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第5話 十八時に帰れる役所

第5話 十八時に帰れる役所


 北部領ノルデンの役所は、領主館の隣に建つ二階建ての石造りだった。壁の下半分には雪解け水の染みが残り、玄関脇の雨樋には枯れ葉が詰まっている。クラリスが到着した朝、屋根から落ちた雫が石段のくぼみにたまり、踏むたびに薄い氷が割れた。


 役所の扉を開けると、紙と湿った外套と石炭の匂いが混ざっていた。左右の壁には書類棚が並び、収まりきらない紙束が床へ積まれている。十人の職員は全員席に着いていたが、羽根ペンを動かしている者は一人もいなかった。


「本日より領政官を務めます、クラリス・レーヴェンです。最初に、皆さんが今朝から何を待っているのか教えてください」


 クラリスは旅用の厚い外套を脱ぎ、受付脇の長机へ置いた。銀時計は午前八時五十五分を示し、始業まで五分残っている。職員たちは互いの顔を見たあと、最も年長の会計官を前へ押し出した。


「何を、と申されましても、書類へのご署名を待っております」


 会計官の名はバルドといい、白くなり始めた髪を短く切っていた。袖口には黒いインクが何重にも染みつき、右手の中指には筆だこがある。彼が示した棚には、署名待ち、と書かれた札が下がっていた。


「誰の署名ですか」


 クラリスが尋ねると、バルドは領主であるノルデン伯爵の名を答えた。棚には橋の修繕費から薪一本の購入費まで、あらゆる申請書が詰め込まれている。職員用の石鹸を三個買う申請書にも、五人分の署名欄と、領主の最終承認欄が設けられていた。


「伯爵は、一日に何件決裁なさいますか」


 バルドは机の引き出しから小さな帳面を出した。伯爵は領内の村を巡回し、冬支度の状況を確認しているため、役所へ来るのは週に二日だけだった。来庁日にも面会や陳情が続き、署名できるのは多くて二十件だという。


 クラリスは署名待ちの棚から一番上の申請書を取った。内容は、役所の裏口に使う錠前一個の交換で、費用は銀貨三枚だった。申請者、係長、会計官、副領政官、領政官の署名を経て、最後に領主の承認を受ける書式になっている。


「この申請書が提出されたのは、いつですか」


 受付係の若い女性が帳簿を開き、三か月前の日付を読み上げた。裏口の錠前はその間に完全に壊れ、職員たちは内側から椅子を立てかけているという。クラリスが扉を見ると、背もたれの傷んだ椅子が取っ手の下へ斜めに押し込まれていた。


「錠前一個に、領主の判断が必要だと考えますか」


 誰も答えなかった。バルドは唇を結び、インクの染みた指で申請書の角を押さえている。これまで三人の領政官が王都から派遣されたが、全員が王宮式の確認項目を追加し、署名欄を増やして帰っていったという。


「新しい規則をお作りになるのでしたら、書式係を一名増やしていただけませんか。今の人数では、新旧両方の書類を作り直せません」


 バルドの隣にいた書式係が、小さな声で申し出た。机の上には書き損じの紙が重なり、その横に冷えた麦粥の椀が置かれている。クラリスは自分の鞄から新しい羊皮紙を取り出さず、目の前の申請書を裏返した。


「新しい規則を増やす前に、今ある規則のうち、必要なものを選びましょう」


 クラリスは職員たちから、一人ずつ担当業務を聞いた。バルドは十五年間会計を担当し、領内の商人と過去の支払い履歴を把握している。受付係は各村から届く申請の期限を覚え、書式係は契約文書の誤記を見つけ、副領政官は工事の進み具合を現地で確認していた。


 仕事を知らない者はいなかった。誰も決められないようにされているだけだった。クラリスは一時間かけて、職員の経験年数と担当範囲を一枚の紙へ書き出した。


 午前十時、ノルデン伯爵が巡回から戻った。毛皮の外套には乾いた泥が付き、長靴の底から藁が一本出ている。伯爵はクラリスが初日から書類を増やしていると思ったらしく、机の上を見て肩を落とした。


「やはり王都式の規則が必要ですか。前任者は、書類を正しく管理するには署名欄を七つへ増やすべきだと言いました」


 伯爵は外套を脱ぎながら、持参した布包みを机へ置いた。中には巡回先の農家でもらった固いチーズと黒パンが入っている。クラリスは新しい書類ではなく、三か月止まっていた錠前の申請書を伯爵へ渡した。


「銀貨三枚の錠前を買うかどうかまで、伯爵が判断する必要はありますか」


 伯爵は申請書と、裏口を押さえている椅子を交互に見た。錠前が壊れていることさえ知らなかったらしく、椅子の背を指で押して確かめる。蝶番がきしみ、冷たい風が隙間から入った。


「ありません。会計官が必要と認めたなら、買って構いません」


 クラリスはその言葉を、決裁権限表の最初の項目へ記した。日用品と軽微な修繕は銀貨二十枚まで会計官が決裁し、村からの定例申請は既存予算の範囲内なら副領政官が承認する。新規工事と金貨三百枚を超える支出だけを、領主の最終承認へ回すことにした。


「ただし、権限を渡した相手へ責任だけを押しつけてはいけません。判断に迷う案件は、領政官である私へ戻してください」


 クラリスは決裁権限表へ自分の担当範囲も記した。職員が誤ったときには、権限を与えた自分が最終責任を負う。伯爵は表を二度読み、最後に自分の署名を入れた。


 昼休みには、職員たちが持参した食事を同じ机で食べた。バルドの弁当は茹でた芋二個と塩漬け肉で、受付係は林檎を薄く切って皆へ配った。クラリスは小さなパン籠から黒パンを取り出し、伯爵が持ってきたチーズを一切れ挟んだ。


「王都の貴族は、昼食にも銀の食器を使うのかと思っていました」


 受付係が林檎をかじりながら言った。クラリスはパン籠の底に残った胡桃の欠片を指で集め、王太子府では机の上で食べる時間さえなかったと答えた。バルドは初めて口元を緩め、自分の芋を半分、書式係へ渡した。


 午後、クラリスは使われている申請書と使われていない申請書を分けた。十年前に廃止された馬車税の報告用紙、すでに領内から撤去された関所の通行記録、同じ内容を別名で書かせる二種類の支出確認書が、棚を三段も占領している。保存期限を過ぎた白紙の旧書式だけを職員立ち会いのもとで裁断し、暖炉の焚きつけへ回した。


「記録済みの文書は一枚も捨てません。捨てるのは、これから同じことを二度書かせるための紙だけです」


 クラリスは既存の支出申請書から不要な欄を線で消した。五つあった署名欄は、担当者と決裁者の二つに減らす。書式係は最初こそ何度も確認していたが、やがて定規を持ち出し、不要な欄へ自分から線を引き始めた。


 午後五時四十分、錠前を売る金物商が役所へ代金を受け取りに来た。バルドは決裁権限表を確かめ、自分の署名で銀貨三枚の支出を承認する。金物商は三か月持ち歩いた請求書と銀貨を見比べ、何度も礼を言った。


 午後六時、役所の向かいにある鐘楼から鐘が鳴った。職員たちは誰も椅子から立たず、いつものように蝋燭を替えようとした。クラリスは銀時計を開き、柱時計との時刻が合っていることを確認した。


「本日の業務は終了です。机の上を片づけて、帰宅してください」


 バルドは署名待ちの棚を見た。そこにはまだ、数百件の書類が残っている。受付係も帰り支度をせず、未処理の申請書を抱えたまま立っていた。


「これだけ残っております。初日から帰ってしまえば、明日さらに増えるのではありませんか」


 クラリスは一番上の申請書を棚へ戻し、札を明日確認へ掛け替えた。疲れた職員が夜中に数字を写せば、二重払い一件で何日分もの仕事が増える。王太子府で見てきたことを、今度は自分が止める番だった。


「残りは明日です。疲れた人間の計算ほど、高くつくものはありません」


 クラリスは執務室の蝋燭を一本ずつ消した。最後に裏口を押さえていた椅子を外し、新しい錠前が掛かったことを確かめる。正面玄関の扉を自分で閉めると、外にはまだ青い夕方の光が残っていた。


 一週間後、署名待ちの棚から最後の支払書がなくなった。商人への滞納分はすべて支払われ、返答を待っていた村の申請にも承認または差し戻しの通知が出された。伯爵の机へ回されたのは、新規工事二件と予算外支出一件だけだった。


「本当に、終わりましたね」


 バルドは空になった棚へ布をかけた。毎晩遅く帰っていたため、妻から夕食の時間を聞かれなくなっていたという。今日はまだ午後六時前で、窓から市場の赤い天幕が見えている。


 鐘楼が六度鳴り、職員たちは一斉に立ち上がった。受付係は母親と夕食を作ると言い、書式係は息子の靴を直すために革屋へ寄ると話した。バルドは机の引き出しから、七日前から入れたままだった木製の弁当箱を取り出した。


 クラリスは全員が出たあと、棚と暖炉を確認した。机に未決済書類の山はなく、明日処理する三件だけが青い箱に収められている。彼女は最後の蝋燭を消し、役所の扉へ鍵を掛けた。


 市場では、閉店前のパン屋が最後の焼き上がりを籠へ並べていた。胡桃を練り込んだ丸パンから白い湯気が立ち、焼けた小麦と蜂蜜の匂いが冷たい通りへ流れている。クラリスは銅貨を払い、一番温かいものを一個選んだ。


「明日の朝食になさいますか」


 店主が紙袋へ入れようとした。クラリスは首を横へ振り、小さく割ったパンをその場で一口食べた。表面は香ばしく、中には砕いた胡桃がいくつも入っている。


「いいえ。温かいうちにいただきます」


 午後六時の最後の鐘が、北部の街へゆっくり広がった。職員たちはそれぞれの家へ向かい、役所の窓には一つも灯りが残っていない。クラリスは温かい胡桃パンを小さな籠へ入れ、明るさの残る道を自分の宿舎へ歩いた。


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