第8話 運命の少女も退職します
第8話 運命の少女も退職します
レオナルドが北部領から戻った翌朝、リリアの部屋へ十二束の書類が運び込まれた。部屋は王太子の恋人にふさわしいよう整えられ、花模様の壁紙と天蓋付き寝台、衣装箪笥、化粧台が置かれている。書類を積む机はなかったため、従僕は朝食用の丸卓へ束を重ね、銀の蓋が付いた皿を窓辺へ移した。
「これは、何ですか」
リリアは寝間着の上へ薄い上着を羽織り、最上段の紙を持ち上げた。細かな文字が頁の上から下まで並び、ところどころに赤い線が引かれている。給仕係として献立表や客室番号を読むことはできても、契約書や会計書類に使われる言葉は習っていなかった。
「王太子殿下から、午前中に整理するようにとのご指示です。至急、通常、保留の三つに分ければよいそうです」
従僕は空の木箱を三つ、床へ置いた。箱には札も説明書もなく、どの書類を何に基づいて分類するか記されていない。リリアが質問しようとしたときには、従僕は別の仕事があると言って部屋を出ていた。
窓辺へ移された朝食には、柔らかい白パンと半熟卵、杏の砂糖煮が用意されていた。リリアは卵の殻を匙で割ったが、机代わりの丸卓が書類で埋まっているため、皿を膝へ載せなければならない。杏の砂糖煮は一口も食べないうちに、薄い膜を張った。
最初の書類は、国境警備隊へ送る外套の追加注文だった。二枚目は王宮庭園の冬囲い、三枚目は王太子主催晩餐会の葡萄酒、四枚目は救貧院の屋根修理だった。すべてに至急という赤い印があり、リリアには順番を決められなかった。
「レオナルド様に、直接お尋ねすればいいわ」
リリアは書類を一束抱え、王太子の私室へ向かった。廊下の窓は結露し、窓台に置かれた白百合の花弁が一枚落ちている。扉の前にいた侍従へ取り次ぎを頼むと、レオナルドは朝食中だったが、すぐに入室を許した。
「ちょうどよかった。クラリスは朝食を取りながらでも書類を処理していた。君なら私の苦労を分かってくれるだろう」
レオナルドは焼いた腸詰めを切りながら、リリアが持ってきた書類へ目をやった。卓上には温かい茶と焼きたてのパンが並び、書類を置く空間も十分にある。リリアは外套と救貧院の屋根のどちらを先にすべきか尋ねた。
「どちらも至急だ。先に処理できるほうからやればよい」
レオナルドはそう答え、パンへ蜂蜜を塗った。先に処理できるほうを見分ける方法が分からないと伝えると、クラリスは説明されなくてもできたと言う。リリアは両手の中の紙束を持ち直した。
「私には、この数字の意味も、難しい言葉も分かりません。給仕係として働いていたので、こうした仕事は習っていないのです」
リリアは外套の支出命令書を開き、読めない単語を指で示した。レオナルドは書類を受け取らず、椅子の背へ体を預ける。彼の皿には切り分けられた腸詰めが残り、湯気がゆっくり薄くなっていた。
「学べばよい。私は身分に関係なく君を選んだのだぞ。君も王太子の伴侶になる努力を見せてくれ」
リリアは、読み書きを教えてほしいと頼んだ。レオナルドは今から教師を探している時間はないため、分からない箇所は書記官に聞けと答えた。だが王太子府の書記官たちは、三日続けて夜まで働き、今朝も自分の机から離れられずにいた。
「今日中には無理です。一枚ずつ教えていただかなければ、間違えてしまいます」
リリアが書類を卓上へ置くと、レオナルドは蜂蜜の匙を皿へ戻した。金属が陶器へ当たり、乾いた音がした。彼はリリアを見上げ、以前とは違う硬い声を出した。
「君なら分かってくれると思っていた。クラリスと違って、愛する男のために働くことを損得で考えない女性だと」
リリアは書類を持ち上げ直した。舞踏会の夜、レオナルドは身分も教養も関係なく、彼女自身を愛していると言った。今は、クラリスにできた仕事をリリアができないことを責めている。
「私が読めないことと、レオナルド様を大切に思うことは、別ではありませんか」
リリアが尋ねると、レオナルドは愛があれば学ぼうとするはずだと答えた。今日中に終わらせること、できなければ慈善舞踏会の準備がさらに遅れることも付け加えた。慈善舞踏会は会場さえ決まっていないのに、遅れの責任だけがリリアの前へ置かれた。
部屋へ戻ると、朝食はすべて冷めていた。半熟だった卵の黄身は固まり、白パンの表面も乾いている。リリアは椅子へ座らず、床に置かれた三つの木箱を見た。
給仕係だった頃には、勤務時間と担当場所が決まっていた。料理をこぼせば拭き、食器が足りなければ食器係へ伝え、客から勘定を求められれば会計係を呼んだ。何でも一人でできることを、愛情の証明として求められたことはなかった。
昼前、リリアは書類を抱えて王太子府へ向かった。廊下には夜勤を終えた書記官たちが使った空の茶器が並び、冷えた蝋燭の匂いが残っている。受付で一番若い書記官へ声をかけると、彼は赤くなった目をこすりながら立ち上がった。
「クラリス様は、退職するとき、どのような書類を出したのですか」
若い書記官は質問の意味を確かめるように、リリアを見た。クラリスは王太子府の所有物を返却した財産目録と、雇用終了を確認する文書を提出したと説明する。リリアが、自分も給仕係を辞めたことになっているのかと尋ねると、書記官は職員台帳を開いた。
「いいえ。給仕係としての退職届は受理されておりません。殿下のご命令で王太子私室付きへ配置換えとなっています。ですから、現在も王宮の雇用者です」
職員台帳にはリリアの名前と給金、配属先が記されていた。王太子の恋人になったあとも、正式な身分は給仕係のままだった。王太子妃候補とも婚約者とも書かれておらず、退職日も空欄だった。
「では、私にも辞める権利がありますか」
リリアは台帳の署名欄を見つめた。若い書記官は、雇用されている者なら規定に従って退職届を出せると答えた。口頭で王太子へ伝えるだけでは記録に残らないため、自分の名前と日付、退職を希望する旨を書き、受領印をもらう必要があるという。
書記官は正解の文章を書いてはくれなかった。代わりに、過去に使われた退職届の書式と、クラリスが提出した財産目録の公開可能な見本を机の端へ置いた。リリアはそれを見ながら、空いている小机で一文字ずつ書き始めた。
一枚目は、退職の「職」の字を間違えた。二枚目は日付を書き忘れ、三枚目は王太子私室付きという現在の配属名を書けなかった。書き損じた紙は丸めず、机の左側へ重ねた。
昼休みになると、年配の給仕係が小さな籠を持ってきた。中には黒パンと薄切りのチーズ、皮付きの林檎が入っている。リリアは礼を言い、インクが乾くのを待ちながら黒パンを半分食べた。
「給仕係へ戻ることはできますか」
リリアが尋ねると、年配の給仕係は人手が足りないため、採用試験を受け直せば働けるだろうと答えた。以前と同じ持ち場になる保証はなく、王太子の恋人として受け取った衣装や部屋も返さなければならない。それでも勤務が終われば、仕事を翌日の担当者へ渡して帰宅できる。
午後、リリアは五枚目の紙へ書き終えた。文字の大きさはそろわず、インクが一か所にじんでいる。けれど、自分の名前、配属先、退職希望日、貸与品を返却する旨の四つは、すべて入っていた。
「受領印をお願いします」
リリアは完成した退職届を若い書記官へ差し出した。書記官は必要事項を確かめ、受付時刻を記入する。王太子府の受領印が紙の右上へ押され、リリアはその控えを両手で受け取った。
夕方、リリアは王太子の私室を訪れた。桃色のドレスではなく、給仕係だった頃の紺色の服を着ている。王太子から贈られた首飾り、指輪、衣装、部屋の鍵は、財産目録と一緒に箱へ収めていた。
「書類は終わったのか」
レオナルドは机から顔を上げた。リリアが抱えている箱を見ても、返却品だとは気づかなかった。机の上には、朝の支出命令書とは別の書類が積み上がっている。
「いいえ。私には処理できませんでした。こちらは、王太子府で受領していただいた私の退職届です」
リリアは控えではなく、正式に回付された退職届を差し出した。レオナルドは最初の一行を読み、紙を机へ置いた。冗談はやめろと言い、今朝の言葉を謝らないまま、愛しているからそばにいろと命じた。
「君は私の運命の相手だ。給仕係へ戻る必要などない。仕事ができないなら、これから覚えればよいだけだ」
レオナルドは退職届を破ろうとした。リリアは胸元から受領印のある控えを取り出し、原本を破っても記録は残ると告げた。若い書記官が教えたとおり、控えには受付番号と時刻が記されている。
「私は、仕事を覚えたくないのではありません。愛しているなら何でもできるはずだと、できない仕事を渡されることを断ります」
リリアは返却品の箱を机へ置いた。首飾りの鎖が箱の縁へ触れ、小さな音を立てた。桃色の舞踏会衣装にはまだ葡萄酒の染みが残り、白いリボンは洗って畳んである。
「殿下が愛していたのは、何でもしてくれる女性です。私は運命ではなく、給仕の仕事へ戻ります」
リリアは一礼し、レオナルドの返事を待たずに部屋を出た。廊下の窓から夕方の光が差し、磨かれた床へ長い四角を作っている。給仕係の採用試験は三日後で、それまでに制服の裾を自分で直すつもりだった。
同じ時刻、北部領の役所では、クラリスが新しい決裁権限書を職員たちへ配っていた。紙には、各人が判断できる金額と業務の範囲、判断に迷った場合の相談先が記されている。最下部には、権限を受け取る者と与える者、双方の署名欄が設けられていた。
「これは臨時の取り決めではありません。私が休んでも、役所が止まらないようにするための正式な権限移譲です」
クラリスは最初に自分の署名を入れた。バルドは銀貨二十枚までの日用品と修繕費、受付係は定例申請の受理と不足書類の返却、書式係は誤記の訂正要求を独立して行える。副領政官には既存予算内の村道修繕を承認する権限が渡された。
「私が誤った場合も、領政官様へ責任を負わせることになるのですか」
受付係は署名欄へペンを置いたまま尋ねた。クラリスは、自分の権限内で規定に従って判断したなら、個人だけへ責任を押しつけないと答えた。判断の記録を残し、仕組みのどこに不足があったか全員で確認する。
「権限を与えず、失敗したときだけ責任を求めることはいたしません。その代わり、分からないまま抱え込まず、必ず相談してください」
バルドが最初に署名し、その隣へクラリスの署名が並んだ。受付係、書式係、副領政官も順に名前を書く。五人分の権限書には、それぞれ二つの署名欄が埋まった。
午後六時の鐘が鳴ると、職員たちは権限書の控えを自分の机へ収めた。クラリスは銀時計を閉じ、机に残った一通を明日確認の箱へ入れる。今夜、誰か一人が残って処理しなければ止まる仕事はなかった。
王都では、リリアの退職届に王太子府の受領印が押されていた。北部では、クラリスが渡した権限書に職員たち自身の署名が並んでいる。二つの書類は遠く離れた机に置かれていたが、どちらにも、誰かの好意ではなく、自分の仕事を自分で選ぶための名前が書かれていた。




