第2話 元婚約者に残業命令はできません
第2話 元婚約者に残業命令はできません
焼きたての丸パンを割ると、白い湯気と小麦の匂いが上がった。クラリスは片方へ山羊乳のバターを塗り、もう片方を籠へ戻した。昨夜まで空だった小さなパン籠には、丸パンが三個と、厨房の料理長が添えた赤い林檎が入っていた。
白い陶器の器には、鶏肉と蕪を煮込んだスープが満たされている。表面には刻んだ香草と黄色い脂が浮かび、匙を入れるたびに柔らかく煮えた蕪が沈んだ。王太子府の机では、朝食のスープを二口飲んだところで呼び出され、そのまま冷たくなることが多かった。
「お嬢様、温め直しましょうか」
給仕をしていた侍女のマーサが、銀の蓋を持ち上げながら尋ねた。彼女は長年、ほとんど使われないクラリスの朝食用食器を毎朝磨いていた。今朝は皿も器も初めて本来の役目を果たし、食卓の白い布にはパンくずがいくつも落ちている。
「いいえ、まだ温かいわ。今日は最後までいただきます」
クラリスは匙を持ち直し、蕪を一切れ口へ運んだ。窓の外では庭師が濡れた落ち葉を箒で集め、そのそばを灰色の猫が尾を立てて歩いている。時計を確認すると午前八時十五分で、いつもなら王太子府で昨夜の未決済書類を開いている時刻だった。
昨夜外した革製の指当ては、寝室の文箱へしまってある。代わりに右手の人差し指には、小麦粉が一筋ついていた。クラリスは布巾で指を拭き、まだ湯気を残しているスープをもう一口飲んだ。
玄関の呼び鈴が三度続けて鳴った。門番の応答を待たずに鐘を引いたらしく、三度目は途中で止まり、金属が擦れる音だけが廊下まで届いた。マーサが眉を上げた直後、執事のオズワルドが銀盆を持って食堂へ入ってきた。
「王太子殿下の使者が参っております。至急、クラリス様へ命令書を渡したいとのことです」
銀盆の上には封筒ではなく、二つ折りにした紙が載っていた。王太子の紋章は描かれているが、封蝋も公文書番号もない。紙の端には黒い指跡がつき、急いで持ち出されたことが分かった。
「使者には客間で待っていただいて。朝食が終わりましたら伺います」
オズワルドは一礼して食堂を出ていった。廊下から、使者らしい男が「至急だと申し上げたはずだ」と声を荒らげるのが聞こえる。クラリスは扉を見ず、丸パンをスープへ浸した。
十八分後、器は空になった。クラリスは底に残った香草まで匙ですくい、食後の茶を半杯飲んだ。七年ぶりに朝食を最後まで温かいまま食べたことを、台所へ返す空の器が示していた。
客間では、王太子府の従僕が椅子へ座らずに待っていた。昨夜の舞踏会用らしい濃紺の上着を着たままで、襟元には葡萄酒の染みが残っている。卓上にはマーサが用意した茶が置かれていたが、従僕は一口も飲まず、クラリスの姿を見るなり紙を差し出した。
「王太子殿下からのご命令です。直ちに登城し、昨日までの業務を再開するようにとのことです」
クラリスは紙を受け取らず、卓上へ置くよう指で示した。従僕は唇を引き結び、茶器の横へ紙を置く。クラリスは椅子へ腰掛け、最初に紙の右上を確認した。
「発行番号がありませんね。起案者と記録官の署名もなく、王太子府の受領印を押す欄もございません」
紙には「元筆頭補佐官クラリス・レーヴェンへ、直ちに登城を命ずる」とだけ書かれていた。末尾にはレオナルドの署名らしきものがあるが、文字が乱れ、最後の一画が長く伸びている。命令の根拠となる役職名も、業務内容も、勤務時間も記されていなかった。
「殿下がお書きになったものです。昨夜から王太子府は大変なことになっております。形式を確認している場合ではございません」
従僕は早口になり、上着の袖で額の汗を拭いた。王太子府では、救貧院への食料費、国境警備隊の冬装備費、翌月の舞踏会費用が、すべて同じ「至急」の箱へ入れられていた。書記官たちは何から処理すべきか分からず、昨夜から同じ書類を出しては戻しているという。
「舞踏会の花屋は、今朝までに前金がなければ白百合を用意できないと申しております。ですが、救貧院からも小麦代の支払いを求める文書が届きました。国境警備隊の外套は、今週中に注文しなければ雪に間に合わないそうです」
従僕は三つの事情を一息に並べた。レオナルドは、どれも急ぎならクラリスを呼べばよいと言い、優先順位を決めないまま使者を出したらしい。クラリスは茶器の隣に置かれた命令書へ視線を戻した。
「それらは王太子府の業務です。昨日十八時をもって退職した私には、いずれの書類も閲覧する権限がございません」
従僕は、自分が叱責されたわけでもないのに肩をすぼめた。窓の外では庭師が落ち葉を大きな籠へ移し、乾いた葉が重なる音を立てている。クラリスはオズワルドを呼び、書類箱から一冊の控えを持ってくるよう頼んだ。
「しかし殿下は、昨日までお使いだった印章か、重要書類の一部をクラリス様がお持ちになったのではないかと疑っておられます。それらが戻らないため、仕事ができないのだと」
従僕の声は、最後だけ小さくなった。クラリスは返事をせず、オズワルドが運んできた灰色の書類箱を開いた。箱の蓋には、王太子府退職時財産目録控え、とクラリス自身の字で記されている。
「こちらが昨夜、退職時に提出した財産目録です。筆頭補佐官徽章一個、執務室鍵三本、決裁補助印一個、機密書類保管庫鍵一本、すべて返却済みとなっています」
各項目の横には、王太子府記録官の署名と受領印がある。提出時刻は十八時七分で、クラリスが執務室を出る直前に記録官へ確認させたものだった。最後の頁には、持ち帰った私物として銀製のペン一本、銀時計一個、昼食用のパン籠一個と記載されている。
「印章も鍵も、王宮にございます。私が持ち出した書類は、この財産目録の控えと雇用契約書だけです。どちらも私自身に交付された文書であり、機密書類には該当いたしません」
クラリスは控えを従僕の前へ置いたが、手渡しはしなかった。閲覧させた事実を残すため、オズワルドに時刻と使者の名前を書き取らせる。従僕は受領印の並ぶ頁を見つめ、何度も瞬きをした。
「では、その目録を殿下へお持ちしてもよろしいでしょうか」
従僕は控えへ手を伸ばしかけた。クラリスは蓋を閉じ、自分の側へ書類箱を引き寄せる。窓から差し込んだ朝日が、灰色の蓋に刻まれた日付を照らした。
「原本は王太子府にございます。この控えは、私が王宮の財産を持ち出していないと証明するためのものです。疑いをかけた側へ預けて紛失すれば、私の潔白を証明できなくなります」
従僕は手を膝へ戻した。オズワルドが閲覧記録へ砂を振り、余分な砂を小皿へ落とす。クラリスは公文書として成立していない命令書を二本の指で持ち上げ、従僕の前へ戻した。
「これは受け取れません。受領印を押せる書式で作成し直し、命令の根拠、業務内容、期間、責任者を明記してください」
従僕は紙を受け取ったものの、立ち上がろうとはしなかった。王太子からは、必ずクラリスを連れ帰れと命じられているらしい。冷めた茶の表面に、窓枠の影が細く映っていた。
「書式を整えれば、登城していただけるのですか」
従僕の声には、わずかな期待が混じった。クラリスは銀時計を取り出し、午前九時十二分であることを確認する。朝食を終え、使者への応対をしても、昨日までなら最初の会議が始まったばかりの時刻だった。
「いいえ。私は昨日、正式に退職いたしました。業務のご相談でしたら、まず報酬と権限を明記した依頼書をお持ちください」
従僕の口が半分開いたまま止まった。クラリスは、相手が言葉を見つけるまで待ち、卓上の冷めた茶を新しいものへ替えるようマーサへ頼んだ。客へ茶を出すことと、無償で王太子府の仕事を引き受けることは別だった。
「殿下は、今日の分だけでも来るようにと申しております。昨夜処理する予定だった仕事なら、クラリス様の残業ではございませんか」
クラリスは椅子の背へ手を置き、従僕をまっすぐ見た。昨夜までなら、国境の兵士や救貧院の子供を思い浮かべ、食事を残してでも馬車へ乗っていただろう。だが、その働き方を当然のものとして受け取ってきた人物が、自分から婚約と雇用を終了させたのだ。
「元婚約者に残業命令はできません」
オズワルドの羽根ペンが、記録紙の上で一瞬止まった。マーサは新しい茶を運びながら、口元を白い布巾で隠した。従僕は返却された命令書を両手で持ち、今度こそ椅子から立ち上がった。
玄関の扉が閉じ、馬の蹄が公爵邸から遠ざかっていった。クラリスは客間の窓を少し開け、冷めた茶と濡れた上着の匂いを外へ逃がした。庭では灰色の猫が落ち葉の籠へ入り込み、庭師が困った顔で抱き上げていた。
「お嬢様、残りのパンはいかがなさいますか」
マーサが空になった茶器を銀盆へ戻しながら尋ねた。クラリスは食堂に置いてきた小さな籠を思い出し、昼には庭で食べようと答えた。昨日はパンくずしか残っていなかった籠に、今日はまだ二個の丸パンと一個の林檎が入っている。
王宮へ戻った命令書には、クラリスの受領印がなかった。したがって、彼女が命令を受けて拒否したという記録も成立しない。残されたのは、必要な手続きを省き、退職者を無償で呼び戻そうとした王太子の署名だけだった。




