第4話 閉じた水脈
第4話です。
レンたちは、折層迷宮のさらに奥へ進みます。
空洞の外で、敵性人形の赤いルーンが灯っていた。
壁の向こう側。
通路の曲がり角。
見えない場所で、木と石の関節が軋む音がする。
だが、その音もまっすぐには届かない。
奥から響き、壁を伝い、床の青白い波紋に乗って、レン・アルデアの足元へ戻ってくる。
水はない。
それなのに、音だけが流れている。
「移動する」
ガイウス・ヴェルグが短く言った。
彼は空洞の入口に立ち、炎の線を指先に灯している。
大きな炎格子ではない。
敵を焼くための火でもない。
必要な瞬間に、敵性人形の腕や脚の軌道だけを逸らすための、細く短い炎。
維持できないなら、維持しない。
残らないなら、残すことを前提にしない。
使える数秒だけを使う。
それが、今の迷宮での正しい戦い方だった。
「中心へ向かう」
ガイウスの言葉に、ミロ・エルウィンが顔をしかめた。
「中心って、本当に分かるのか?」
「分からない」
ガイウスは即答した。
「だから探る」
「正直すぎる班長、こういう時は心臓に悪いな」
ミロはそう言いながらも、腰の種子袋を確認した。
中身はまだある。
だが、彼が床へ落とした草印は、さっきから短く伸びては戻ることを繰り返していた。
道しるべとして信用できる時間は、短い。
セリア・ノクティスは観測用の記録ルーンを見つめていた。
青白い文字列が浮かび、円を描いて先頭へ戻り、消える。
それでも彼女は記録をやめない。
「記録板上の帰還経路は不安定。通常の入口座標は、現在位置と整合していない」
「つまり、戻れない?」
ミロが聞く。
「帰還符を使えば入口に戻る可能性はある。けれど、入口として参照されている座標がずれている可能性もある」
「使うなってことか」
「最後の手段として保持。ガイウスの判断と同じ」
ガイウスは頷いた。
「帰還符は割るな。記録板は捨てるな。だが、どちらも信じきるな」
今必要なのは、信じることではなく、使える範囲を見極めることだった。
「アルデア」
ガイウスがレンを見る。
「立てるか」
「立てる」
レンは壁に手をつきながら立ち上がった。
膝に力は入る。
呼吸もできる。
名前も分かる。
レン・アルデア。
ミロ・エルウィン。
セリア・ノクティス。
ガイウス・ヴェルグ。
大丈夫だ。
まだ、分かる。
そう思った直後、床の波紋が足元へ帰ってきた。
青白い輪が靴の周りをなぞる。
その一瞬だけ、自分の足が少し遅れてそこに立ったような感覚がした。
今の自分と、一拍遅れた自分が重なる。
レンは唇を噛んだ。
「方向は」
ガイウスが問う。
レンはすぐには答えなかった。
答えたくなかった。
流れの根元が分かると言えば、またあの感覚に近づくことになる。
分からないと言えば、ここから出る手段を一つ失う。
どちらも間違っている気がした。
「……たぶん」
レンは指先を握った。
「こっちだ」
彼が指したのは、入口とは反対側だった。
空洞の奥。
本来なら壁で塞がっているはずの場所。
そこに、青白い筋が集まっている。
壁の継ぎ目を無視し、石の奥から浮かぶように伸びる水脈。
それらが一本の細い輪を描き、空洞の奥へ沈んでいた。
「そこは壁だぞ」
ミロが言う。
「壁に見える」
レンは答えた。
「でも、流れはそこへ行ってる」
セリアが記録ルーンを向けた。
青白い文字列が浮かぶ。
構造壁。
閉鎖区画。
未登録反応。
最後の文字だけが、円を描く前に少し残った。
未登録反応。
セリアの目が細くなる。
「壁の奥に空間反応がある。記録板には存在しない」
「またかよ」
ミロが低く呟く。
ガイウスは迷わなかった。
「エルウィン、入口に短い印を残せ。戻される前提で三箇所。ノクティス、壁の構造確認。アルデアは近づきすぎるな」
「俺は?」
レンが聞く。
「お前は方向だけ示せ。触れるな」
その言い方は厳しかった。
けれど、レンを責めているのではない。
危険物を危険物として扱っている。
助かったことと、安全であることは別。
レンは頷いた。
「分かった」
ミロが種を三粒、入口側に落とした。
短い草が扇状に伸びる。
その先端が青白い波紋に触れた瞬間、わずかに縮んだ。
「相変わらず感じ悪いな、この迷宮」
「迷宮ではなく、迷宮内で発生している循環災害」
セリアが言う。
「細かいな」
「原因と場所を混同すると判断を誤る」
「はいはい」
ミロは軽く返したが、表情は真剣だった。
ガイウスが炎の線を壁へ走らせる。
赤い線は壁を焼かない。
構造ルーンの隙間だけをなぞり、石の奥に隠れた継ぎ目を浮かび上がらせた。
そこに、扉のような輪郭があった。
いや、扉ではない。
石壁の一部が、初めから開くことを前提に作られていたような、薄い境界。
セリアが息を呑む。
「隠し構造」
「訓練迷宮に必要なものか」
ガイウスが問う。
「少なくとも、実習用の記録板には登録されていない」
「なら学院側の管理区画か」
「可能性はある」
壁の青白い水脈が、境界に沿って走った。
直線だった構造ルーンが、少しずつ曲がる。
角がほどけ、輪になり、境界の中心へ吸い込まれていく。
石壁が開く音はしなかった。
代わりに、水面が割れるように、壁の表面だけが揺らいだ。
「……開いてるのか?」
ミロが半歩下がる。
「開いているというより、通れる状態に戻されている」
セリアが言った。
「それ、扉が元々開いてたってことか?」
「分からない。けれど、今の状態は閉鎖ではない」
ガイウスは炎を構えたまま、揺らぐ壁の前へ立つ。
「俺が先に入る。三歩以上離れるな。アルデアは中央、ノクティスは記録、エルウィンは後方」
「了解」
四人は、壁だった場所へ向かった。
レンは一歩踏み出すたびに、自分の足音が遅れて戻ってくるのを感じた。
一歩。
遅れて、一歩。
呼吸も同じだった。
吸う。
遅れて、誰かが吸う。
吐く。
遅れて、迷宮が吐く。
違う。
迷宮が呼吸しているわけではない。
そう言い聞かせようとして、レンは気づいた。
水は水だった。
流れは流れだった。
少し前までなら、そんなことを考えることすらなかった。
だが今は、音も、呼吸も、記録も、通路も、全部が同じものに見え始めている。
それが怖かった。
便利だからではない。
分かってしまうから怖い。
「レン」
ミロの声がした。
レンは振り返る。
今度はすぐに分かった。
「……何」
「無理なら言えよ」
「無理じゃない」
「そういう返事の時ほど無理してるやつ、俺は何人か知ってる」
「逃げ道を探すのが得意だからか?」
ミロが少しだけ目を丸くした。
それから、短く笑う。
「お、返しができるならまだ大丈夫そうだな」
レンも、ほんの少しだけ息を吐いた。
その瞬間、壁だった場所の向こうから、冷たい空気が流れ込んだ。
水気はない。
それでも、濡れた記憶のような冷たさだった。
ガイウスが先に足を踏み入れる。
炎の光が、壁の向こうを照らした。
そこにあったのは、折層迷宮の通路ではなかった。
床の幾何学模様が途切れている。
壁の構造ルーンも、学院の実習区画で見たものより古い。
石材の色も違う。
訓練用に整えられた灰色ではなく、深く沈んだ黒灰色。
ところどころに古い観測器具のような金属枠が埋め込まれている。
セリアの記録ルーンが細く鳴った。
「未登録区画」
「やっぱりな」
ミロが呟く。
ガイウスは表情を変えない。
だが、声だけが少し低くなった。
「ヴィンクルム国際元素学院の訓練迷宮に、学生用記録板へ登録されていない区画がある」
その言葉は、確認ではなく、告発に近かった。
セリアは記録ルーンを操作する。
文字列が一瞬だけ浮かぶ。
旧――
災害――
観測――
そこまで表示されたところで、文字列は青白い輪に巻き込まれ、先頭へ戻って消えた。
「読めたか」
ガイウスが問う。
「断片だけ」
セリアの声は硬い。
「旧、災害、観測。その三つ」
ミロが顔をしかめる。
「訓練迷宮の奥に、旧災害観測区画ってことか?」
「断定はできない」
「でも、かなり嫌な方向には合ってるだろ」
セリアは否定しなかった。
レンはその区画の奥を見た。
青白い水脈が、床の奥へ伸びている。
壁から床へ、床から天井へ。
そのすべてが、さらに奥の暗がりへ集まっていた。
流れの根元がある。
見えているわけではない。
だが、分かってしまう。
そこに、全部が帰っている。
レンの指先が、また震えた。
「中心は、奥だ」
言った瞬間、自分の声が少し遅れて聞こえた。
ガイウスがこちらを見る。
「確かか」
「確かかどうかは分からない」
レンは正直に答えた。
「でも、流れは奥へ行ってる」
ガイウスは一拍だけ黙った。
それから、炎を構え直す。
「進む」
ミロが小さく息を吐いた。
「だよな。戻るって選択肢、最初からない顔してたもんな」
「戻れる保証がない」
ガイウスは言う。
「なら、前へ進む理由はある」
セリアが記録ルーンを閉じる。
「記録は期待できない。目視と記憶で補う」
「その記憶も安全じゃないんだろ?」
ミロが言う。
「だから、互いに確認する」
セリアはレンを見た。
「特にアルデアは」
レンは頷いた。
「分かってる」
分かっている。
自分の名前も。
仲間の名前も。
今いる場所も。
まだ、分かっている。
だが、青白い水脈の奥から戻ってくる音は、少しずつ近くなっていた。
水路のない水音。
それはまるで、誰かが扉の向こうで、レンの名前を呼び返しているようだった。
奥へ進むほど、その区画が訓練迷宮ではないことは明らかになった。
床の幾何学模様は途中で途切れ、古い金属枠が石壁に埋め込まれている。
壁の構造ルーンも、学院で使われている規格とは少し違っていた。
直線が多すぎる。
レンはそう思った。
今のヴィンクルム国際元素学院の構造ルーンは、整っているが、どこか柔らかい。
安全のために調整され、学生でも読み取れるように整理されている。
しかし、この区画のルーンは硬い。
固定する。
閉じる。
逃がさない。
そういう意思が、線そのものに刻まれているようだった。
「古いな」
ガイウスが呟いた。
「今の学院規格じゃない」
「分かるのか?」
ミロが聞く。
「オルデン法制国の構造術式なら、ある程度はな」
ガイウスは壁から視線を外さない。
「これは訓練用ではない。封鎖か、隔離に近い」
ミロの表情が曇る。
「隔離って、何を?」
「それを確認している」
セリアは観測用の記録ルーンを通路へ向けていた。
青白い文字列が浮かんでは、円を描いて戻る。
それでも、断片だけは残る。
旧。
災害。
観測。
遮断。
適合。
最後の二文字が浮かんだ瞬間、セリアの指が止まった。
「適合……?」
レンの指先が、小さく震えた。
その言葉だけが、他の断片より深く沈んできた気がした。
ミロがセリアを見る。
「今、適合って出たよな」
「出た」
「何に適合するんだよ」
「分からない」
セリアは記録ルーンを閉じなかった。
「けれど、訓練区画の用語ではない」
通路の奥で、低い水音が響いた。
同時に、壁の青白い筋が少しだけ強く光る。
青白い水脈は、通路の壁に沿って走っていた。
だが、それはただ光っているだけではない。
脈打っている。
一度、奥へ走る。
一拍遅れて、床から天井へ戻る。
さらに壁の内側を通り、また奥へ向かう。
石造りの通路のはずなのに、レンにはそこが血管の内側に見えた。
「……気持ち悪いな」
ミロが小さく言った。
「俺も今、同じこと考えてた」
レンは思わず答えた。
ミロが少し驚いたようにこちらを見る。
「本音が出る余裕はあるんだな」
「余裕じゃない。見えるんだ」
「何が」
レンは壁を見た。
「迷宮じゃなくて、血管みたいに」
ミロの顔から笑いが消えた。
ガイウスも歩みを止める。
「アルデア。比喩か」
「……たぶん」
「たぶん、か」
ガイウスは短く息を吐いた。
「ノクティス」
「壁内部の青白い流路は、構造ルーンとは別系統。人工岩系術式の外側を走っている」
「外側?」
「いいえ」
セリアは言い直した。
「外側ではない。侵食している」
通路の構造ルーンが、また揺らいだ。
本来は直線で固定されていたはずの線が、青白い水脈に触れた部分から曲がっていく。
角がほどけ、端と端が結びつき、小さな輪になる。
固定するための線が、流れるための形へ変わっていく。
前話で見た現象と同じだった。
だが、ここではそれが壁一面で起きている。
「構造が、負けてる」
ミロが呟いた。
ガイウスの眉がわずかに動く。
「正確には、構造が別の規則に置き換えられている」
「班長、それを負けてるって言うんじゃないのか?」
「軽々しく言うな」
ガイウスの声は硬かった。
だが、否定しきれていないことはレンにも分かった。
オルデン法制国の岩系人工元素。
構造、秩序、固定、法。
この学院そのものを支えている力。
それが、目の前で輪に曲げられている。
レンは足元を見た。
床に青白い波紋が広がる。
水はない。
だが、波紋だけが通路の奥へ走り、壁に触れる前に反転して戻ってくる。
一つの波紋が、レンの靴へ触れた。
その瞬間、右足が少しだけ遅れて動いた。
いや、違う。
自分では、もう右足を出していたはずだった。
だが、身体の感覚では、今ようやく右足が動いた。
順番がずれている。
「止まれ」
ガイウスの声がした。
レンは自分が一歩余計に進んでいたことに気づいた。
「アルデア」
ガイウスが振り返る。
「命令前に動くな」
「……すまない」
「責めているのではない。状態を言え」
レンは喉を鳴らした。
「足が、遅れた」
ミロが眉をひそめる。
「遅れた?」
「動かしたはずなのに、後から動いた感じがした。自分の身体なのに、順番がずれてる」
セリアの目が鋭くなる。
「身体感覚の時間差」
「記録できるか」
ガイウスが問う。
「完全には無理。でも、観測はできる」
セリアはレンに近づきすぎない位置から、記録ルーンを向けた。
「アルデア。右手を握って」
レンは右手を握ろうとした。
そうしたはずだった。
だが、先に反応したのは左手だった。
左の指先に青白い輪が浮かび、遅れて右手が震える。
レンの背中が冷たくなった。
「……今の」
ミロが小さく言った。
「逆だったよな」
レンは自分の両手を見た。
右手を握ったはずなのに、左手が先に答えた。
自分の身体の命令が、自分の中で別の流路へ回されている。
「やめろ」
ガイウスが言った。
「これ以上、試すな」
セリアは記録ルーンを下ろす。
「同意する。反応が悪化している」
「原因は」
「流れの根元に近づいているから、と考えるのが自然」
「なら急ぐ」
ミロが反射的に言った。
セリアが首を振る。
「急げば近づく。近づけば悪化する」
「じゃあどうしろってんだよ」
「止まっても戻される」
ガイウスが言った。
「進むしかない。ただし、アルデアを先頭には出さない」
レンは何か言おうとした。
自分が方向を感じ取っている。
なら、自分が先に立つべきではないか。
そう思った瞬間、ミロが先に言った。
「レン、お前は真ん中だ」
「でも」
「でもじゃない。お前が倒れたら道案内どころじゃないだろ」
その言葉は軽かった。
けれど、軽く聞こえるようにしているだけだと分かった。
レンは口を閉じた。
「……分かった」
隊列が変わる。
ガイウスが前。
セリアがその後ろ。
レンは中央。
ミロが後方。
前話と似た形だったが、意味は少し違った。
レンを守るための隊列。
そして、レンが暴走した時に止めるための隊列。
その両方だった。
通路を進む。
青白い水脈は奥へ向かうほど太くなっていった。
壁の内側を走る線は、もはやただの筋ではない。
脈動のたび、通路全体がわずかに明滅する。
光が走る。
遅れて、音が返る。
さらに遅れて、レンの指先が震える。
その順番が、何度も入れ替わる。
光が先だったのか。
音が先だったのか。
自分の震えが先だったのか。
分からなくなる。
「名前」
突然、セリアが言った。
レンは顔を上げる。
「今、確認する。あなたの名前は」
「レン・アルデア」
「エルウィン」
「ミロ・エルウィン」
「私」
「セリア・ノクティス」
「班長」
「ガイウス・ヴェルグ」
セリアは頷いた。
「応答可能」
「嫌な確認だな」
ミロが言う。
「必要な確認よ」
「分かってるけどさ」
ミロの声は、いつもより低かった。
レンは自分でも驚くほど安心していた。
名前が出た。
まだ、出た。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
だが、その安心は長く続かなかった。
通路の奥に、巨大な円形の隔壁が見えた。
石と金属が重なった厚い壁。
中央には、古い構造ルーンが幾重にも刻まれている。
だが、その全てを青白い水脈が貫いていた。
直線の封印。
円形の隔壁。
青白い輪。
三つの構造が、互いに食い合っている。
セリアの記録ルーンが激しく明滅した。
「未登録隔壁。権限表示なし。けれど、断片が出ている」
「読めるか」
ガイウスが問う。
セリアは目を細めた。
「旧災害観測区画。遮断層。循環系異常。適合――」
そこで文字が輪になって消えた。
ミロが息を呑む。
「今、循環って出たよな」
セリアは短く頷く。
「出た」
その言葉に、レンの指先が強く震えた。
循環。
初めて、断片ではなく、意味を持った言葉として聞こえた気がした。
青白い水脈が、隔壁の中央へ集まっている。
すべての音が、そこへ沈む。
すべての波紋が、そこから戻る。
循環核。
レンはそれを見て、そう思った。
「この先だ」
レンが言った。
声が震えていた。
「たぶん、全部ここへ戻ってる」
ガイウスは隔壁を見上げた。
その横顔は険しい。
「訓練迷宮の奥に、旧災害観測区画。しかも循環系異常の遮断層」
ミロが乾いた声で言う。
「これ、もう実習じゃないよな」
「最初からそう判断している」
ガイウスは答えた。
「今は、なぜ学生用迷宮がここにつながったのかを知る必要がある」
セリアが低く言う。
「知るだけで済むとは思えない」
隔壁の中央で、青白い輪が脈打った。
一度。
二度。
三度。
そのたびに、レンの指先も同じ間隔で震える。
ミロがレンの手を見る。
「また光ってるぞ」
レンは指を握り込もうとした。
だが、今度は握れなかった。
自分の指なのに、命令が届く前に、青白い輪が先に巡っている。
「近い」
レンは呟いた。
「何が」
ミロが聞く。
「水音が」
水路のない水音は、もう遠くなかった。
隔壁の向こう側。
すぐそこ。
そして、レンにはそれが、自分の名前を呼ぶ直前の息遣いのように聞こえた。
隔壁の前で、四人は足を止めた。
石と金属でできた巨大な円形の壁。
中央には幾重にも構造ルーンが刻まれ、その上を青白い水脈が貫いている。
直線で閉じようとするルーン。
輪を描いて戻ろうとする青白い流れ。
二つの力が、隔壁の表面で食い合っていた。
ガイウスは、炎の線を消さないまま隔壁を見上げている。
「ノクティス。開閉機構は」
「確認中」
セリアが観測用の記録ルーンを隔壁へ向ける。
青白い文字列が走る。
旧災害観測区画。
遮断層。
循環系異常。
適合――
そこで、また文字列が輪を描いて消える。
セリアは目を細めた。
「通常の扉ではない。構造術式で閉じている。内外の流れを遮断するための隔壁」
「流れを遮断?」
ミロが言った。
「つまり、この奥から漏れてるものを止めるための壁ってことか?」
「その可能性が高い。ただし、遮断機能は完全ではない」
ガイウスが短く問う。
「破れるか」
「人工元素で無理に干渉すれば、隔壁の構造が戻される可能性が高い」
「では、開けるべきではないな」
「同意する」
ミロが二人を見比べる。
「じゃあ、ここまで来て引き返すのか?」
「引き返せるならな」
ガイウスの答えは冷たかった。
その言葉と同時に、背後の通路から赤い光がちらついた。
敵性人形の胸部ルーンだ。
遠い。
だが、近づいている。
木と石の関節が軋む音が、青白い波紋に乗って返ってくる。
追ってきているのか。
戻ってきているのか。
もう、区別がつかなかった。
「時間はない」
ガイウスが言った。
「隔壁を開けずに原因を断つ方法があるなら言え。なければ、最も危険の少ない方法で奥を確認する」
「奥を確認って、結局開けるってことだろ」
ミロの声が低くなる。
「このままなら通路も、敵性人形も、記録も戻り続ける。留まれば全員が循環路に呑まれる」
「分かってるよ」
ミロはレンを見た。
「でも、そこに近づくほどレンがおかしくなってる」
レンは言葉を挟めなかった。
その通りだった。
隔壁の前に立っているだけで、指先の青白い輪は強くなっている。
視界の端で、文字にならない何かが回り続けている。
水路のない水音は、隔壁の向こうから聞こえているはずなのに、レンの胸の内側で鳴っていた。
「アルデア」
ガイウスが言った。
「奥の状態が分かるか」
「班長」
ミロが即座に声を上げる。
「それ聞くのかよ」
「聞くだけだ。使えとは言っていない」
「聞かれたら、こいつは答えようとするだろ」
空気が止まった。
ミロの声には、はっきりと怒りがあった。
普段の軽口ではない。
隠した不安でもない。
レンを使うな、という怒りだった。
ガイウスはミロを見た。
「なら、代案を出せ」
「それは……」
「感情だけでは班は救えない」
「だからって、レンを道具みたいに扱うな」
その言葉は、空洞の冷気より鋭かった。
レンは思わずミロを見る。
ミロは、こちらを見ていなかった。
ガイウスだけを見ていた。
ガイウスの表情は変わらない。
けれど、返す声は少し低くなった。
「道具として扱うなら、止めるなとは言わない」
ミロは黙る。
「俺は、アルデアを戦力としても、危険因子としても見ている。だから使える情報は聞く。だが、無理に触れさせる気はない」
ガイウスはそこで、初めてレンを見た。
「答えるかどうかは、お前が決めろ」
レンは息を吸った。
お前が決めろ。
その言葉は、優しくはなかった。
だが、命令ではなかった。
レンは隔壁を見た。
青白い水脈が、循環核へ集まっている。
その中心で、輪が脈打っている。
一度。
二度。
三度。
指先が同じ間隔で震える。
見たくない。
知りたくない。
けれど、分かってしまう。
奥には、ただの装置があるわけではない。
水でもない。
扉でもない。
何かが、ずっと同じ場所へ戻り続けている。
「……水音がある」
レンはゆっくりと言った。
「水はない。でも、音だけがある。たぶん、この奥で全部の流れが折り返してる」
「折り返す?」
セリアが問う。
レンは言葉を探す。
「流れの終点じゃない。出口でもない。ここに集まって、また迷宮へ戻ってる」
ミロが低く呟く。
「心臓みたいなものか」
レンは隔壁の中央を見る。
青白い輪が脈打つ。
「……近いと思う」
セリアの記録ルーンが再び鳴った。
文字列が浮かぶ。
循環核。
遮断不全。
適合反応。
その瞬間、文字が輪を描く前に、セリアが指で記録ルーンを押さえた。
「読めた」
彼女の声は静かだったが、緊張があった。
「循環核。遮断不全。適合反応」
ガイウスの目が細くなる。
「循環核」
「おそらく、この災害の根元」
「適合反応は」
セリアは一瞬、レンを見た。
そして、彼の指先に浮かぶ青白い輪へ視線を落とす。
「拒絶反応が出ていない」
ミロが眉をひそめる。
「それ、良いことなのか?」
「良いことではない」
セリアの声が硬くなった。
「普通なら、身体か人工元素が先に拒絶する。けれど、アルデアは弾かれていない」
ガイウスが低く言う。
「つまり、適合している」
「違う」
セリアは即座に否定した。
「適合反応が強すぎる。流れが、身体の中を通ってしまっている」
その言葉で、レンの喉が詰まった。
通ってしまっている。
それは、才能とは違う。
選ばれたのとも違う。
扉が開いているのではない。
鍵が壊れて、閉じられない。
そんな感覚だった。
ミロが舌打ちする。
「断定しないって言えよ、そこは」
「断定には足りない」
セリアは言った。
「でも、危険性を否定する情報はない」
ガイウスが隔壁へ炎の線を近づけた。
「隔壁を開けずに遮断機能を戻せるか」
「構造ルーン側へ干渉すれば、可能性はある。ただし、循環路に触れないように封鎖術式だけを補強する必要がある」
「俺の炎で線を通す」
「炎は痕跡が戻される。維持できない」
「維持はしない。三秒だけ通す」
セリアは少し考えた。
「三秒あれば、封鎖ルーンの欠けを一箇所だけ補えるかもしれない」
ミロが種を取り出す。
「俺の草は?」
「使わない方がいい。生成系は循環路に巻き取られやすい」
「了解。後ろ見る」
ミロは不満そうだったが、すぐに後方へ視線を向けた。
通路の奥の赤い光が、また近づいている。
レンはその横顔を見た。
ミロ・エルウィン。
今度はすぐに名前が出た。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
「アルデア」
セリアが言う。
「あなたには近づかないでほしい」
レンは頷く。
「分かってる」
「でも、もし流れの変化が強くなったら言って。方向だけでいい。奥を見ようとしないで」
「……分かった」
見るな。
触れるな。
でも、感じたら言え。
矛盾しているようで、今できる最善だった。
ガイウスが隔壁の前へ出る。
「始める」
彼の炎が、細い赤線となって隔壁を走った。
赤い線は、青白い水脈を避けるように、古い構造ルーンの欠けた部分だけをなぞる。
一秒。
隔壁の表面が震える。
二秒。
青白い水脈が、赤い線へ向かって寄ってくる。
三秒。
セリアの記録ルーンが鋭く光る。
「今」
ガイウスは炎を切った。
同時に、セリアが氷の薄い針を隔壁の一点へ打ち込む。
凍らせるためではない。
構造ルーンの欠けた端と端を、一瞬だけ固定するための氷。
青白い輪が、それを飲み込もうとする。
レンの指先が強く震えた。
駄目だ。
そのままだと、氷が戻される。
戻された瞬間、隔壁の内側に溜まった流れがこちらへ返ってくる。
見てはいけない。
触れてはいけない。
それでも、分かってしまう。
「下がって!」
レンが叫んだ。
セリアは反応が早かった。
氷の針を切り離し、自分の手を引く。
ガイウスも半歩下がる。
次の瞬間、隔壁の中央から青白い波紋が弾けた。
音はなかった。
いや、音がなかったのではない。
音が発生する前に、戻された。
無音の衝撃が、四人の身体を押した。
ミロが後方で踏ん張る。
ガイウスは炎で足元を焼き、滑りを止める。
セリアの記録ルーンは一瞬だけ真っ白に光った。
レンは、立っていられなかった。
膝が崩れる。
だが、倒れる前に、誰かが腕を掴んだ。
ミロだった。
「おい、今のも読んだのか?」
レンは息を吸う。
答えようとした。
読んだのか。
見えたのか。
分かったのか。
どれも違う。
「……返ってきた」
レンは隔壁を見た。
「奥の流れが、こっちに返ってきた」
隔壁の中央で、青白い輪が大きくなっている。
封鎖ルーンは一部だけ補修された。
だが、その反動で、循環核の輪がはっきりと姿を現していた。
セリアが記録ルーンを確認する。
「遮断率、わずかに回復。ただし、循環核の露出が上昇」
ミロが顔をしかめる。
「少し塞いだけど、中身が見えやすくなったってことか?」
「雑に言えばそう」
ガイウスは隔壁の中央を見据えた。
「だが、今ので分かった。隔壁は完全には閉じられない。こちらから塞ぐには出力も権限も足りない」
「じゃあ、どうする」
ミロが問う。
隔壁の中心で、青白い輪が脈打つ。
その奥に、何かが見えた。
水面ではない。
穴でもない。
閉じた輪の内側に、別の空間がある。
レンは、それを見た瞬間、胸の奥を掴まれたような感覚に襲われた。
そこにある。
循環核が。
そして、その向こうに、何かがいる。
「開くしかない」
ガイウスの言葉が、隔壁の前に落ちた。
誰もすぐには答えなかった。
開く。
その一言が意味する危険を、全員が分かっていた。
隔壁は、ただの扉ではない。
旧災害観測区画。
遮断層。
循環核。
遮断不全。
適合反応。
セリアの記録ルーンに浮かんだ断片は、それだけで十分に不穏だった。
この先にあるものは、訓練用の課題ではない。
学生が触れていいものでもない。
それでも、背後からは敵性人形の赤い光が迫っている。
通路は循環路に巻き込まれ、帰還符の座標も信用できない。
戻れない。
留まれない。
なら、前へ進むしかない。
「本気かよ」
ミロが低く言った。
「開けたら、もっとまずいものが出てくるかもしれないだろ」
「開けなくても、すでに漏れている」
ガイウスは隔壁の中央を見据えた。
「必要な幅だけ開ける。観測できるだけでいい」
「三秒以内」
セリアは即座に返す。
「それ以上は、奥の流れを呼び込む可能性がある」
「三秒だ」
ガイウスは炎の線を指先に集めた。
「エルウィン、後方」
「見てる」
ミロは種を二粒、背後に落とした。
短い蔓が床に伸び、通路の曲がり角へ向かう。
「ノクティス、開放と同時に観測」
「了解」
「アルデア」
ガイウスの声が少し低くなる。
「見るなとは言わない。だが、呼ばれても答えるな」
レンの喉が動いた。
呼ばれても。
やはり、ガイウスにも分かっているのか。
隔壁の奥から、自分にだけ届く何かがあることを。
「……分かった」
レンは答えた。
その返事が、ほんの少し遅れて耳に戻ってくる。
ガイウスが炎を走らせた。
赤い線が隔壁の表面をなぞる。
青白い水脈を避け、古い構造ルーンの隙間だけを通っていく。
一秒。
隔壁の中央の輪が、ゆっくりと開き始めた。
石が動く音はない。
金属が擦れる音もない。
水面に指を入れた時のように、隔壁の中央だけが揺らぐ。
二秒。
セリアの記録ルーンが白く光った。
「観測開始」
文字列が走る。
循環核。
旧観測槽。
適合反応。
対象未登録。
被験――
そこで文字が乱れた。
三秒。
隔壁の奥が見えた。
レンは息を忘れた。
そこは部屋だった。
いや、部屋と呼ぶには、あまりにも静かだった。
円形の空間。
床一面に刻まれた古い構造ルーン。
壁には割れた観測器具が並び、天井からは切れた金属管が垂れている。
そして中央には、水のない水面があった。
円形の槽。
だが、水は入っていない。
何も入っていないはずなのに、その表面だけが青白く揺れている。
波紋が広がり、中心へ戻り、また広がる。
閉じた水面。
その上に、薄い影が浮かんでいた。
人影のようにも見える。
記録の残像のようにも見える。
誰かがそこに立っていた痕跡だけが、何度も同じ場所へ戻っているようだった。
レンは目を離せなかった。
影が、こちらを向いた気がした。
顔はない。
輪郭も曖昧だ。
けれど、そこから声のようなものが返ってくる。
レン。
音ではなかった。
空気を震わせたわけでもない。
耳に届いたわけでもない。
ただ、名前の形だけが、胸の内側に戻ってきた。
呼ばれたのではない。
通された。
名前が、あの水面の向こうとレンの内側を行き来した。
「閉じろ!」
ガイウスが叫んだ。
セリアが即座に記録ルーンを切った。
ガイウスの炎が消える。
隔壁の中央が、閉じる方向へ戻っていく。
だが、その直前。
青白い水面から、一つの波紋が外へ出た。
隔壁を越えた。
床を走った。
レンの足元へ届いた。
触れてはいけない。
そう思った時には、もう遅かった。
波紋がレンの靴の周りで閉じる。
世界の音が、一瞬だけ消えた。
次に聞こえたのは、自分の声だった。
いや、自分の声に似た、別の誰かの声だった。
――戻ってきた。
レンは息を呑む。
自分は、戻ってきた?
どこから。
いつから。
誰が。
「レン!」
ミロの声がした。
今度はすぐに分かった。
ミロの声だ。
だが、その声に続いて、もう一つ別の呼び声が重なる。
レン。
同じ名前。
違う声。
自分の名前が、自分だけのものではなくなっていく感覚。
レンは膝をついた。
「アルデア!」
ガイウスが振り返る。
「近づくな!」
セリアが叫んだ。
だが、ミロは止まらなかった。
「知るか!」
ミロはレンの肩を掴んだ。
その瞬間、レンの中で巡っていた青白い輪が、ミロの呼吸に触れた。
速い。
焦っている。
怖がっている。
でも、離さない。
その呼吸が、レンをこちら側へ引き戻す。
「おい、俺を見ろ」
ミロが言った。
「俺の名前、言え」
レンはミロを見る。
緑の実技服。
種子袋。
少し震えた口元。
無理に強くしている目。
名前。
輪の向こうへ沈みかけた名前。
レンはそれを掴むように、声に出した。
「ミロ・エルウィン」
ミロの肩から力が抜けた。
「よし。俺だ。戻ってこい、水袋」
水袋。
その言葉で、レンはようやく息を吐いた。
隔壁は閉じていた。
だが、完全には閉じていない。
中央には、先ほどよりもはっきりと青白い輪が残っている。
水面の向こうにいた影は見えない。
それでも、気配だけは残っていた。
セリアの記録ルーンは、白い光を失っている。
彼女は何度か操作し、ようやく短く言った。
「記録、ほとんど戻された」
「何が残った」
ガイウスが問う。
セリアは記録ルーンを見つめる。
そこには、断片だけが残っていた。
旧観測槽。
循環核。
対象未登録。
適合反応。
被験体記録――欠落。
「被験体」
ミロが言った。
声が低かった。
「今、被験体って言ったか」
セリアは黙っていた。
沈黙が答えだった。
ガイウスの表情は硬い。
「学院の訓練迷宮の奥に、旧災害観測槽と被験体記録がある」
その声は静かだった。
だが、怒りに近いものがあった。
「これは、教育施設の問題では済まない」
レンはまだ座り込んだまま、隔壁を見ていた。
水音は消えていない。
むしろ、近くなっている。
隔壁の奥にあった水のない水面。
顔のない影。
胸の内側へ戻ってきた、自分の名前。
戻ってきた。
その言葉が、頭から離れない。
「アルデア」
ガイウスが言った。
「今、何を聞いた」
レンは答えようとした。
戻ってきた。
そう言えばいい。
だが、それを口に出した瞬間、何かが確定してしまう気がした。
自分の言葉なのか。
あの影の言葉なのか。
それすら分からない。
レンは首を横に振った。
「分からない」
嘘ではなかった。
本当に、分からなかった。
セリアがレンを見る。
「あなたの反応は、適合反応として記録されている可能性がある」
ミロが睨むように言う。
「可能性だろ」
「ええ。可能性」
セリアは頷いた。
「でも、かなり高い」
ミロは何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
背後の通路で、敵性人形の音が近づく。
青白い波紋が床を走り、赤いルーンの光が揺れた。
ガイウスが炎を構える。
「ここで議論している時間はない。隔壁の奥は確認した。今は生きて戻る」
「戻れるのか?」
ミロが問う。
ガイウスは一瞬だけ黙った。
それから、レンを見た。
「戻る道は信用できない。だが、循環核を見た以上、流れの向きは変わったはずだ」
セリアが記録ルーンを確認する。
「座標の揺れが変化している。帰還経路の表示が、一瞬だけ入口側へ向いた」
「なら、それを使う」
ガイウスは即断した。
「全員、帰還路へ向かう。帰還符はまだ割るな。入口座標が安定した瞬間まで保持する」
ミロがレンの腕を支える。
「立てるか」
レンは頷いた。
「立てる」
今度は、少しだけ嘘だった。
だが、立たなければならなかった。
隔壁の奥から、もう一度、水音が戻ってくる。
レン。
名前が返ってくる。
レンは耳を塞ぎたかった。
けれど、塞いでも無駄だと分かっていた。
その声は、耳ではなく、名前そのものに触れている。
四人は隔壁に背を向けた。
その瞬間、レンは一度だけ振り返った。
閉じた隔壁の中央。
青白い輪。
その奥に、もう見えないはずの影が立っている気がした。
影は、口のない顔で、もう一度だけレンを呼んだ。
レン。
その呼び声に、レンは返事をしなかった。
だが、自分の指先が、同じ間隔で小さく震えた。
お読みいただきありがとうございます。
第4話では、折層迷宮の奥にある未登録区画と、レンの異常な反応を描きました。
次話では、迷宮からの帰還と、その後に待つ学院側の対応へ進んでいきます。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




