を出した頃、バリアスが書類から顔を上げる。
「今日はそこまででいい」
声をかけられたガルドは、ちょうど確認していた頁へ細い紙片を挟み、帳簿を閉じた。
「承知いたしました。明日はここから続きを確認いたします」
「ああ。それでいい」
バリアスは手元の書類をまとめながら、何気ない調子で付け加えた。
「教育の方も任せる」
短い一言だったが、それはガルドにとって、アルベルトの教師として裁量を与えられたという意味でもあった。
「承知いたしました」
ガルドは立ち上がり、帳簿を元の場所へ戻してから深く一礼した。
「それでは、失礼いたします」
執務室を出ると、廊下にはすでに夕暮れの色が落ちていた。
昼間には明るく照らされていた床も今は薄暗く、窓の向こうでは屋敷の屋根越しに赤みを帯びた空が見えている。遠くからは夕食の支度をする物音と、使用人たちの声がかすかに聞こえてきた。
ガルドは左足をわずかに引きながら、自分に与えられた部屋へ向かった。
明日から何を、どのように教えるか。
その答えを今すぐ決める必要はない。
教育係として若君と向き合う時間は、これから始まるのだから。
静かな廊下を進みながら、ガルドは今日一日を振り返ることなく、自分の部屋へと戻っていった。




