第7話 戻ってほしいなら、頭を下げる相手が違います
第7話 戻ってほしいなら、頭を下げる相手が違います
北部領ノルデンに王太子の馬車が到着したのは、週市が再開した翌日の午後だった。金色の王家紋章を付けた大型馬車が役所前へ乗り入れ、荷車用の通路を半分ふさいだ。御者が大声で住民を下がらせたため、干し茸を運んでいた男が籠を抱え、壁際へ身を寄せた。
役所の窓から馬車を見た受付係は、手にしていた羽根ペンを止めた。昨日まで広場に並んでいた天幕は片づけられ、石畳には栗の殻が一つだけ残っている。バルドは王家紋章を確かめると、机の引き出しから来訪者名簿を取り出した。
「王太子殿下から、事前の面会申請はございましたか」
クラリスは支払い済みの書類へ確認印を押しながら尋ねた。バルドは名簿を最初から確認し、首を横へ振った。ノルデン伯爵にも連絡はなく、王都から北部まで先触れを出さずに来たらしい。
「王太子殿下なら、申請なしでお通しするべきでしょうか」
受付係は声を落とし、玄関の方を見た。外では従者が扉を叩き、今すぐ開けるよう命じている。クラリスは銀時計を確認し、午後三時二十分と記録用紙へ書いた。
「王族を玄関で待たせる必要はありません。ただし、先約のある者を追い出す必要もありません。伯爵との面会が終わるまで、待合室へご案内してください」
受付係は椅子から立ち、上着の裾を伸ばして玄関へ向かった。現在、伯爵は羊飼い組合の代表者三名と、冬季の街道使用について話し合っている。王太子が来たという理由で切り上げれば、三人は雪が積もる前に、もう一度山道を越えて来庁しなければならなかった。
レオナルドは待合室へ入らず、受付の前でクラリスの名を呼んだ。旅のために毛皮を付けた濃紺の外套を着ていたが、肩には街道の埃が白く残っている。後ろに従者を二人連れているものの、リリアの姿はなかった。
「クラリス、迎えにも出ないとはどういうことだ。私は王太子として、はるばる王都から来たのだぞ」
レオナルドの声が役所の一階へ響いた。書式係は申請書へ線を引く手を止め、受付係は来訪者名簿を抱えたまま立っている。クラリスは確認印をもう一枚押してから、椅子を離れた。
「ようこそお越しくださいました、レオナルド殿下。ただいまノルデン伯爵は先約の方々と面会中です。三十分ほど待合室でお待ちください」
クラリスは王宮にいた頃と同じ角度で一礼した。以前と異なるのは、胸元に王太子府筆頭補佐官の徽章がなく、北部領政官の木製名札が付いていることだった。レオナルドはその名札へ目をやり、唇の端を下げた。
「伯爵に用はない。私はお前を迎えに来たのだ。すぐに荷物をまとめ、私と王都へ戻れ」
レオナルドは外で待つ馬車を指した。屋根には革製の荷箱が二つ載せられ、クラリスの荷物を積む場所まで用意されている。彼の中では、迎えに来さえすればクラリスが乗り込むことになっていた。
「私には、こちらでの勤務契約がございます。本日の業務も終了しておりません」
クラリスは自分の机を示した。未処理の書類は三件で、すべて午後六時までに終えられる量だった。机の隅には昼食に食べた豆のスープの器が置かれ、底には刻んだ香草が少し残っている。
「北部の小役人など、代わりはいくらでもいる。王太子府は今、お前がいなければ立ち行かない。王国のために戻れ」
レオナルドは命令する声を使った。王宮では、その声が響けば、書記官も侍従も食事の手を止めて駆けつけていた。だが北部役所の職員たちは、クラリスが返事をするまで自分の席を動かなかった。
「王太子府には、何人の職員が残っていますか」
クラリスはレオナルドへ尋ねた。戻るとも戻らないとも言われず、彼は一瞬言葉を止めた。やがて、書記官が八人、会計係が三人、契約係が二人、雑務係が四人いると答えた。
「その方々のお名前を、殿下は何人ご存じですか」
クラリスが続けると、レオナルドは眉を寄せた。書記官長の姓だけは口にしたものの、昨夜まで残業していた若い書記官や、二重払いの返納処理を続けている会計係の名は出てこない。全員をまとめて、部下たち、と呼んだ。
「名前など今は関係ない。あの者たちは、命じられた仕事をすればよいのだ。だが、お前が引き継ぎをしなかったため、誰も何をすればよいか分からずにいる」
レオナルドは革手袋を外し、受付の台へ置いた。縁に雪解け水の跡が残った台には、職員が交代で飲んでいる麦茶の水差しがある。受付係は倒されないよう、水差しを端へ移した。
「書記官長のハロルドは、三度、人員増強を殿下へ進言しました。会計係のマルタは、菓子店への二重払いを発見し、返納手続きを作り直しています。契約係のヨーゼフは、未決済契約の一覧を二晩かけて作りました」
クラリスは三人の名前と担当業務を順に挙げた。王太子府を退職してから直接連絡を取ってはいないが、監査記録の閲覧時に、誰が何を処理したか確認していた。レオナルドは三つの名前を聞いても、顔を思い出せないらしく黙っている。
「その者たちが無能だから、お前が必要なのだ」
レオナルドはようやく答え、受付の台から手袋を取った。彼が書類の判断をせず、権限を与えず、失敗したときだけ責任を求めていることには触れなかった。クラリスは彼の手袋についた埃が、床へ細く落ちるのを見た。
「私へ頭を下げても、書類は一枚も減りません。まず、あなたが名前さえ覚えなかった職員たちへ謝罪してください」
役所の一階から、羽根ペンの音が消えた。バルドは帳簿を開いたまま顔を上げ、書式係は定規を紙の上へ置いている。レオナルドはクラリスの言葉を理解できなかったのか、口を半分開けてから周囲を見回した。
「私が部下へ謝罪するだと。お前を失ったことで、多少厳しく当たっただけだ。それに、お前が戻ればすべて解決する」
レオナルドは声を抑え、今度はクラリスだけへ話すよう身を寄せた。婚約破棄については、取り消してもよいという。リリアとの関係を認めることを条件に、クラリスを再び婚約者として遇すると告げた。
「リリアは純粋で、宮廷の仕事には向いていなかった。だが、お前は王太子妃の仕事をよく知っている。私が愛するのはリリアでも、妻として国を支えるのはお前で構わない」
レオナルドは譲歩したつもりらしく、わずかに顎を引いた。外では馬が蹄で石畳をかき、御者が毛布を掛け直している。クラリスは彼の顔ではなく、受付の壁に掛けられた就業規則へ目を向けた。
「婚約の再締結も、復職も、お断りいたします」
クラリスは一語ずつ区切った。レオナルドとの婚約を失った代わりに、北部の職を得たのではない。自分の仕事を無償の奉仕として扱う相手と、再び契約する理由がなかった。
「嫉妬しているのだな。リリアが私の真実の愛だと認めるのが、それほど難しいのか」
レオナルドは口元へ薄い笑みを浮かべた。クラリスが仕事や契約の話をするのは、すべてリリアを奪われたことへの当てつけだと考えている。彼女が三十六回提出した人員増強要求も、三倍の報酬を断ったことも、その一言で説明できると思っていた。
「リリアさんを愛しておられるなら、その方との暮らしを、ご自分の仕事で支えてください。私を妻にして、仕事だけを任せる必要はございません」
クラリスはレオナルドの外套の留め金が外れかけているのに気づいたが、指摘しなかった。以前なら、彼が人前で恥をかかないよう、会話の途中でも直していただろう。今は彼の身なりを整えることも、予定を管理することも、クラリスの仕事ではなかった。
伯爵との面会を終えた羊飼い組合の代表者たちが、二階から降りてきた。三人は王太子の姿を見ると壁際へ寄って礼をしたが、抱えていた地図と毛糸の見本は手放さなかった。ノルデン伯爵は最後に階段を下り、玄関前の騒ぎを見て足を止めた。
「レオナルド殿下、お待たせいたしました。面会室をご用意いたします」
伯爵は王太子へ一礼したあと、クラリスへ視線を向けた。クラリスは、殿下の用件は自分の復職と復縁であり、どちらもすでに断ったと説明した。伯爵は余計な助言をせず、残りの勤務時間で処理すべき書類があるかだけを尋ねた。
「三件ございます。予定どおり、十八時までに完了します」
クラリスは自席へ戻った。レオナルドは納得せず、その後も王国の危機、王妃の期待、婚約者として過ごした年月を並べた。クラリスは必要な部分にだけ返答し、支払い確認書へ一枚ずつ署名した。
午後六時、役所向かいの鐘楼が鳴った。クラリスは三件目の書類へ決裁印を押し、印面を布で拭いて箱へ戻した。銀時計を開くと、長針が十二、短針が六を指している。
「話はまだ終わっていないぞ」
レオナルドはクラリスの机の前へ立った。職員たちは書類を棚へ収め、外套を着始めている。バルドは暖炉の火を弱め、受付係は来訪者名簿を閉じた。
「私のお返事は、すでに申し上げました。復職も復縁もいたしません」
クラリスは椅子を机へ戻し、小さなパン籠を持った。中には昼に食べ切れなかった黒パンと、昨日の週市でもらった焼き栗の紙袋が入っている。彼女は銀時計の蓋を閉じ、レオナルドへ一礼した。
「殿下の命令より、こちらの就業規則が優先されます。本日の業務は終了です」
ノルデン伯爵も壁の時計を確認した。王太子のために職員を残業させれば、クラリスと結んだ契約を雇用主である自分が破ることになる。伯爵は執事を呼び、王都方面へ向かう次の乗合馬車の時刻を尋ねた。
「殿下の馬車は、御者と馬を休ませなければ今夜の峠を越えられません。駅舎の待合室に暖炉がございますので、午後八時の馬車までそちらをご利用ください」
伯爵は領主館の客室ではなく、役所から二軒先の駅舎を案内した。待合室には木の長椅子と湯を沸かす炉があり、旅人なら誰でも使える。王族用の寝具も晩餐も用意されなかった。
「私を追い返すつもりか」
レオナルドは伯爵とクラリスを交互に見た。伯爵は追い返すのではなく、面会の用件が終了したため帰路を案内していると答えた。受付係が正面玄関を開け、冷たい夕方の風が役所へ入った。
クラリスは職員たちと一緒に外へ出た。空にはまだ薄い光が残り、通りの食堂から豆と燻製肉を煮る匂いが漂っている。役所の最後の扉へ鍵を掛けたのは、今日もクラリスだった。
背後では、従者がレオナルドの荷物を王家の馬車から降ろしていた。レオナルドはクラリスの名をもう一度呼んだが、彼女は振り返らなかった。銀時計は午後六時二分を示し、明日の始業まで、王太子が彼女へ命令できる時間は一分もなかった。




