第1話 十八時ちょうどの婚約破棄
第1話 十八時ちょうどの婚約破棄
王宮大広間の柱時計が、午後六時を告げる最初の鐘を鳴らした。天井から下がる十二基の水晶灯には蝋燭がともり、磨き上げられた床へ細かな光を落としている。楽団が次の舞曲に備えて弓を構える一方、給仕係たちは銀盆に琥珀色の葡萄酒を載せ、招待客の間を縫うように歩いていた。
クラリス・レーヴェンは壁際の長机に立ち、王太子府へ届いた三通の至急文書へ目を通していた。一通目は国境警備隊の冬用外套、二通目は河川工事の追加費用、三通目は来月の王太子主催晩餐会に使用する花の注文書だった。舞踏会へ出席するよう命じられたため、濃紺の絹のドレスを着てはいたが、右手の人差し指には書類をめくるための革製指当てをはめたままだった。
昼食用に持ってきた小さなパン籠は、長机の下に置いてある。中身は固焼きパン一個と林檎半分だったが、パンは午後三時に立ったまま食べ、林檎は若い書記官へ渡した。籠の底には白い布巾と、パンくずが三つ残っているだけだった。
二度目の鐘が鳴ったとき、楽団員たちが一斉に弓を下ろした。招待客の視線が広間中央へ集まり、葡萄酒の銀盆を持った給仕係が足を止めた。中央には王太子レオナルドが立ち、その腕には淡い桃色の給仕服を着た少女が抱き寄せられていた。
「皆に聞いてもらいたい。私は今日、身分にも慣習にも縛られない、運命の真実の愛を見つけた」
レオナルドは声を張り、腕の中の少女を見下ろした。少女はリリアという名の給仕係で、胸元に結んだ白いリボンを両手で握っている。盆からこぼれた葡萄酒が床へ細い筋を作っていたが、誰も布を取りに動かなかった。
三度目の鐘が鳴った。クラリスは国境警備隊の文書を机へ置き、濃紺の袖口を整えた。レオナルドは彼女がようやく自分へ注意を向けたことに満足したらしく、顎を上げた。
「クラリス、お前との婚約を破棄する。私はリリアと結ばれ、この王国に真実の愛が身分を超えることを示す」
広間のあちこちで扇が開いた。宝石を縫い付けたドレスの裾が重なり、誰かが後ろへ下がった拍子に椅子の脚が床を擦った。クラリスはレオナルドではなく、その背後にある柱時計を見た。
長針は十二を指し、短針は六を指している。念のため、腰の鎖につないだ銀時計を取り出して蓋を開くと、こちらも午後六時を示していた。毎朝、王宮時計係が調整する柱時計との誤差は一秒もない。
「承知いたしました。レオナルド殿下との婚約破棄を受け入れます」
クラリスは銀時計の蓋を閉じた。泣き崩れる令嬢を支えようと待ち構えていた侍女が、差し出しかけた手を止める。レオナルドも返事が短すぎたためか、眉間へ薄く皺を寄せた。
「それだけか。私はお前ではなく、リリアを愛していると言ったのだぞ」
レオナルドの声は、六度目の鐘と重なった。リリアは彼の胸元からクラリスを見つめ、唇を小さく開いている。クラリスは長机の端に置いていた黒革の書類鞄を開いた。
「はい、確かに拝聴いたしました。従いまして、もう一点確認させていただきます」
鞄の中には、舞踏会の招待状よりも先に雇用契約書が入っていた。七年前、クラリスが王太子府の補佐官に任命された際、父であるレーヴェン公爵が作らせたものだった。羊皮紙の右下には国王、王太子、クラリス本人の署名と、王家の赤い封蝋が残っている。
「婚約破棄の話をしているのだ。仕事の話は明日にしろ」
レオナルドは空いている手を振り、楽団へ演奏を再開するよう目配せした。しかし指揮者は動かず、広間には柱時計の振り子が往復する音だけが響いている。クラリスは契約書の第三条を開き、文字の上へ革の指当てを置いた。
「第三条、王太子との婚約が解消された場合、国家機密保護のため、婚約者に付随して任命された筆頭補佐官の雇用も即時終了する。退職者は終了時刻以降、王太子府の書類、印章、執務室および通信設備へ接触してはならない、とございます」
招待客の視線が、レオナルドから長机の書類へ移った。河川工事の見積書には明朝までという赤い札が付き、冬用外套の支出命令書には王太子の決裁印を待つ空欄がある。晩餐会の花の注文書だけは、レオナルドの好む白百合を二千本用意するよう、すでに彼自身の署名がされていた。
「そんな条文は形式にすぎない。お前はこれまでどおり、明日も執務室へ来ればよい。婚約者でなくなったからといって、仕事まで投げ出す必要はないだろう」
レオナルドは笑い、リリアの肩を抱き直した。彼の袖口からは、昼に開けた南方産葡萄酒の甘い匂いが漂っている。クラリスは契約書を閉じ、黒革の鞄へ戻した。
「投げ出すのではございません。契約どおり、終了するのです」
柱時計が十八度目の鐘を鳴らした。クラリスは銀時計をもう一度開き、その文字盤をレオナルドへ向けた。長机の下では、空のパン籠の取っ手がドレスの裾に触れて小さく揺れている。
「ちょうど十八時ですね。婚約破棄に伴い雇用契約も終了となりますので、お先に失礼いたします」
クラリスは王太子府筆頭補佐官の徽章を外した。銀色の徽章には七年間磨き続けたため曇り一つなく、裏側に彼女の名と任命日が刻まれている。それを契約書の上へ置き、机の右端に揃えた。
「待て。国境警備隊の外套はどうなる。河川工事の見積もりも、私にはどれを選べばよいか分からない」
レオナルドは初めてリリアの肩から手を離した。先ほどまで真実の愛を宣言していた声に、普段クラリスを書類の山へ呼び戻すときの響きが混じる。クラリスは冬用外套の文書へ触れないよう、半歩後ろへ下がった。
「第三条により、私はすでに閲覧も助言も禁じられております。機密保持契約に違反させるおつもりですか」
王家の契約を公衆の面前で破れとは命じられず、レオナルドは口を閉じた。リリアが床に落とした銀盆を拾おうと腰をかがめたが、葡萄酒を吸った靴底が滑り、近くの給仕係が慌てて支えた。クラリスは長机の下から空のパン籠を取り出した。
「だが、あれだけの書類だぞ。今日中に終わらなければ、明朝、お前自身が困ることになる」
レオナルドは王太子府へ通じる扉を指さした。その先の執務室には未決済書類が机の両脇へ積まれ、追加の蝋燭も用意されている。クラリスが夜会へ出たあと戻ってくることを前提に、書記官が火を残していたのだ。
「いいえ。明朝、私はあちらへ入る権限を持っておりません」
クラリスは王太子府の扉まで歩き、室内を一度だけ確認した。机の上には朝から手を付けられなかった書類が十二束あり、椅子の背には夜食用の薄い肩掛けが掛けられている。窓際の小机には冷えた紅茶と、固くなった蜂蜜菓子が一つ残っていた。
彼女は自分の私物である銀のペンを引き出しから取り出した。七年間で持ち帰る物は、その一本と銀時計、空のパン籠だけだった。最後に机上の蝋燭を吹き消すと、紙と封蝋の匂いが残る執務室へ、廊下から舞踏会の光が細長く差し込んだ。
「クラリス、本当に帰るつもりなのか」
レオナルドの声が背後から追ってきた。クラリスは扉の鍵に触れず、王太子府付きの書記官へ場所を譲った。退職した者には施錠する権限さえない。
「はい。定時ですので」
正面玄関では、夜勤の侍従が大扉を開いた。外には夕方の雨が残した水たまりがあり、石畳から湿った土と馬車馬の藁の匂いが上がっている。クラリスは迎えの馬車へ乗る前にパン籠の布巾を外し、底に残っていた三つのパンくずを庭の雀へ落とした。
王宮の窓は端から順に明るくなっていった。今夜も多くの者が働き、食器を洗い、馬を休ませ、明日の薪を運び込むのだろう。けれど、王太子府の一番奥にある筆頭補佐官室だけは、午後六時ちょうどに灯りを失っていた。
馬車の扉が閉まる直前、遠くでレオナルドが誰かを呼ぶ声がした。クラリスは銀時計を鞄へしまい、空のパン籠を膝の上へ置いた。明日の朝、この籠へ何を入れるかは、七年ぶりに自分で決められる。
「レーヴェン公爵邸へお願いいたします。今日はもう、寄る所はありません」
御者が手綱を鳴らし、馬車は王宮を離れた。クラリスは背もたれへ肩を預け、指にはめていた革製の指当てを外した。王太子府の机には膨大な未決済書類が残っていたが、そのどれ一枚として、もう彼女の残業にはならなかった。




