第3話 三日で止まった王太子府
第3話 三日で止まった王太子府
クラリスが王太子府を退職してから三日目の朝、王家御用達の菓子店へ同じ代金が二度支払われた。秋の祝宴で使った砂糖菓子三百箱分で、一度目は正規の支出命令書、二度目は店主から届いた入金確認書を請求書と取り違えた結果だった。店主は余分な金貨を返すと申し出たが、返納を受け入れるための書類を誰が作るのか決まらず、金貨の袋は王太子府の受付に置かれたままになった。
同じ日の昼になっても、国境警備隊の毛布代は支払われなかった。支出命令書は「至急」と書かれた箱の底で、翌月の舞踏会に使う花、王太子の新しい礼装、リリアへ贈る首飾りの注文書に挟まれていた。国境では来週にも初雪が降ると報告されていたが、王太子府の書記官たちは優先順位を決める権限を与えられていなかった。
「なぜ菓子代を二度も払った。クラリスなら、この程度の間違いはしなかったぞ」
レオナルドは机を叩き、受付から戻された金貨の袋を揺らした。袋の口から甘い焼き菓子の匂いが移った領収書がのぞき、机の端では朝から手を付けていない紅茶が冷えている。向かいに立つ書記官は、昨夜と同じ上着の皺を伸ばすこともできず、両手を体の横へ揃えた。
「クラリス様は、支出命令書を用途と期限で分けておられました。どの箱を先に確認すればよいのか、私どもは教えられておりません」
書記官は声を詰まらせ、足元に積まれた文書の束を見下ろした。これまで彼が担当していたのは、完成した命令書へ番号を振り、保管庫へ収める仕事だけだった。費用の緊急性を判断する権限も、王太子へ決裁を求める順番を変える権限も持っていない。
「教えられていないだと。クラリスは七年もここで働いていたのだぞ」
レオナルドは椅子へ座り直し、書類を一束持ち上げた。最初の二枚をめくったところで、補正予算と通常予算の違いが分からず、元の山へ戻す。王太子府筆頭補佐官の机には、今もクラリスが使っていた薄い肩掛けが残されていた。
「必要な引き継ぎをせず、王太子府を混乱させるために辞めたのだ。婚約破棄への意趣返しに違いない。監査院へ職務放棄として調査させろ」
レオナルドは新しい紙へ命令を書きつけ、書記官へ押しつけた。紙の下には国境警備隊から二度目の催促状が届いていたが、彼は封を切らなかった。書記官は命令書を受け取り、廊下へ出たところで、壁にもたれて小さく息を吐いた。
その日の午後、レーヴェン公爵邸には、王宮監査院から二名の監査官が訪れた。灰色の外套には朝から降っていた細い雨の粒が残り、革靴の縁には泥がついている。玄関では使用人が乾いた布を渡し、応接室には生姜を入れた温かい茶と、薄く切った胡桃パンが用意された。
「本日は、退職時の事情と、引き継ぎの有無を確認させていただきます」
主任監査官のベルトランは、濡れた手袋を外して鞄へ入れた。五十を過ぎた男で、銀縁眼鏡の片方に細い鎖を付けている。隣の若い監査官は筆記具を出し、茶には手を付けずに日付を書き始めた。
「承知いたしました。ただし、私が保管しているのは正式に受領印を受けた控えだけです。王太子府の原本と照合していただけますか」
クラリスは濃い茶色の普段着を着ており、右手の人差し指に革製の指当てはなかった。代わりに赤い紐を一巻き持ち、長机の端へ置く。窓辺の暖炉では細い薪がはぜ、雨に濡れた監査官たちの外套から湯気が上がっていた。
オズワルドが三つの書類箱を運び込んだ。箱には一年前、二年前、三年前と札が付けられ、中には月別に分けられた業務報告書が入っている。クラリスは一番古い箱を開き、最初の報告書を取り出した。
「三年前の秋、王太子府の業務が一人へ集中している危険を初めて報告しました。こちらが、その際に提出した人員増強要求書です」
要求書には、会計処理を担当する補佐官一名と、契約および日程管理を担当する補佐官一名の採用が必要だと記載されていた。理由の欄には、筆頭補佐官の不在時にも業務を継続し、後任を育成するためと書かれている。頁の下部にはレオナルドの署名と、その横に彼自身が記した「増員不要」の四文字が残っていた。
「却下の理由は記録されていますか」
ベルトランは銀縁眼鏡を上げ、署名を近くで確認した。若い監査官も椅子から身を乗り出し、日付と文書番号を書き取る。クラリスは同じ月の業務報告書を開いた。
「人件費の節約、および婚約者である私が王太子を補佐するのは当然であるため、と記録されています」
応接室に、暖炉の薪が崩れる音が響いた。オズワルドは茶を注ぎ足し、冷えた胡桃パンの皿を新しいものへ替える。クラリスは次の月の報告書を重ね、その上へ人員増強要求書を置いた。
翌月も、その翌月も、内容はほぼ同じだった。業務量の増加、決裁経路の集中、病気や退職によって業務が停止する危険、後任育成の必要性が、それぞれ具体的な件数とともに記されている。そしてすべての要求書に、レオナルドの署名と「増員不要」の返答があった。
「同じ要求を、毎月提出なさったのですか」
若い監査官の羽根ペンが止まった。長机の上には十二か月分の書類が並び、さらに二つの箱が開封を待っている。クラリスは赤い紐を切り、確認済みの十二冊を月の順に束ねた。
「はい。却下された翌月にも業務上の危険は消えておりませんでしたので、報告を続けました」
二年目の箱からも、十二通の要求書が出てきた。三年目の箱にも同じ数があり、最後の一通は婚約破棄の九日前に提出されている。そこには、クラリスが急病や事故で出勤できなくなった場合、国境警備隊への支払いを含む重要決裁が停止すると明記されていた。
「この最後の要求に対しても、王太子殿下は増員不要と回答されていますね」
ベルトランは署名を指で示した。赤いインクはまだ新しく、筆圧が強いため羊皮紙の裏まで跡が残っている。余白には「クラリスが処理すれば済む」と、レオナルド自身の筆跡で書き足されていた。
「クラリス様は、婚約破棄を予測していたのですか」
若い監査官の問いに、クラリスは首を横へ振った。卓上の茶はまだ温かく、生姜の匂いが書類の乾いた匂いに混じっている。彼女は三束目の赤い紐を結び終え、切り口を揃えた。
「いいえ。婚約が続いていても、私が一人で働き続けられる保証はありません。風邪をひくことも、階段から落ちることも、家族の看病で休むこともあります。仕事は誰か一人が倒れただけで止まる形にしてはならないと、三年前から申し上げておりました」
ベルトランは三十六通の要求書を順に数えた。一通ごとに発行番号、提出日、受領印、回答日、レオナルドの署名がそろっている。王太子府が原本を紛失していたとしても、記録台帳を調べれば提出された事実は確認できる形式だった。
「殿下は、あなたが引き継ぎを拒んだと主張されています」
ベルトランの声は低く、質問というより、最後の確認に近かった。クラリスは三束の報告書を机の中央へ並べ、すべての署名欄が監査官側から読める向きへ回した。赤い紐の結び目が一直線に並んだ。
「引き継ぐ相手を三年間置かなかったのは殿下です。私は、すでに三十六回引き継ぎを求めました」
若い監査官が息を吸い、羽根ペンを走らせた。オズワルドは新しい胡桃パンをクラリスの皿へ一枚置き、使用人たちは誰も口を挟まなかった。三十六通の余白に並んだ「増員不要」の文字が、クラリスに代わって王太子の判断を語っていた。
ベルトランは眼鏡を外し、白い布で雨の曇りを拭った。もう一度眼鏡を掛けると、最も新しい人員増強要求書へ仮受領の印を押す。硬い印面が机へ当たり、応接室に乾いた音が響いた。
「現時点で、クラリス・レーヴェン殿の職務放棄を示す記録は確認できません。むしろ、業務停止の危険を継続して報告し、後任の配置を正式に要求していた事実が認められます」
ベルトランは若い監査官へ、三十六通すべての文書番号を照合するよう指示した。次いで、王太子府における人員配置、決裁権限、支払い管理について調査を開始すると告げる。クラリスは一礼し、必要な範囲で控えの閲覧に応じると答えた。
「こちらの三束は、引き続き公爵家で保管してください。王太子府から提出を求められても、監査院の許可なく原本を渡さないように」
ベルトランは茶を一口飲み、ようやく胡桃パンへ手を伸ばした。若い監査官も筆記を終え、固くなった指を開いたり閉じたりしている。窓の外では雨が上がり、濡れた庭木の葉から水滴が一つずつ落ちていた。
監査官たちを見送ったあと、クラリスは三年分の報告書を箱へ戻した。赤い紐で束ねた書類は、長机の上で傾くことなく収まっている。彼女は箱の蓋を閉じ、銀時計を開いた。
時刻は午後三時四十分だった。王太子府にいた頃なら、冷めた昼食を諦め、晩餐会の献立確認へ移る頃である。今のクラリスには、明日出勤する執務室も、処理を待つ書類もなかった。
「お嬢様、残った胡桃パンをお部屋へお持ちしましょうか」
マーサが皿を持ち上げながら尋ねた。クラリスは一枚だけ小さなパン籠へ入れてもらい、残りは皆で食べるよう頼んだ。王太子府に戻らないことは決まったが、その次にどこで働くかは、まだ決めていなかった。
窓辺の椅子へ座り、クラリスは温かさの残る胡桃パンを二つに割った。三年間、毎月提出した警告は王太子を変えなかったが、今日、自分を守る証拠になった。王太子府は三日で止まったものの、クラリスの時間まで止めることはできなかった。




