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第9話 王太子府、解散

第9話 王太子府、解散


 王宮監査院の調査報告書が公表された朝、王都の掲示板には人だかりができた。印刷された報告書は全部で十二頁あり、王太子府の二重払い、未決済書類、職員配置、決裁権限について、日付と金額を添えて記されている。菓子店の主人も店を開ける前に掲示板へ立ち寄り、粉砂糖の付いた前掛けのまま最初の頁を読んでいた。


 報告書は、混乱の原因をクラリスの退職だけに求めてはいなかった。筆頭補佐官一人へ業務が集中し、後任も代理決裁者も置かれていなかったため、退職を契機に以前から存在した危険が表面化したと結論づけている。末尾には、クラリスが三年間に提出した三十六通の人員増強要求書と、それをすべて却下したレオナルドの署名が資料として添付されていた。


「本当に、三十六回も断っていたのか」


 掲示板の前で、帽子職人が隣の男へ尋ねた。男は最後の資料頁を指し、毎月の日付と「増員不要」の文字を一つずつ数えた。朝の冷たい風が紙の端を揺らしても、王太子自身の署名は隠れなかった。


 同じ時刻、レオナルドは国王の執務室へ呼び出されていた。朝食を途中で切り上げたため、上着の留め金は一つずれ、手袋も片方しか持っていない。広い執務室には国王、王妃、監査院長、書記官長が座り、机の中央へ同じ調査報告書が置かれていた。


「監査結果に異議があるなら、記録に基づいて述べよ」


 国王は報告書の表紙へ手を置いた。窓の外には冬の低い雲が広がり、暖炉の前では濡れた薪が白い煙を上げている。レオナルドは椅子を勧められず、絨毯の中央へ立っていた。


「クラリスが突然辞めたことが原因です。あれが最後まで責任を果たしていれば、支払いも舞踏会も滞りませんでした」


 レオナルドは北部領まで迎えに行ったことも説明した。王国のために戻るよう命じたのに、クラリスは就業規則を理由に拒んだという。国王は返答せず、監査院長へ視線を向けた。


「クラリス・レーヴェン殿は、婚約解消によって雇用が終了する契約を守っただけです。退職時財産目録も提出され、王宮の鍵、印章、機密書類を一切持ち出しておりません」


 監査院長は三十六通の要求書を机へ並べた。最初の一通は三年前、最後の一通は婚約破棄の九日前に提出されている。どの書類にも、後任二名を採用し、業務を分担させる必要があると書かれていた。


「彼女は婚約者だったのだ。私を支えることは、仕事以前の義務だったはずです」


 レオナルドは国王ではなく、王妃へ顔を向けた。王妃は膝の上で白い手袋を重ね、息子を助ける言葉を出さなかった。自ら提示した三倍の報酬さえ、権限も勤務時間も示さなければクラリスが受け取らなかったことを知っていた。


「婚約者だから無償で補佐すべきだと言いながら、お前は婚約解消後も同じ仕事を命じた。つまり、お前にとって婚約者とは、妻ではなく給金を払わず使える筆頭補佐官だったのだな」


 国王は三十六通目の要求書を持ち上げた。余白には「クラリスが処理すれば済む」と、レオナルド自身の筆跡が残っている。レオナルドは文字を見たものの、否定できなかった。


 国王は次に、王太子府の職員名簿を開いた。書記官八名、会計係三名、契約係二名、雑務係四名の名が並んでいる。北部領でクラリスから名前を尋ねられたとき、レオナルドが答えられなかった者たちだった。


「このうち、三日以上連続して夜勤をした者が十一人いる。過失の責任を取らせるとして減給を命じた者が四人いるが、誰一人として支出の優先順位を決める権限を与えられていなかった」


 国王は名簿をレオナルドへ向けた。書記官長ハロルド、会計係マルタ、契約係ヨーゼフという名が、勤務記録の横へ記されている。レオナルドは紙を見下ろし、手にした片方の手袋を何度も折った。


「王太子府の管理責任者は、お前だ。権限を自分へ集め、判断を補佐官へ任せ、失敗だけを下級職員へ負わせた。これは一度の誤りではない」


 国王は王太子府を本日付で解散すると告げた。行政案件は宰相府と各省へ戻し、所属職員は能力と希望を確認したうえで再配置する。夜勤の記録を調べ、不当に減給された者には差額を返すことも決められた。


「お待ちください。王太子府を失えば、私はどうやって統治を学べばよいのですか」


 レオナルドは一歩前へ出た。これまで、統治に必要な書類は完成した状態で机へ届き、署名する場所には小さな印が付けられていた。王太子府がなくなれば、それを整える者も、遅れを隠す者もいなくなる。


「これから学ぶのだ。完成した書類へ署名するところからではなく、一枚目を書くところからな」


 国王は、レオナルドを次代の統治者候補から外すと告げた。王太子の称号は直ちに剥奪しないが、国政に関する決裁権と人事権を停止する。三か月後から西部の地方役所へ配属し、一般の新人職員と同じ基礎業務を学ばせることになった。


「私が、地方の小役人になるのですか」


 レオナルドの声が執務室へ残った。国王は、小役人という役職は存在せず、税、道路、戸籍、食料、契約を扱う行政職員であると訂正した。その役所では身分ではなく担当表に従い、午後六時までに自分の仕事を終わらせ、終わらなければ翌日の処理計画を自分で作ることになる。


「護衛や侍従に書かせることは、許されませんか」


 レオナルドが尋ねると、監査院長は首を横へ振った。貸与されるのは机、椅子、羽根ペン、規程集であり、書類には自分の名前で署名する。書き損じれば、自分で新しい紙へ書き直さなければならない。


 レオナルドは王妃を見た。王妃は白い手袋を外し、息子の上着で一つずれた留め金へ目を落としたが、直そうとはしなかった。誰かが先回りして整えることをやめなければ、この処分も意味を失うからだった。


「処分を受け入れなさい。お前がクラリスへさせていた仕事の、最初の一頁を学んできなさい」


 王妃はそれだけ告げた。レオナルドは返事をせず、調査報告書の前に立ち続けた。暖炉の薪が崩れ、濡れた木の匂いが執務室へ広がった。


 北部領へ監査結果が届いたのは、その日の午後だった。王都から来た公文書は役所の受付で記録され、通常の連絡文書と同じ青い箱へ入れられた。受付係は王家の封蝋だからと順番を変えず、午前中に届いた村道修繕の報告を処理してから、クラリスへ渡した。


「王太子府が、本日付で解散されたそうです」


 クラリスは職員全員がそろう昼休みに、文書の内容を読み上げた。バルドは茹でた芋の皮をむく手を止め、書式係は黒パンを持ったまま顔を上げた。受付係は林檎を六つに切り分け、最後の一切れをクラリスの皿へ置いた。


「王都へ戻られなくて、本当によかったです」


 受付係が言うと、クラリスは林檎を一口かじった。監査によって職務放棄の疑いは正式に否定され、今後、王太子府から復職を命じられることもない。赤い皮の林檎は北部で採れたもので、果肉には少し酸味が残っていた。


 昼休みが終わる頃、ノルデン伯爵が役所へ入ってきた。巡回用の毛皮外套ではなく、正式な領主服を着ており、手には任命書を持っている。職員たちは椅子を引いて立ち上がった。


「クラリス・レーヴェン殿。これまでの働きにより、臨時領政官から正式な宰務長へ任命したい」


 伯爵は任命書を長机へ置いた。宰務長は北部領の会計、契約、役所運営を統括し、領主不在時には既存予算内の行政決裁を代行できる。任期、報酬、勤務時間、休日、決裁権の範囲は、クラリスが臨時採用時に求めた形式で明記されていた。


「お受けする前に、一つ確認させてください」


 クラリスは任命書の内容を最後まで読んだ。職務権限は明確だったが、功績理由の欄には、クラリス一人の働きによって役所の滞留を解消し、週市を再開した、と書かれている。彼女は机から赤いインクを取り出した。


「私一人を褒める報告書には署名しません」


 クラリスは功績理由へ二本の線を引いた。代わりに、会計官バルドが滞納額を照合したこと、受付係が申請の期限を整理したこと、書式係が不要な書類を選別したこと、副領政官が村道工事を確認したことを書き込む。週市へ戻った商人と、再び買い物に来た住民についても加えた。


「宰務長一人がいなければ止まる役所にするのでしたら、私はお受けできません。各職員へ移譲した権限を維持し、成果を全員のものとして記録してください」


 伯爵は朱書きされた任命書を読み、書き直すよう書記官へ渡した。反論も値切りもせず、職員全員の名前を公表することを約束する。午後、修正された任命書が届くと、クラリスは一文字ずつ確認して署名した。


 午後六時、役所の扉はいつもどおり閉じられた。その夜だけは、領主館の食堂で小さな祝宴が開かれた。長机には焼いた鶏、茸のスープ、蜂蜜を塗った人参、胡桃パンが並び、職員たちは勤務服のまま席へ着いた。


「宰務長、ご挨拶をお願いします」


 バルドが木杯を持ち上げた。クラリスは立ち上がったものの、長い演説はしなかった。料理の湯気が消える前に、全員で食べ始めたかった。


「明日も十八時に帰れる役所を、皆さんと作っていきます。今夜は、温かいうちにいただきましょう」


 木杯が軽く触れ合った。クラリスは茸のスープを匙ですくい、最初の一口を飲んだ。塩気のある温かい汁と、炒めた玉葱の甘い匂いが口の中へ広がった。


 誰も仕事の書類を食堂へ持ち込んでいなかった。決裁箱は役所の棚に残り、銀時計もクラリスの上着のポケットへしまわれている。焼いた鶏の皮はまだ音を立て、胡桃パンからも白い湯気が上がっていた。


 王都では王太子府の看板が外され、職員たちは新しい配属先を選び始めていた。西部の役所では、レオナルドが使う予定の机へ、まだ何も置かれていない。北部の食堂では、クラリスだけでなく、名前を公表された職員全員が、自分の料理を温かいうちに食べていた。


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