第8話 地図の上だけでは
「今日は地理についてお話しいたします」
朝の授業が始まると、ガルドはいつものように何冊かの本を机へ置いたが、最初に手に取ったのは教科書ではなく、一枚の大きな地図だった。
巻かれていた地図が机いっぱいに広げられていくのを眺めながら、アルベルトは以前にも似たようなことがあったのを思い出し、少し首を傾げた。
「地理ですか」
「はい。若様が最初に、これまでどのようなことを学ばれてきたのか確認した時にも、似たようなことをいたしましたな」
そう言われ、アルベルトは記憶を探るように視線を上げた。
「前に、商人ならどの道を通るかって聞かれましたよね」
「よく覚えておられましたな。その時は若様がどのように考えるのかを見るだけでしたので、答えまでは深く扱いませんでした。今日は、なぜ道を選ぶだけでも考える必要があるのか、もう少し詳しく見てみましょう」
机いっぱいに広がったのは、レイン男爵領とその周辺を描いた地図だった。領都から伸びる街道、大小の村、川や森、小高い丘、その先にある隣領との境までが、簡略化されながらも一目で分かるように記されている。
「これは、うちの領地ですね」
アルベルトが身を乗り出すと、ガルドは領都を示す点へ指を置き、そのまま東へ滑らせた。
「では若様。この町から東にあるカスティアまで、荷馬車で荷を運ぶ商人になったつもりで考えてみてください。どの道を使われますかな」
アルベルトは二つの町を見比べ、しばらく地図を眺めたあと、一番短く見える道を指でなぞった。
「これだと思います。ほかの道より距離が短いですから、遠回りするより早いでしょう?」
「なるほど」
ガルドは否定せず、アルベルトが選んだ道を目で追った。
「では、この道を実際に荷馬車で進むといたしましょう。途中には何がありますかな」
示された場所を見て、アルベルトは地図に描かれた記号を確認した。
「森があります。その先は……丘ですね。いや、結構高そうです」
「この道は、その丘を越えております」
アルベルトは改めて、自分が選んだ道を見直した。
「でも、道はありますよね」
「ございます。ただし、人が歩ける道と、重い荷物を積んだ馬車が通れる道は同じでしょうか」
「あ……」
そこで初めて、アルベルトの指が止まった。
地図には一本の線として描かれている。しかし、そこを歩く人間と、荷を積んだ馬車では条件がまるで違う。
ガルドはすぐに説明を続けず、今度は別の道を指した。
「こちらは少し遠回りになりますが、川沿いを進む道です。どちらがよいと思われます?」
「川沿いなら平らそうです。馬車なら、こっちの方が楽かもしれません」
「そうでしょうな。ただし、こちらにも問題がございます」
「何ですか?」
「この川を渡らなければなりません」
示された地点には、小さく橋の印が描かれていた。アルベルトはそれを見つけると、少し安心したように言った。
「橋があるなら渡れますよね」
「橋が無事なら、でございますな」
「無事なら?」
ガルドは一度窓の外へ目を向けた。外は穏やかに晴れていたが、そのまま別の状況を想定する。
「三日ほど強い雨が降り続いたとしましょう。川の水が増え、橋の一部が壊れていたらどうします?」
「渡れないかもしれませんね。だったら別の道を……」
そこまで言ったところで、アルベルトは先ほどの山越えの道を見た。
「でも、雨が続いたなら、そっちもぬかるんでいるかもしれない。崩れている場所もあるかもしれません」
最初は地図の上で最も短い線を選べばよいと思っていた。しかし条件が一つ増えるたび、その答えは簡単ではなくなっていく。
「地図を見ただけでは決められないんですね」
「地図は大切でございます。ただ、地図が教えてくれるのは、その土地の一部だけです」
ガルドは領都から伸びる街道を指でなぞった。
「ここに道があることは分かります。しかし、その道がどれほど広いのか、雨の日にどれほどぬかるむのか、橋がどれほど丈夫なのか、荷馬車同士がすれ違える広さがあるのかまでは、今見ている地図には書かれておりません」
「じゃあ、実際に見ないと分からないこともある」
「その通りです」
アルベルトは地図を見つめたまま、今度は自分から別の道を探し始めた。
「だったら商人は、道の長さだけじゃなくて、通りやすさも考えるんですね」
「それだけでしょうか」
また問いを返され、アルベルトは苦笑する。
「また増えるんですか?」
「考える材料は、多い方がよい場合もございますからな」
ガルドは街道沿いにある小さな村へ指を置いた。
「荷馬車を引いて一日中進めば、人も馬も休まなければなりません。食事をどこで取るのか、水をどこで得るのか。馬の飼料は手に入るのか。それも道を選ぶうえでは大切です」
「ああ……だったら宿や店がある町を通る方がいい場合もあるんですね」
「荷物によっては、そうなるでしょう」
「荷物によって?」
「例えば傷みやすい食べ物なら、多少道が悪くても短い方がよいかもしれません。逆に、鉄や石材のように重い物を大量に運ぶのであれば、少し遠回りでも平坦で安全な道の方がよいでしょうな」
アルベルトは地図に並ぶ線を見ながら、小さく息を吐いた。
「地理って、町とか川とか山の名前を覚えるものだと思ってました」
「それも必要です。名前が分からなければ、その土地について話すこともできませんからな」
「でも、それだけじゃない」
「ええ」
ガルドは地図の中央に描かれた領都を指した。
「では次に、少し違うことを考えてみましょう。なぜ、この町はここにあるのでしょう?」
突然の問いに、アルベルトは地図とガルドを交互に見る。
「昔からここにあるから……では駄目ですよね」
「間違いではございませんが、それでは理由にはなりませんな」
アルベルトは椅子から少し身を乗り出し、領都の周辺を確認した。
「近くに川があります。街道も通ってる。それに、周りに村も多い……」
一つずつ確かめていくうち、何かに気づいたように指が止まった。
「人や物が集まりやすい場所なんですか?」
「なぜそう思われます?」
「村から作物を運んで来られるし、川があれば水も使える。街道を通る商人も来るから……物を売ったり買ったりするのに便利だからだと思います」
ガルドはゆっくり頷いた。
「よろしいでしょう」
アルベルトはもう一度、領都とその周囲を見た。
これまでは、町はそこにあるものとして名前と位置だけを覚えていた。川も街道も同じだった。しかし、それぞれが互いにつながっていると考えれば、その場所に町ができた理由まで少しずつ見えてくる。
「じゃあ、川のそばに町が多いのも同じ理由ですか?」
「理由の一つではございます。ただし、川には洪水もありますから、どこでも町に適しているわけではありません」
「街道があれば必ず町ができるわけでもない?」
「ええ。人が通るだけでなく、そこに立ち止まる理由も必要でしょうな」
アルベルトは隣領へ続く街道を指した。
「じゃあ、例えばここに大きな橋を造ったら、その周りに人が集まることもありますか?」
「十分あり得ます」
「商人が通るようになって、宿ができて、店も増えるかもしれない」
自分でそこまで言ったところで、アルベルトは少し楽しそうに笑った。
「なんだか、町を作ってるみたいです」
「地理を学ぶというのは、そういうことでもございます」
「町を作ることが?」
「土地を見て、そこで人がどう動くのかを考えることです」
ガルドは地図の上へ手を置いた。
「山がある。川がある。道がある。それだけなら、ただ土地の形を知っているだけです。しかし、そこを人が歩き、荷を運び、住み、商いを始めれば、一つ一つに意味が生まれます」
アルベルトの視線も自然とその手元へ向かった。
「領主も、それを考えないといけないんですね」
「なぜそう思われます?」
「道を直すのも、橋を造るのも領主の仕事だからです。もし道が悪くて商人が来なくなったら、町も困るでしょうし……」
少し考え、これまでの授業で学んだことへつなげる。
「商売が減ったら、税も減るかもしれない」
「その可能性はございますな」
「じゃあ、道を直すのにお金がかかっても、直した方が後で得になる場合もある?」
ガルドはすぐには答えず、わずかに笑った。
「若様は、どう思われます?」
また問いを返されたが、今度のアルベルトは嫌そうな顔をしなかった。
「その道を通る人が増えるなら、得になると思います。でも、ほとんど誰も使わない道なら、お金をかけて直しても無駄になるかもしれません」
「では、どの道から直すべきでしょう?」
アルベルトは地図へ視線を戻し、いくつかの道を指でなぞった。
「商人がよく通る道……だけじゃなくて、村の人が市場へ来る道も必要ですよね。この道なら三つの村から領都に来られる。でも、こっちは一つの村しかない。だったら先にこっちを直した方が――」
そこまで言ってから、指を止める。
「でも、その一つの村がすごく大きかったら違うか」
「そうでしょうな」
「また条件が増えた」
アルベルトが笑うと、ガルドも小さく口元を緩めた。
「領主の仕事とは、そのようなものなのかもしれません」
一つの答えを覚えれば終わるわけではない。どこに何があり、誰が住み、何を必要としているのかを知ったうえで、その時々に応じて考え続けなければならない。
地図の上ではただの一本の線にすぎない道も、見方を変えれば、人の暮らしや商売、領地の収入へとつながっている。
しばらく地図を眺めていたアルベルトは、やがて領都から南へ伸びる一本の道を指した。
「実際の道も、こうなってるんですか?」
「どの道のことでしょう」
「この辺です。地図だとほとんど真っすぐですけど、本当にこんなに歩きやすい道なのかなって」
その言葉を聞き、ガルドは少しだけ目を細めた。
「よいところに気づかれましたな」
「違うんですか?」
「さて。それは私にも、まだ分かりません」
「ガルドも?」
アルベルトが意外そうに目を瞬くと、ガルドは苦笑するように顎髭へ触れた。
「私はこの領地へ来て、まだ数日でございますからな。地図には目を通しましたが、実際の街道を歩いたわけではありません」
「じゃあ、どうやって確かめるんです?」
ガルドは地図を畳まず、そのまま窓の外へ視線を向けた。朝の明るい日差しが庭へ差し込み、その向こうには屋敷の門から外へ続いていく道の一部が見えている。
「簡単なことでございます」
そう言ってアルベルトへ向き直った。
「実際に見に行けばよいのです」
「外へ?」
「地理は地図だけでも学べます。しかし、地図の上だけでは分からないこともございます。道の広さ、地面の状態、荷馬車の数、そこを歩く人々。自分の目で見れば、紙の上では分からなかったことも見えてくるでしょう」
アルベルトの表情が一気に明るくなった。
「行っていいんですか?」
「もちろん、旦那様の許可がいただければ、ですがな」
「父上なら大丈夫だと思います」
すでに次の授業へ気持ちが向いているらしく、アルベルトは地図へ視線を戻すと、どの道を見に行くのか考え始めた。
ガルドはその様子をしばらく眺めてから、ゆっくりと地図を畳んだ。
「では、明日は少し外へ出てみましょう」
その言葉を聞いたアルベルトは、机の上の教科書ではなく、窓の向こうへ目を向けた。
以前なら授業中に外を見たのは、退屈から逃れるためだった。
しかし今、その視線に浮かんでいるものは違う。
地図では一本の線として描かれていた道が、実際にはどのような場所なのか。その道を誰が歩き、何を運び、どこへ向かっているのか。
自分の目で確かめてみたい。
窓の向こうへ続く道を眺めながら、アルベルトの中には、これまでの授業では感じたことのなかったはっきりとした興味が芽生えていた。




