第2話 これまでの学び
翌朝、東向きの窓から差し込んだ朝の光が、アルベルトの勉強机を斜めに照らしていた。磨かれた木の天板には歴史、地理、算術の本が種類ごとに積まれ、その脇には羽根ペンとインク壺がきちんと並べられている。
アルベルトがいつものように椅子へ腰を下ろし、今日使う本を確かめていると、ほどなくして扉が二度叩かれた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
静かに扉を開けて入ってきたのは、昨日父が買ってきた老奴隷――ガルド・ヴァレンだった。
伸び放題だった髪は短く切られ、頬から顎を覆っていた髭も整えられている。濃い灰色の上衣も体に馴染み、奴隷商から連れてこられた時の薄汚れた姿とはずいぶん印象が違っていた。白く濁った左目と、歩くたびにわずかに引きずられる左足を除けば、長年屋敷に仕えてきた老使用人と言われても不思議ではない。
もっとも、右手の甲に刻まれた奴隷紋だけは、どれほど身なりを整えても消えるものではなかった。
ガルドは机の前まで進むと、静かに腰を折った。
「おはようございます、若様。本日からよろしくお願いいたします」
「おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
アルベルトも椅子から立って軽く頭を下げた。昨日は父から突然、この老人を新しい教育係にすると告げられたため驚きの方が大きかったが、一晩眠ったことで多少は気持ちも落ち着いている。
父が何も考えずにガルドを買ったわけではないらしい。文字が読めて計算もでき、歴史や地理についても知識があるというのなら、ひとまず教わってみるしかないだろう。
アルベルトが座り直すと、ガルドは机に積まれた本をゆっくり見渡した。
「まずは、これまでどのようなことを学ばれてきたのか、教えていただけますかな」
「読み書きと算術、それから歴史と地理です。最近は領地制度と法も少し始めました。礼儀作法は別の先生から習っています」
「なるほど。十三歳でそこまで進んでおられるなら、十分でしょう」
「普通だと思いますけど……」
「では本日は、その中身を少し確認させていただきましょう」
ガルドは壁際から椅子を一脚借りて机の横へ腰を下ろしたが、教科書を開くことも、紙へ問題を書き並べることもしなかった。
「試験をするんじゃないんですか?」
「試験というほど大げさなものではございません。私が若様のことを何も知らぬまま授業を始めれば、すでにご存じのことまで教え直すことになりますからな」
「前に習ったところから始めるのでは駄目なんですか?」
「駄目ではございませんが、知っていることを一から聞かされるのは退屈でしょう」
アルベルトは一瞬返事に詰まった。以前、教育係が代わった時には、それまで学んだ範囲を最初から確認し直したことがある。必要なことだと思っていたため何も言わなかったものの、確かに退屈ではあった。
そんなことを教師の側から言われたのは初めてだった。
「では、簡単なところから参りましょう」
ガルドが紙と筆記具を差し出し、まず読み書きから確認した。アルベルトは本に書かれた文章を淀みなく読み、自分でも問題なく文章を書くことができたため、いくつか綴りを確かめただけで次の算術へ移った。
「三十二枚の銀貨を八人へ同じ数ずつ分ければ?」
「一人四枚です」
「では、百二十袋の麦のうち四分の一を取り分けると?」
「三十袋」
「結構です」
足し算や引き算だけでなく掛け算や割り算も確かめられ、少し複雑な問題では紙を使ったものの、アルベルトは習った手順通りに数字を並べ、ほとんど間違えることなく答えを出した。
ガルドはそのたびに小さく頷くだけだったため、アルベルトは次第に拍子抜けしてきた。
「これだけですか?」
「計算そのものができるかを見たかっただけです。困っておられないのであれば、それ以上続けても意味はございますまい」
今までの教師なら、正解すればもう一問、その次にはさらに難しい問題を出したものだが、ガルドは違うらしい。
続いて歴史へ移ると、今度は王国の成り立ちについて質問された。
「現在の王朝が始まったのは?」
「二百十二年前です。初代国王エルハルト一世が諸侯をまとめ、王国を建てました」
「東部で起きた大きな反乱は?」
「建国から四十七年後のローダン侯の反乱です。王国軍が三年をかけて鎮圧しました」
「その時の国王は?」
「エルハルト三世です」
主要な王の名、大きな戦争、条約、反乱、それらが起こった年代まで、アルベルトはほとんど迷わず答えた。
「よく覚えておられますな」
「前の先生に、何度も覚えさせられましたから」
少し胸を張ったアルベルトに、ガルドは小さく頷いたあと、それまでとは違う問いを投げかけた。
「では、エルハルト一世が諸侯をまとめることができたのは、なぜでしょう」
「え?」
そこで初めてアルベルトの答えが止まった。
窓の外では小鳥が庭木の枝を揺らしている。アルベルトは机に置かれた歴史書へ目を落としたが、ガルドは本を開くようには言わない。
「諸侯をまとめて国を作ったのでしょう?」
「はい。それは覚えています」
「では、それまで互いに領地を争っていた諸侯が、なぜ一人の男に従ったのでしょうな」
「それは……エルハルト一世が優れた王だったから、でしょうか」
「そう書かれていましたかな?」
「確か……そんな感じだったと思います」
アルベルトは記憶の中から教科書の文章を探したものの、建国、諸侯の統一、王国成立という言葉が浮かぶばかりで、問いに対する答えにはならなかった。
「分かりました。では次へ参りましょう」
ガルドは正解とも不正解とも言わなかったため、アルベルトにはかえってその問いが気になった。
地理でも同じだった。
王都の西を流れる大河はルーゼ川、北にはグラン山脈があり、南の主要都市はベルン、カスティア、ローム。名前や場所について尋ねられれば、アルベルトは迷うことなく答えることができた。
そこで、ガルドは大きな地図を机いっぱいに広げると、王都から離れた一つの町を指先で押さえた。
「若様がこの町の商人だったとしましょう。荷車に布を積み、王都まで運ばねばならないとすれば、どの道を使われますかな?」
「……一番近い道でしょうか」
「どれです?」
アルベルトは指先で街道をたどった。直線距離だけなら近い道があったが、途中には山があり、別の道を選べばかなり遠回りになる代わりに大河沿いを進むことができる。
「こっち……かな。でも、かなり遠回りです。だったら山を越える方が早いのかな」
「なるほど」
「正解はどっちなんですか?」
「今日は正解を教えるためではなく、若様がどのように考えるのかを見ておりますのでな」
結局、ここでも答えは教えられなかった。
午前の確認が終わる頃には、ガルドの中でおおよその見当がついていた。
アルベルトは決して出来の悪い子供ではなく、むしろ十三歳としては真面目によく学んでいる。以前の教育係も仕事を怠っていたわけではなく、読み書きと算術の基礎を身につけさせ、歴史や地理についても必要な知識をきちんと覚えさせていた。
ただ、それぞれの知識がまだ結びついていない。
川や町、街道の位置は知っていても、それらが人の暮らしや商売とどう関わるのかを考えたことはなく、戦争の年代や勝敗を覚えていても、なぜ争いが起こり、なぜ一方が敗れたのかを問われると教科書の中から答えを探そうとする。
知識が足りないのではなく、それを使って考える機会を与えられてこなかったのだ。
昼食を挟んで午後の確認が始まると、窓から差し込む光は朝より高い位置から部屋へ入り、庭からは使用人たちが荷を運ぶ声や、兵士たちの訓練する木剣の音が時折聞こえてきた。
質問が続くにつれてアルベルトの視線は何度か窓へ向かい、歴史書が再び机に置かれた時には、本人も気づかないほど小さく肩を落とした。問いにはきちんと答え、褒められれば礼儀正しく礼を言うものの、そこに楽しそうな様子はない。
それをしばらく見ていたガルドは、開いていた本を静かに閉じた。
「若様。勉強はお嫌いですかな?」
「嫌いではありません。領主になるなら必要だと父上にも言われていますし、前の先生も、今のうちにきちんと覚えておかなければいけないと」
「なるほど。しかし私は、必要かどうかを伺ったのではございません。勉強することを面白いと思っておられますかな?」
アルベルトはすぐには答えず、窓へ向けかけた視線を途中で戻した。
「……面白くはないです」
「以前の教育係がお嫌いでしたか?」
「いえ、いい先生でした。間違えればちゃんと直してくれましたし、分からないところは何度でも説明してくれました。でも、本を読んで、覚えるところを教えてもらって、次の日に答えて……ずっとその繰り返しだったので」
そこまで話したところで、アルベルトは少し不安そうにガルドを見る。
「僕がちゃんと勉強しなかっただけですか?」
「いいえ。今日見た限りでは、若様は教えられたことをよく覚えておられます。読み書きも算術も十分ですし、歴史や地理も十三歳としてはよく学んでおられる。以前の教育係も、きちんと役目を果たされたのでしょう」
「そうなんですか?」
安心したように表情を緩めたアルベルトだったが、すぐに別の疑問が浮かんだ。
「では、何か問題があるんですか?」
ガルドは机に積まれた本を眺めながら、ゆっくりと顎髭を撫でた。
「問題というほどのものではございません。ただ、若様が何を知り、どのように学んできたのかはよく分かりました」
「じゃあ、明日からその続きですか?」
その問いを聞いた瞬間、アルベルトの表情からほんの少しだけ明るさが消えた。本人でさえ気づいていないほど小さな変化だったが、ガルドは見逃さなかった。
「そうですな。明日からは少しやり方を変えてみましょう」
「やり方を? 何をするんですか?」
少し身を乗り出したアルベルトに、ガルドはわずかに笑った。
「それは明日のお楽しみということにしておきましょう」
「お楽しみ……?」
教育係の口からそんな言葉を聞いたことがなく、アルベルトは怪訝そうに眉を寄せた。
ガルドは椅子から立ち、使った本を一冊ずつ元の場所へ戻していく。
「本日はここまでにいたしましょう」
「もう終わりですか? まだ時間がありますよ」
「必要なことは確認できましたからな。時間が余ったからといって、必要のないことまで続ける理由もございますまい」
これまでなら時間が残れば次の頁へ進むのが当たり前だったため、アルベルトは妙なことを言う老人だと思いながらも、それ以上引き止めなかった。
ガルドは左足をわずかに引きずりながら扉へ向かい、手を掛けたところで一度振り返った。
「若様。明日は教科書を開く前に、少しお話をいたしましょう」
「話、ですか?」
「ええ。領主についてのお話です」
それだけを言い残してガルドが部屋を出ると、扉の閉じる音とともに室内へ静けさが戻った。
アルベルトは机の上に積まれた本を眺めた。今日やったことのほとんどは、これまで習ってきた内容の確認であり、新しく覚えたことなどほとんどない。それなのに、昨日までの授業とはどこか違って感じられた。
中でも頭から離れないのは、歴史の途中で尋ねられた問いだった。
なぜ、争っていた諸侯は一人の王に従ったのか。
エルハルト一世が国を作ったことは知っているし、いつ王国が成立したかも覚えている。それでも、なぜ彼らが従ったのかと問われれば答えられなかった。
アルベルトは机の端に置かれた歴史書へ手を伸ばしかけたが、指先が表紙に触れる前に動きを止めた。
明日、聞けばいい。
そう考えて椅子を離れたアルベルトは、自分が明日の授業をほんの少し楽しみにしていることには、まだ気づいていなかった。




