第10話 今日も予定通り帰ります
第10話 今日も予定通り帰ります
一年後、北部領ノルデンの役所では、受付係の席が朝から空いていた。机の上には飲みかけの茶も未処理の申請書もなく、椅子の背に掛けられているはずの灰色の上着もない。受付係は三日前から有給休暇を取り、母親と一緒に南部の温泉町へ出かけていた。
「本日届いた申請書は、全部で十三件です。不足のある二件は申請者へ返送し、残り十一件を受付簿へ記録しました」
代わりに受付を担当する若い職員が、朝の打ち合わせで報告した。半年前に採用された彼は、受付係から仕事を教わり、今では定例申請を一人で処理できる。机の横には手順書が置かれていたが、頁の端は一度も慌ててめくられた様子がなく、きれいにそろっていた。
「判断に迷った書類はありましたか」
クラリスは職員の顔を見ながら尋ねた。朝の打ち合わせに使う長机には、湯気の立つ麦茶と、小さく切った林檎が一皿置かれている。書式係が自宅の庭で採れたものを持ってきたため、報告の終わった者から一切れずつ食べていた。
「橋の通行許可について、一件ございました。副領政官へ相談し、既存の規定で判断できることを確認しました」
若い職員は記録簿の該当箇所を開いた。自分だけで決めたように見せるため、迷った事実を隠す必要はない。誰へ相談し、何を根拠に判断したかまで記録されていた。
バルドの席も午後から空く予定だった。妻の誕生日に合わせて半日の休暇を取り、週市で毛糸を選んだあと、早めに帰宅して夕食を作るという。十五年間会計を担当してきた彼が休んでも、日常の支払いは二人の会計係が分担できるようになっていた。
「煮込み料理を作るそうですが、塩を入れすぎないか心配です」
書式係が小声で言うと、バルドは芋と肉を鍋へ入れるくらい自分にもできると答えた。昨年までの彼は、妻の誕生日にも役所で冷えた弁当を食べ、帰宅する頃には家の灯りが消えていた。今日は昼食用の籠とは別に、買い物用の大きな布袋を椅子の下へ置いている。
「塩を入れる前に味見をしてください。会計と同じで、あとから減らすことはできませんから」
クラリスが言うと、長机の周りで小さな笑いが起きた。バルドは味見用の匙も買って帰ると答え、林檎を一切れ取った。朝の打ち合わせは十分で終わり、職員たちはそれぞれの席へ戻った。
役所の署名待ち棚は、今も使われていた。ただし、棚に置けるのは、その日のうちに処理できなかった書類ではなく、決裁日が翌日以降と定められているものだけだった。申請書には担当者と決裁者、二つの署名欄があり、五人の名を順に書く欄はもう存在しない。
クラリスは自分の机で、一年前と同じ銀時計を開いた。銀の蓋には細かな傷が増え、鎖の一部だけ色が薄くなっている。時刻は午前九時十五分で、王太子府にいた頃なら、前夜から積み残した書類を開き始める頃だった。
今朝の机には、今日処理する書類が四件あった。一件目は来月の薪購入、二件目は街道補修の中間報告、三件目は新しく採用する書記官の契約、四件目は週市で使う共同水場の修繕だった。どれにも担当者の確認印があり、クラリスが最初から調べ直す必要はない。
昼になる前に、四件のうち三件が終わった。街道補修の報告だけは、現地写真の代わりとなる測量図が不足していたため、副領政官へ戻す。差し戻し理由を一行書けばよく、相手の能力を疑う言葉も、夜までに作り直せという命令も必要なかった。
「測量図は明日、現場から届く予定です。それまで保留箱へ入れておきます」
副領政官は書類を受け取り、自分の机の青い箱へ入れた。以前なら不備を隠すため、雪の残る街道へ職員を走らせていたかもしれない。今では、期限に余裕があることを確認してから翌日の仕事へ回せる。
昼休みになると、職員たちは執務室の中央にある長机へ集まった。クラリスの小さなパン籠には、胡桃パンと茹で卵、皮付きの林檎が入っている。去年の婚約破棄の日には、パンくず三つしか残っていなかった籠だった。
「宰務長、そのパンは市場の角の店ですか」
若い職員が胡桃パンを見て尋ねた。クラリスは今朝焼き上がったものだと答え、半分に割った。中には大きく砕いた胡桃が入り、まだわずかに温かさが残っている。
食事の途中で扉が開き、村から使者が来たと受付代理が伝えた。クラリスは立ち上がらず、緊急の用件かどうか尋ねる。使者は来月の祭りで使う広場の申請書を届けに来ただけで、期限は二週間後だった。
「では、午後の受付時間にお願いします。今は昼休みです」
若い職員が自分で答え、扉の外へ案内した。使者も異議を唱えず、待合室で市場の買い物を整理してから戻ると言った。クラリスは胡桃パンを皿へ置いたままにせず、温かさが消える前に残りを食べた。
午後二時、バルドは予定どおり机を片づけた。会計係へ支払い簿を渡し、今日確認すべき二件に紙片を挟む。引き継ぎを受けた会計係は、その場で金額と期限を読み上げた。
「銀貨十八枚の文具代と、金貨十二枚の冬用薪代ですね。どちらも確認後、午後四時までに支払います」
バルドは財布と大きな布袋を持ち、役所の正面玄関へ向かった。以前なら何度も振り返っただろうが、今日は一度も自分の机を見なかった。会計係が支払いを間違えないことも、分からなければ別の職員へ相談することも知っていた。
「明日は通常どおり出勤します。煮込み料理の結果は、そのとき報告します」
バルドは全員へ頭を下げ、まだ明るい通りへ出ていった。向かいの市場から毛糸を売る商人の声が聞こえ、赤い天幕が風に揺れている。彼の布袋は役所を出たときには空だったが、帰宅する頃には食材と贈り物で膨らんでいるはずだった。
午後四時、二件の支払いが終わった。午後五時には、共同水場の修繕契約が正式に承認された。受付簿、支払い簿、決裁簿はそれぞれ担当者の手で記入され、クラリスの机へ確認のために積み上げられることはなかった。
午後五時半、ノルデン伯爵が巡回から戻った。毛皮の外套には秋の枯れ草が付き、手には農家からもらった蕪を三個抱えている。役所の台所でスープにしてよいと言い、調理係へ渡した。
「今日はずいぶん早く片づいたようですね。これなら、冬期予算の打ち合わせを少し始められるのではありませんか」
伯爵はクラリスの机を見ながら言った。机の上には未決済書類の山がなく、明日の予定表と、書式係が置いていった胡桃パンの紙包みだけがある。伯爵の口元には、返事を知っている者の笑いが浮かんでいた。
「開始すれば、少しでは終わりません。冬期予算の打ち合わせは、明日の午前十時から予定しております」
クラリスは明日の予定表を指した。会議の参加者にはすでに資料を渡し、質問も前日までに集めてある。今夜始める理由は一つもなかった。
「では、宰務長一人だけ残り、資料へ目を通しておくというのはどうでしょう」
伯爵はさらに冗談を重ねた。周囲の職員たちは帰り支度をしながら、クラリスの返事を待っている。窓の外では、鐘楼の上へ夕方の鳥が二羽止まった。
「お断りします。優秀な職員は、明日も必要ですから」
クラリスは伯爵だけでなく、執務室にいる全員へ向けて答えた。働き続けて倒れるまで使うことは、人を大切にすることではない。休んでも仕事が止まらず、戻ったときに自分の席が残っていることが、この役所では当たり前になっていた。
午後六時、鐘楼の鐘が一度目の音を響かせた。クラリスは腰の鎖につないだ銀時計を取り出し、蓋を開く。長針は十二、短針は六を指し、鐘楼とのずれは一秒もなかった。
第一話の日と同じ時刻だった。あの日の机には、国境警備隊の外套、河川工事、舞踏会の花の注文書が積まれていた。今日は紙包みの胡桃パンと、明日午前十時から始まる会議の予定表だけが残っている。
受付代理が来訪者名簿を閉じ、会計係が金庫へ鍵を掛けた。書式係は定規と赤いインクを引き出しへ戻し、副領政官は青い保留箱へ測量図待ちの書類を一件だけ収める。誰もクラリスの指示を待たず、自分の担当を終えていた。
「暖炉、確認しました。窓もすべて閉まっています」
若い職員が一階から戻って報告した。採用された頃は、何をするにも受付係の顔を見ていたが、今では明日の受付準備まで一人で済ませられる。休暇中の受付係が戻れば、三日間の記録を自分の言葉で説明する予定だった。
「それでは、今日は終わりにしましょう」
クラリスは明日の予定表を机の中央へ置いた。胡桃パンの紙包みを小さな籠へ入れ、最後の蝋燭を吹き消す。溶けた蝋の匂いが一瞬広がり、廊下から入る夕方の光が机を照らした。
役所の正面扉を開くと、週市の片づけが始まっていた。商人たちは天幕を畳み、売れ残った林檎や革靴を荷車へ積んでいる。広場の端からは焼き栗と温かいパンの匂いが流れ、去年と同じ栗売りが鉄鍋の火を落としていた。
「宰務長、最後の一袋はいかがですか」
栗売りが紙袋を持ち上げた。クラリスは代金を払い、胡桃パンの入った籠へ焼き栗を加えた。紙袋から伝わる熱が、籠の取っ手を持つ指へ届いた。
伯爵と職員たちも役所を出て、それぞれの帰路へ分かれた。会計係は家で待つ子供へ焼き栗を二袋買い、書式係は明日の朝食用に黒パンを選んでいる。仕事が終わったあとに何をするかを、誰も許可される必要はなかった。
クラリスは正面扉へ鍵を掛け、もう一度だけ窓を見上げた。王太子府を去った夜、彼女は誰かに不要とされたため、暗い執務室を残して帰った。今は必要とされている場所から、自分の意思で帰ろうとしている。
銀時計を上着の内側へしまうと、籠の中で焼き栗の紙袋が小さく鳴った。明日になれば、冬期予算の会議があり、村から測量図が届き、受付係も休暇から戻ってくる。けれど、それはすべて明日の勤務時間に扱えばよいことだった。
「それでは皆様、今日も予定どおり、お先に失礼いたします」
職員たちが順に、また明日、と答えた。クラリスは空ではないパン籠を腕へ掛け、夕食の灯りがともり始めた通りを歩き出した。背後の役所には未決済書類の山も、働き続ける誰かの影も残っていなかった。




