第1話 新しい教育係
思い立って勢いで書いてみました!
勢いで書くかもしれませんが、じっくり書き始めたら長い目で見てもらえたらうれしいです。
朝食を終えた頃、レイン男爵家の当主バリアス・レインは、執務室で一枚の紙を眺めていた。
机の向こうには、これまで十三歳になる息子アルベルトの教育を任せていた男が立っている。
「今月いっぱいで、ということだな」
「はい。北のブラン侯爵家に仕えることになりました」
「分かった。これまで息子を見てくれたことには感謝する」
「ありがとうございます」
やり取りはそれだけだった。男は深く頭を下げ、数日後にはレイン家を去っていった。
問題は、その後である。
「新しい教育係を雇わねばなりません」
家令の言葉に、バリアスは机に広げた帳簿から顔を上げた。
「雇うのは無理だ」
「しかし、若様はまだ十三歳です」
「分かっている。だから奴隷商へ行く」
家令が眉を寄せた。
「まさか、奴隷を若様の教育係に?」
「読み書きと計算ができて、多少なりとも学がある者を探す。まともな家庭教師を雇える金がない以上、仕方あるまい」
レイン家の領地は小さく、収入も多くない。屋敷の修繕、兵士への給金、馬の飼料、冬支度に加え、村からは水路の補修も求められている。
その一方で、アルベルトの教育を止めるわけにもいかなかった。
いずれ領地を継ぐ以上、読み書きや算術だけでなく、歴史、地理、法、礼儀作法など、学ばせるべきことはいくらでもある。
「ですが、貴族の子弟を奴隷に教えさせるなど、他家に知られれば何と言われるか」
「体裁で給金が払えるなら苦労はせん」
バリアスは帳簿を閉じた。
「背に腹は代えられん」
家令はなおも不満そうだったが、反論はできなかった。
その日の午後、バリアスは町の奴隷商を訪れた。
「読み書きのできる者を探している。計算もできればなおいい」
「事務仕事でございますか?」
「息子の教育係だ」
奴隷商は一瞬、聞き間違えたような顔をした。
「奴隷を、でございますか?」
「そのために来た」
バリアスが平然と答えると、奴隷商はすぐ商売人の顔へ戻った。
「承知いたしました。ただ、学のある奴隷は少々値が張ります」
「見せてくれ」
元商人や書記など何人かを見せられたが、若く健康で読み書きのできる者は、それだけ値段も高かった。
何人かを見たあと、バリアスが顔をしかめる。
「もっと安い者はいないのか」
「安い者となりますと、一人おります。ただ……教育係として使うには見た目が少々」
「学があるなら構わん」
案内された木柵の隅に、一人の老人が座っていた。
白髪交じりの髪は伸び放題で、髭も頬から顎まで無造作に広がっている。古びた服には何度も継ぎ当てされた跡があり、片方の目は白く濁っていた。
その姿を見たバリアスは、さすがに黙り込んだ。
「……これか?」
「はい。見た目はあれですが、病人ではありません」
「十分あれだな」
老人は二人の会話を聞いていたが、特に反応することもなく静かに座っている。
「名前は?」
バリアスが尋ねると、老人はゆっくり顔を上げた。
「ガルド・ヴァレンと申します」
見た目に反して、聞き取りやすい落ち着いた声だった。
「歳は?」
「五十九です」
「立てるか」
「はい」
ガルドが身体を起こし、一歩踏み出したところで、左足を引きずっていることにも気づいた。
「目だけでなく足も悪いのか」
「左目はほとんど見えません。左足は古傷でございます」
淡々と答えながら、ガルドは右手を身体の横へ下ろした。
その手の甲には、奴隷であることを示す黒い紋が刻まれていた。
「字は読めるそうだな」
「はい」
「書けるか?」
「できます」
「計算は?」
「できます」
奴隷商が横から口を挟んだ。
「そこは間違いありません。この老人、帳簿の数字程度ならすぐに理解します」
「歴史は?」
「多少は存じております」
「地理は?」
「同じく多少は」
「法については?」
「基本程度であれば」
バリアスは腕を組み、ガルドを見た。
見た目だけなら、貴族子弟の教育係どころか、屋敷の使用人として連れて帰るにも少し考える姿である。
しかし今回欲しいのは、力のある働き手ではない。
「どこで覚えた?」
「以前、仕えていたところで」
「商家か?」
ガルドは少し間を置いた。
「似たようなものでございます」
曖昧な返答だったが、バリアスは追及しなかった。
「子供に物を教えたことは?」
「ございます」
「何を教えた?」
「読み書きや算術などを」
「十三歳の息子だ。歴史や地理、礼儀も必要になる」
「基礎でよろしければ、お教えできます」
バリアスはそこで決めた。
「この老人を買う」
「ありがとうございます」
こうして、ガルド・ヴァレンはレイン家に買われた。
屋敷へ戻ると、待っていた家令はバリアスの後ろに立つ老人を見て、思わず顔を引きつらせた。
「旦那様……まさか」
「ああ。こいつだ」
「この方を若様の教育係に?」
「読み書きができる。計算もできるし、歴史や地理も多少分かる」
家令はガルドを上から下まで眺めた。
伸び放題の髪と髭、白く濁った目、悪い左足。そして右手の甲に刻まれた奴隷紋。
「さすがに、これは……」
「だから安かった」
「そういう意味ではございません」
家令が額を押さえる。
「いくら何でも、その姿で若様の前に出すのは」
「まず会わせる。そのあと身なりは整えさせる」
「……承知しました」
すでに買ってしまった以上、家令も諦めるしかなかった。
アルベルトは自室で本を読んでいた。
領地制度について書かれた本だったが、文章が回りくどく、数頁進んでは前へ戻ることを繰り返していた。
やがて扉が叩かれ、父が入ってくる。
その後ろにいた老人を見て、アルベルトは思わず本を閉じた。
「父上、その人は?」
「お前の新しい教育係だ」
アルベルトは老人を見てから、もう一度父を見る。
「……この人がですか?」
「そうだ」
老人の髪と髭は伸び放題で、片目は白く濁り、古びた服を着ている。さらに右手の甲には、はっきりと奴隷紋があった。
「奴隷ですよね?」
「ああ。そのために買ってきた」
「奴隷を僕の先生にするんですか?」
「字も読めるし、計算もできる。歴史や地理も知っているそうだ」
「でも……」
「言いたいことは分かる。だが、新しい家庭教師を雇い続ける余裕がない。お前の勉強を止めるわけにもいかん以上、この男に任せる」
アルベルトも、自分の家が裕福ではないことくらいは知っていた。納得したわけではないが、父の言うことにも理由がある。
「ガルド」
「はい」
老人が一歩前へ出た。
「息子のアルベルトだ」
ガルドは少年へ向き直り、ゆっくりと頭を下げた。
「ガルド・ヴァレンと申します。よろしくお願いいたします、若様」
姿に反して、声も所作も穏やかだった。
「アルベルトです。よろしくお願いします」
アルベルトもつられるように頭を下げる。
バリアスはそれを見届けると、改めてガルドを眺めた。
「さて、顔合わせは済んだが……さすがにその姿のまま使うわけにはいかんな」
廊下にいた使用人を呼び止める。
「ガルドを湯へ入れろ。髪は短く切り、髭も整えさせる。それから使用人用で構わんから、体に合う服を一式渡してやれ」
「承知しました」
ガルドは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お前のためだけではない。教育係として人前に出す以上、最低限の格好はしてもらう」
「心得ました」
使用人に案内され、ガルドは左足を引きずりながら部屋を出ていった。
それからしばらくして、アルベルトは再び父に呼ばれた。
廊下へ出たところで、先ほどとは見違えるほど小ぎれいになった老人が立っている。
伸び放題だった白髪交じりの髪は短く整えられ、顔を覆っていた髭もきれいに刈り揃えられていた。古びた服もなく、代わりに濃い灰色の上衣と黒いズボンを身につけている。
白く濁った片目と、悪い左足、それに右手の甲の奴隷紋は変わらない。
それでも、先ほどまでの薄汚れた老人とは印象がまるで違った。
「……ガルド?」
アルベルトが思わず尋ねると、老人はわずかに笑った。
「はい、若様」
「随分変わりましたね」
「髪と髭を整え、服を替えただけでございます」
バリアスも満足したように頷いた。
「これなら少なくとも教育係には見えるだろう」
アルベルトはもう一度ガルドを眺めた。
立派な教師とまでは言えない。
それでも、最初に見た時のような、どこから連れてきたのか分からない老奴隷には見えなくなっていた。
ガルドは十三歳の少年へ向き直ると、姿勢を整えて静かに頭を下げた。
「それでは若様。明日から教育を始めさせていただきます」
アルベルトは少しだけ迷ったあと、頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
こうして、五十九歳の老奴隷ガルド・ヴァレンは、十三歳のアルベルト・レインの新しい教育係となった。




