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第6話 真実の愛では請求書は消えません

第6話 真実の愛では請求書は消えません


 王都の王太子府では、慈善舞踏会の招待状が百通、発送されないまま机の上に積まれていた。表には金色の文字で、真実の愛が身分を超えて人々を結ぶ夜、と印刷されている。ところが裏面の日付と会場名は空欄で、封筒へ入れることさえできなかった。


「王立劇場を使えばいい。父上も、慈善のためなら反対しないだろう」


 レオナルドは劇場の見取り図を広げ、中央の大階段を指で叩いた。机には昨夜の食事で使った皿が残り、乾いた肉汁の上へ蝋燭の煤が落ちている。正面の椅子には、淡い桃色のドレスを着たリリアが座っていた。


「でも、劇場を借りるには金貨二百枚の前金が必要だと書いてあります。料理と楽団と飾り花のお金は、別です」


 リリアは劇場支配人から届いた見積書を両手で持っていた。給仕係だった頃は、皿に残った料理を片づけることはあっても、その一皿へいくら支払われたか考える機会はなかった。紙には会場費、照明費、清掃費、警備費が一項目ずつ記されている。


「王太子が使うと言っているのだ。舞踏会が終わってから払えばいい」


 レオナルドは見積書を受け取り、支配人の署名がある箇所へ線を引いた。王家の催しなら、業者が先に品物を納めるのが当然だと考えているらしい。彼は書記官を呼び、会場を押さえるよう命じた。


 書記官は支出命令書の束を抱えて入ってきた。会場費の書類には予算科目がなく、料理代の書類には人数がなく、衣装代にはリリア一人分なのか出演者全員分なのか記されていない。修正を求める赤い紙片が何枚も挟まれ、書類の端はめくり直したため柔らかくなっていた。


「支出命令書が完成しておりません。金額の上限と、慈善費から支出するのか王太子府の行事費から支出するのか、ご決裁をお願いいたします」


 書記官は三種類の書類を机へ並べた。レオナルドは予算科目の欄を見たが、どちらにすればよいか判断できず、慈善のためなのだから慈善費でよいと答えた。書記官は、集めた寄付金を舞踏会の開催費へ流用するには監査院の承認が必要だと説明した。


「ならば行事費を使え。いちいち私へ聞かなくても、それくらい決められないのか」


 レオナルドは書類を押し返し、朝から冷めたままの紅茶を飲んだ。行事費には、菓子店へ二重払いした代金の返納処理が終わっておらず、帳簿上の残額と実際の金庫残高が一致していない。書記官はそのことも説明したが、レオナルドは額へ手を当て、先に業者を働かせるよう命じた。


 午後、劇場支配人と仕立屋、料理店の主人がそろって王太子府へ呼ばれた。三人とも帽子を膝へ置いたまま椅子には座らず、前金を受け取るまでは契約できないと同じ言葉を繰り返した。以前なら王家の名だけで掛け売りに応じていた者たちだった。


「私を誰だと思っている。王太子レオナルドだぞ」


 レオナルドは椅子から立ち、机の上へ片手をついた。劇場支配人は腰を曲げたものの、契約書を差し出さなかった。料理店の主人は、二重払いの件で王太子府の帳簿を監査中だと聞いているため、後払いには応じられないと答えた。


「王太子の名で命じればよい。慈善事業へ協力しない店だと知れれば、そなたたちも困るはずだ」


 レオナルドの声が高くなった。仕立屋は布見本の入った鞄を閉じ、注文を辞退しても構わないと返した。材料を仕入れる金がなければ、職人へ給金を払えないからだった。


「クラリス様がおられた頃は、王太子府からの支払いが遅れたことはございませんでした。ですが今は、正式な支出命令書も、前金も、支払日の保証もありません」


 劇場支配人は三枚の見積書を回収した。三人は王太子へ一礼すると、契約書へ署名しないまま退出する。廊下では、昼の配膳を終えた給仕係が台車を押し、銀器の触れ合う音を立てていた。


 リリアは閉じた扉と、積まれた招待状を交互に見た。クラリスが辞めた翌日、レオナルドは彼女が嫉妬から仕事を止めたのだと説明していた。けれど、目の前にある書類はクラリスが隠したものではなく、必要な欄が埋められていないだけだった。


「クラリス様が、意地悪でお店を止めているわけではなかったのですね」


 リリアは桃色の袖口を指でつまみ、机に置かれた衣装の見積書を見た。自分のドレス一着には、給仕係として二年働いても届かない金額が記されている。その代金を誰がいつ払うのか、レオナルドは一度も仕立屋へ答えなかった。


「お前までクラリスの肩を持つのか。あの女が仕事を引き継いでいれば、こんなことにはならなかった」


 レオナルドは招待状を一枚つかみ、皺がつくほど強く握った。慈善舞踏会の日付は決まらず、会場も料理も衣装も用意されていない。金色の文字で印刷された真実の愛という言葉だけが、空欄の上に残っていた。


 同じ日の朝、北部領ノルデンでは、役所前の広場へ十数台の荷馬車が入ってきた。麻袋へ入った豆、木箱に詰めた林檎、革靴、羊毛、陶器が次々に降ろされる。広場の端では、半年間たたまれていた赤と白の天幕を職員たちが広げていた。


「これほど戻ってくるとは思いませんでした」


 バルドは商人名簿へ印を付けながら、荷馬車の数を数えた。以前は毎週開かれていた市だったが、役所からの支払いが半年以上滞り、商人たちは別の領地へ移っていた。今朝戻ってきたのは、滞納分を受け取った商人と、その者たちから話を聞いた同業者だった。


「約束の日に支払われるなら、ここまで来る価値はあります。北部の林檎と羊毛は、王都でも高く売れますから」


 革商人は天幕の紐を柱へ結びながら答えた。彼は役所へ納めた冬靴の代金を五か月待ち、二度とノルデンでは商売をしないと決めていたという。ところが先週、利息を含む全額が支払われ、遅延理由と再発防止を書いた通知まで届いた。


 クラリスは市場の中央に立ち、出店一覧と役所の支払記録を照合した。新しい補助金も、出店料の免除も設けていない。役所が既存の契約を守り、払うべきものを期日どおり払うと示しただけだった。


「領政官様、週市再開の式典は行わないのですか」


 受付係は、役所から運んできた長机へ案内札を並べた。前任の領政官は新しい事業を始めるたびに楽団を呼び、演台と花輪を用意していたという。クラリスは広場を見回し、値段を呼ぶ商人と買い物籠を下げた住民を指した。


「商人が品物を並べ、住民が買いに来ています。それが再開の知らせです。演説を聞くために、店番の手を止めさせる必要はありません」


 受付係は案内札を置き終えると、陶器店で青い縁取りの皿を一枚買った。バルドは妻から頼まれた塩と毛糸を求め、書式係は息子の靴紐を選んでいる。勤務中なので長居はしなかったが、それぞれが自分の銅貨で一品ずつ買った。


 昼を過ぎると、広場の中央から焼き栗の匂いが流れてきた。鉄鍋の中で栗がはぜ、焦げた殻から細い煙が上がっている。栗売りは役所の職員へ、大きな紙袋を一つ差し出した。


「滞っていた荷車の修理代を、先週いただきました。これは利息ではなく、今日ここへ戻れた礼です」


 バルドは公務員が品物を受け取ってよいのか迷い、クラリスを見た。クラリスは一人一個なら試食として受け取り、残りは代金を払って買うよう答えた。栗売りは笑い、数えやすいよう紙袋へ十個だけ入れ直した。


 午後六時の鐘が鳴る頃、市場にはまだ何軒もの店が残っていた。商人たちは自分の判断で店を続け、役所の職員たちは勤務を終える。クラリスは役所へ戻り、金庫と窓を確認したあと、執務室の扉へ鍵を掛けた。


「今日の売上と出店数を、今からまとめますか」


 バルドは帳簿を抱えて尋ねた。表紙の角は擦れ、頁の間には新しく受け取った領収書が挟まれている。クラリスは銀時計を閉じ、帳簿をバルドの腕から取った。


「明日にしましょう。今日は、市が戻ったことを見届ける日です」


 クラリスは帳簿を執務室の机へ置き、引き出しにも棚にも入れなかった。明日の朝、誰でもすぐに開ける場所だった。扉を閉めれば、今夜の彼女たちに必要なのは数字ではなく、湯気を上げている焼き栗だった。


 職員たちは市場脇の石段へ腰を下ろした。紙袋を回し、熱い殻を指先で割ると、黄色い実から甘い匂いが立った。受付係は舌を焼いて水を飲み、バルドは持ち帰ると言っていた一個までその場で食べた。


「領政官様が来なければ、今年の週市は戻らなかったでしょう」


 バルドは割れた栗の殻を紙袋の端へ集めた。クラリスは首を横へ振り、役所の職員が一週間で滞納書類を処理したこと、商人がもう一度信用して荷馬車を走らせたこと、住民が自分の銅貨を持って集まったことを順に挙げた。どれか一つ欠けても、市場は開かなかった。


「私がしたのは、支払うと約束した請求書を、約束どおり支払える場所へ戻したことです」


 広場では、林檎を売り切った店が天幕を畳み始めていた。革商人は来週も来るとバルドへ声をかけ、栗売りは最後の一袋を抱えて帰っていく。冷たい風の中に、焼けた栗と荷馬車の藁と、濡れた石畳の匂いが混じった。


 クラリスは最後の栗を半分に割り、片方を受付係へ渡した。役所の帳簿は閉じたままで、今夜中に確認しなければならない書類は一枚もない。王都では真実の愛を印刷した招待状が止まり、北部では支払いを終えた請求書が、商人たちを広場へ連れ戻していた。


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