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第4話 私の値段は、私が決めます

第4話 私の値段は、私が決めます


 王宮からの使者がレーヴェン公爵邸を訪れたのは、監査官が帰った翌朝だった。使者は王妃付きの女官長で、灰紫色の外套の下に宮廷服を着込み、胸元へ王妃の紋章を留めている。彼女が持参した黒い革箱には小さな金の鍵が差され、蓋の中央には極秘を示す赤い帯が巻かれていた。


「王妃陛下より、クラリス様だけにお渡しするよう申しつかっております」


 女官長は応接室の長机へ革箱を置き、金の鍵をクラリスへ差し出した。卓上には薄く焼いた林檎菓子と香草茶が用意されていたが、女官長は茶器に手を触れなかった。窓の外では庭師が冬支度のために薔薇の枝を短く切り、湿った土の上へ藁を敷いている。


「拝見いたします。ただし、内容を確認するだけで、承諾したことにはなりません」


 クラリスはオズワルドへ時刻を記録させてから、金の鍵を回した。箱の中には封筒が一通と、王妃の印が押された契約書が入っている。封筒の表には、王国の安定のために、と王妃自身の筆跡で記されていた。


 契約書の最初に書かれていたのは、以前の三倍に相当する年俸だった。住居費、衣装費、馬車の使用料も王宮が負担し、契約時には一年分の半額を支度金として先払いするという。金額だけを見れば、王太子府で七年働いた蓄えに近い金貨を、一年で得られる条件だった。


「王妃陛下は、クラリス様の能力をどなたよりも高く評価しておられます。王太子府の混乱を収められるのは、クラリス様だけだと仰せです」


 女官長は王妃の手紙を開くよう勧めた。手紙には、国境警備隊への支払いが滞り、救貧院の小麦代も決裁されず、王太子府の信用が日に日に損なわれていると記されている。末尾には、王国の民を見捨てないでほしいという一文が添えられていた。


「契約上の役職は、王太子婚約者待遇の臨時補佐、ですか」


 クラリスは契約書の二枚目へ進み、その名称を指でなぞった。すでに婚約を解消した相手へ、婚約者と同等の仕事だけを求める役職だった。臨時とあるものの、契約の終了日も、期間を延長できる回数も書かれていない。


「呼称にすぎません。王太子妃教育を受け、殿下の執務を最もよくご存じの方として、相応の待遇を示したものです」


 女官長は言葉を選びながら説明した。クラリスは次の頁をめくり、職務内容の欄を確認する。そこには、王太子府運営に関わる必要な補助業務全般、と一行だけ記されていた。


 勤務時間の欄は空白だった。休日、病気休暇、決裁できる金額、指揮できる職員の人数も書かれていない。三倍の年俸だけが太い文字で記され、その下に多くの空欄が残っていた。


「こちらへ署名すれば、いつから勤務を開始することになりますか」


 クラリスは契約書を机へ置き、香草茶を一口飲んだ。乾燥させた林檎の皮が入っており、湯気にはかすかな甘い匂いがある。女官長は姿勢を正し、クラリスの問いへ即座に答えた。


「できましたら、本日午後からお願いいたします。国境警備隊と救貧院の支払いだけでも、今日中に処理していただかなくてはなりません」


 勤務開始前から、二つの至急案件が用意されていた。王太子府へ入れば、菓子店への二重払い、舞踏会費用、滞留した通常業務も回ってくるだろう。クラリスは王妃の手紙を封筒へ戻し、契約書だけを手元へ残した。


「本日中の返答を求められておりますか」


 女官長は、王妃が夕刻まで待つと答えた。革箱と金の鍵を置いたまま、午後五時に再び訪れるという。クラリスは期限を了承し、玄関まで女官長を見送った。


 午前中、クラリスは契約書を自室の机へ置いた。窓辺には赤い紐で束ねた三年分の業務報告書が並び、その隣には昨日食べ切れなかった胡桃パンが布に包まれている。彼女は契約書の年俸額を羊皮紙へ書き写し、これまでの報酬との差額を計算した。


 三倍の年俸があれば、公爵家から給金を受け取らずに暮らせる。自分の名義で小さな屋敷を買い、使用人を雇い、引退後の生活費まで蓄えられるだろう。七年間の働きが初めて金額として認められたように見え、クラリスは何度も数字を計算し直した。


 昼になっても、答えは出なかった。マーサが持ってきた茸入りのパイは半分だけ食べ、冷めた残りを机の端へ寄せた。切り口から流れた白いソースが皿の上で固まり、朝の香草茶も茶色い膜を張っている。


「夕食は食堂へお運びしましょうか。それとも、お部屋で召し上がりますか」


 夕刻、マーサが扉の外から尋ねた。クラリスは返事をしながら、昼食の皿がまだ残っていることに気づいた。王太子府にいた頃も、契約書や予算書を読み始めると、同じように食事を冷ましていた。


「食堂へ行きます。その前に、この皿を下げてちょうだい」


 クラリスは固くなったパイの縁へ視線を落とした。まだ復職していないのに、王宮から一通の契約書が届いただけで、昼食を途中にして机へ向かっている。三倍の金額を示され、以前と同じ働き方へ自分から戻ろうとしていた。


 彼女は机の引き出しから赤いインクと細いペンを取り出した。年俸額には触れず、空白になっている項目へ一つずつ条件を書き込む。勤務時間は午前九時から午後六時まで、週二日の休日、臨時呼び出しは月二回までとした。


 職務範囲は、国境警備隊と救貧院を含む既存の未決済案件の整理に限定した。舞踏会、王太子個人の衣装、贈答品、リリアに関する支出は担当外とする。さらに、金貨五百枚以下の支出について独立した決裁権を持ち、補佐官二名と書記官三名を新たに配置するよう書き加えた。


 契約期間は六か月とし、延長には双方の書面による合意を必要とした。婚約者待遇という役職名には二本の線を引き、王太子府臨時業務整理官と書き直す。最後に、契約違反があった場合、クラリスの判断で即日退職できる条項を加えた。


「お嬢様、王妃陛下の女官長がお見えです」


 午後五時、オズワルドが女官長の到着を告げた。クラリスは赤いインクを乾かし、朱書きした契約書を黒い革箱へ戻す。銀時計を確認してから応接室へ向かった。


「ご署名いただけましたでしょうか」


 女官長は午前と同じ席へ座り、期待するように革箱を見た。クラリスは署名していない契約書を取り出し、朱書きした条件を上から順に説明した。女官長は勤務時間までは黙って聞いていたが、独立した決裁権と人員増強の項目で首を横へ振った。


「臨時補佐へ決裁権を与える前例はございません。また、現在の混乱の中で午後六時に退庁されては、業務が終わりません」


 女官長は王妃の意向として、報酬以外の条件は変更できないと告げた。補佐官の増員についても、王太子の許可が必要であり、すぐには約束できないという。クラリスは赤い文字が並ぶ契約書を閉じた。


「では、この契約はお受けできません」


 女官長は年俸の数字を指し、以前の三倍であることをもう一度強調した。国境の兵士と救貧院の子供を持ち出し、王国のために力を貸してほしいと頼む。クラリスは朱書きした契約書を革箱へ収め、金の鍵を女官長の前へ置いた。


「三倍の報酬で、三人分働けという契約には署名できません」


 応接室の柱時計が五時十五分を示していた。女官長はしばらく契約書を見つめていたが、やがて革箱へ鍵を掛ける。帰り際、王妃へどのように報告すればよいかと尋ねた。


「提示された金額ではなく、提示されなかった条件によって辞退したと、そのままお伝えください」


 クラリスは玄関で女官長を見送り、食堂へ向かった。卓上には根菜を煮込んだ夕食と、焼きたての黒パンが並んでいる。今夜は湯気が消える前に椅子へ座ることができた。


 食事を始めようとしたところで、玄関の呼び鈴が一度だけ鳴った。オズワルドが持ってきたのは、北部のノルデン伯爵家の封蝋が押された厚い封筒だった。表には、領政官採用に関する正式な打診、と記されている。


「先ほどの王宮の使者とは別に、今朝届いていたものです。急ぎではないため、お食事のあとにお渡しする予定でした」


 オズワルドは封筒を食卓脇の小机へ置いた。封蝋には雪をかぶった樅の木が刻まれ、王宮の金箔を使った封筒よりも厚く、飾り気がない。クラリスはスープを飲み終えてから封を切った。


 北部領は三年続いた不作と支出の滞留により、財政が傾いていた。ノルデン伯爵はクラリスが王太子府へ提出した業務報告書の評判を監査院から聞き、領政の立て直しを任せたいと記している。ただし、成功を保証してほしいとは書かれていなかった。


 同封された雇用契約書には、報酬だけでなく、職務の範囲が細かく記されていた。勤務は午前九時から午後六時まで、週一日の休日、金貨三百枚までの独立した決裁権、既存職員への指揮権が明記されている。契約期間は一年で、三か月ごとに双方が継続の可否を確認する条件だった。


「王宮より報酬は低いわね」


 クラリスは独り言のように言い、二枚の契約書を頭の中で並べた。王宮の年俸は三倍だったが、どこまで働けば一日が終わるのか書かれていなかった。北部領の年俸は以前の一・五倍で、その代わり、何を任され、どこまで決められ、いつ帰れるのかが読めば分かった。


 彼女は食事を終え、焼きたての黒パンを一切れだけ小さな籠へ入れた。自室へ戻ると、赤いインクで北部領の契約書に二か所だけ確認事項を書き加える。住居の暖房費と、冬季に街道が閉鎖された場合の休暇についてだった。


 最後の頁へ署名する前に、クラリスは銀時計を開いた。午後六時にはまだ十分残っている。彼女は自分の名前をゆっくりと書き、乾くまで机の上へ置いた。


「私の値段は、金貨の枚数だけでは決められないわ」


 赤い紐で束ねた三年分の報告書の隣に、北部領の契約書が加わった。王宮へ戻る道は、自分の手で断った。次に働く場所もまた、誰かに与えられたのではなく、クラリスが条件を読み、自分で選んだ場所だった。


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