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Eternal Nexus  作者: Alec
第一部「灰炉の落水編」
5/5

第5話 帰還不能の帰還

第5話です。

レンたちは、折層迷宮からの帰還を試みます。

四人は隔壁に背を向けた。


背後では、青白い輪がまだ脈打っている。


閉じたはずの隔壁。 見えなくなったはずの旧観測槽。 水のない水面。 顔のない影。


それらはもう視界にはない。


だが、レン・アルデアの胸の奥では、まだ水音がしていた。


水路などない。 水などない。


それでも、音だけが残っている。


沈む。 戻る。 また沈む。


その音に合わせて、レンの指先が微かに震えた。


「歩けるか」


ガイウス・ヴェルグが前を向いたまま問う。


「歩ける。……少し無理はしてる」


ミロ・エルウィンがレンの腕を支え直した。


「正直でよろしい」


軽口の形をしている。 けれど、その手には力が入っていた。


離さないための力だった。


セリア・ノクティスは少し前を歩きながら、記録ルーンと記録板を交互に確認していた。


記録ルーンの表面には、細かい亀裂のような青白い線が残っている。 隔壁の奥を観測した時に、記録のほとんどを戻されたせいだ。


「座標の揺れは変化している」


セリアが言った。


「入口側の反応が、断続的に出ている」


「使える時間は」


ガイウスが問う。


「長くても数秒。帰還符の参照先と記録板の入口座標が一致する瞬間がある」


「その瞬間に割る」


「そうするしかない」


ミロが顔をしかめる。


「数秒しか安定しない入口に飛ぶってことか?」


「正確には、入口だと表示された座標へ帰還する」


「言い方を悪くするなよ」


「良く言っても危険度は変わらない」


「そういうとこだぞ、ノクティス」


それでも、ミロはそれ以上文句を言わなかった。


通路の奥から、赤い光が近づいている。


敵性人形の胸部ルーン。 一体ではない。 複数の赤い点が、折れた通路の向こうで揺れている。


ガイウスは炎の線を構えた。


「戦うな」


彼は即断した。


「逸らすだけだ。止めても残らない」


その言葉に、レンは隔壁の前で聞いたセリアの声を思い出した。


適合反応が強すぎる。 流れが、身体の中を通ってしまっている。


通ってしまっている。


才能ではない。 選ばれたわけでもない。


拒絶できない。 閉じられない。 流れが内側を通る。


そう考えた瞬間、胸の奥の水音がわずかに近づいた。


レン。


名前が返ってくる。


レンは歯を食いしばった。


返事をするな。


ガイウスに言われた言葉を、何度も自分の中で繰り返す。


呼ばれても答えるな。


「レン」


今度の声は、すぐ横からだった。


ミロだった。


レンは顔を上げる。


「……分かってる」


「まだ何も言ってないけど」


「俺の名前を呼んだ」


「呼んだだけだろ」


「それで戻れる」


ミロは一瞬だけ黙った。


それから、少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ何度でも呼ぶぞ、水袋」


「それはやめろ」


「なんでだよ。戻れるんだろ」


「呼び方が悪い」


「贅沢言うな」


そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が戻った。


だが、すぐに通路が揺れる。


青白い水脈が壁を走った。 古い構造ルーンの直線が、また輪へ曲がる。


前方の壁が水面のように揺らぎ、敵性人形の腕が突き出した。


本来そこに通路はない。 敵性人形が隠れている空間もない。


だが、迷宮はもう、道の形を信用できる状態ではなかった。


「伏せろ!」


ガイウスの炎が横に走った。


敵性人形の腕を焼くのではない。 腕の軌道だけを逸らす細い炎。


ミロの蔓が一瞬だけ絡む。 すぐに巻き戻される。


それでも、足りた。


「通るぞ」


四人は揺らいだ壁の脇を抜けた。


敵性人形の腕が、青白い弧を描いて同じ場所へ戻る。


レンには、その軌道が見えた。


見ようとしたわけではない。


見えてしまった。


「右に寄って」


レンが言った。


ミロが即座にレンを右へ引く。


敵性人形の腕は、二人の左側を通り抜けた。


「助かった」


ミロが短く言う。


レンは答えなかった。


助かった。


でも、また読んでしまった。


使わないつもりでも、分かってしまう。


それが一番怖かった。


「アルデア」


ガイウスが言う。


「今のは必要な報告だ。責めるつもりはない」


レンは驚いて顔を上げた。


ガイウスは前を向いたままだった。


「だが、奥を見るな。流れの始点を探すな。見えてしまう範囲だけ言え」


「……分かった」


「ノクティス、入口座標は」


「まだ不安定。ただ、周期がある」


「周期?」


「入口座標が現れる間隔が、循環核の脈動と一致している」


その言葉に、レンの指先が震えた。


一度。 二度。 三度。


隔壁の奥で聞いた水音と、同じ間隔。


「次の一致は、おそらく十五秒後」


「全員、帰還符を準備」


ガイウスが命じた。


レンは腰の帰還符に手を伸ばした。


薄い石片のような札。 実習開始時に配られた、安全のための道具。


本来なら、割れば迷宮入口へ戻る。 それだけのはずだった。


だが今は、その単純さが信用できない。


帰還符の表面にも、細い青白い筋が走っている。


レンの指が触れた瞬間、筋がわずかに光った。


「触るな」


セリアの声が鋭く飛んだ。


レンは指を離した。


「アルデアは帰還符を持ったままでいい。でも、発動はガイウスの合図まで待って」


「なぜ」


「あなたが先に触れると、帰還符の参照先が変わる可能性がある」


ミロが顔をしかめる。


「レンが触っただけで?」


「可能性よ」


「その可能性ばっかり増えるの、ほんと嫌だな」


ガイウスは即座に判断した。


「帰還符は各自保持。発動は俺の号令で同時。アルデアは最後まで割るな。俺が確認してから割れ」


「分かった」


レンは帰還符を握らず、掌に乗せるだけにした。


帰還符の青白い筋が、呼吸するように明滅している。


まるで、レンの指を待っているように。


通路の奥で赤い光が増える。


敵性人形が迫っている。 後方からも、前方の壁からも、戻り経路に巻き込まれるように出現する。


ガイウスの炎が短く走る。 セリアの氷が一瞬だけ足元を固定する。 ミロの草が通路の端に印を残し、すぐに戻る。


何も残らない。


それでも、数秒だけは稼げる。


その数秒をつないで、四人は帰還の瞬間を待った。


「十秒」


セリアが言った。


「五秒」


レンの胸の奥で、水音が近づく。


一度。 二度。 三度。


入口座標が現れる。


そう感じた。


見たわけではない。 記録したわけでもない。


流れの向きが、一瞬だけ変わるのが分かった。


「今だ」


レンの声が、ガイウスの号令より少し早く出た。


ガイウスは迷わなかった。


「帰還符、構えろ」


セリアの記録ルーンが白く光る。


「入口座標、一致」


「割れ!」


ガイウスの声が響いた。


帰還符が割れる音が、四つ重なった。


石が砕けるような乾いた音。


だが、その音もすぐに青白い輪へ巻き込まれていく。


視界が白くなる。


足元の感覚が消える。


レンは最後に、通路の奥から戻ってくる水音を聞いた。


レン。


その呼び声に、今度も返事はしなかった。


白い光が消えた。


次にレンが感じたのは、冷たい床の硬さだった。


石床ではない。 訓練迷宮のざらついた床でもない。


磨かれた学院施設の床。


平らで、冷たく、管理された感触。


レンは、そこに膝をついていた。


「……戻った、のか」


誰かが言った。


ミロの声だった。


レンは顔を上げる。


目の前にあったのは、折層迷宮の入口広間だった。


高い天井。 整列した構造柱。 学生用の待機線。 壁に刻まれた帰還確認用の安全ルーン。


見覚えがある。


実習開始前、彼らが集合した場所だ。


戻ってきた。


そのはずだった。


だが、レンの胸の奥では、まだ水音がしていた。


水路のない水音。 沈み、戻り、また沈む音。


迷宮の外へ出たはずなのに、その音だけが置き去りになっていない。


「全員、状態を報告しろ」


ガイウスの声が響いた。


彼はすでに立ち上がっていた。 炎は出していない。 だが、右手はいつでも術式を起こせる位置にある。


「エルウィン」


「生きてる。足は動く。種袋もある」


ミロはレンの腕を離さないまま答えた。


「ノクティス」


「意識明瞭。記録ルーンは損傷。記録板は一部破損。帰還符は使用済み」


セリアは淡々と答える。


「アルデア」


レンは少し遅れて口を開いた。


「……意識はある。立てる」


「名前は」


セリアが即座に問う。


レンは息を吸う。


「レン・アルデア」


「エルウィン」


「ミロ・エルウィン」


「私」


「セリア・ノクティス」


「班長」


「ガイウス・ヴェルグ」


セリアは短く頷いた。


「応答可能」


「迷宮出てもそれやるのかよ」


ミロが低く言った。


「必要よ」


「分かってるけどさ」


その声には、怒りよりも安堵が混じっていた。


レンも、自分で名前を言えたことに少しだけ安堵した。


だが、安心はできなかった。


入口広間の壁にある安全ルーンが、妙に遅れて見える。


光が明滅する。 一拍遅れて、意味が届く。


正常。 帰還確認。 実習完了。


その文字は、そう読める。


けれど、レンにはそれが本当に今の状態を示しているとは思えなかった。


「実習完了、ね」


ミロが壁の表示を見て、乾いた笑いを漏らした。


「どの辺が完了なんだよ」


その時だった。


入口広間の奥にある管理扉が開いた。


最初に入ってきたのは、実技担当教官のエレナ・レインハルトだった。


かつて元素災害対応に携わっていた女性で、灰色の教官服には防護用の石紋が刻まれている。


レンたちを見た瞬間、エレナの表情が一瞬だけ硬くなった。


だが、すぐに教官の顔へ戻る。


「四名の帰還を確認」


その声は低く、よく通った。


「第三構造迷宮、該当入口を封鎖。医療班、外傷確認。管理官は記録板と入口座標を保全。誰も隔離線の外へ出すな」


床へ術式杭が打ち込まれる。


白い線が入口広間を走り、四人の周囲に方形の隔離領域を作った。


救助ではない。


まず隔離。


ガイウスの目が細くなった。


「レインハルト教官」


「ヴェルグ、発言は後だ。まず身体確認を受けろ」


「なぜ、救助より先に隔離命令が出るのですか」


エレナの視線が、ガイウスへ向いた。


短い沈黙。


それだけで、空気が変わった。


「手順だ」


「通常実習の手順ではありません」


ガイウスは一歩も引かなかった。


「我々は学生です。迷宮異常に巻き込まれたなら、最優先は負傷確認と避難のはずです。隔離線の展開が早すぎる」


ミロが低く呟く。


「……やっぱ早いよな」


エレナは答えなかった。


代わりに、医療班へ視線を送る。


次に、淡い白の医療外套を着たフィオナ・グランセルが前に出た。 学院医療研究室の研究員で、水系人工元素による治療を専門としている。


柔らかい表情をしている。 だが、その目はレンの右手と顔色をすぐに見ていた。


「全員、外傷確認を行います。痛み、吐き気、視界の揺れ、名前の想起遅延があれば申告してください」


「名前の想起遅延?」


ミロの声が低くなる。


「なんでその症状が出る前提なんだよ」


フィオナは一瞬だけ言葉を止めた。


その間に、入口広間へもう一人の女性が入ってきた。


濃紺の監察服を着たイリス・ヴァイン。 ハルシア封蔵領域から派遣された協約監察官だった。


柔らかく礼をする仕草は丁寧だったが、目の奥は冷たい。


「その質問には、私からお答えします」


イリスは隔離線の外で足を止めた。


「今回の帰還者には、元素災害との接触可能性があります。したがって、身体外傷だけでなく、認知、記憶、元素反応の確認が必要です」


「元素災害との接触可能性」


ガイウスが繰り返した。


「なぜその前提で対応しているのですか」


イリスは微笑に近い表情を作った。


「折層迷宮の異常発生時には、複数の可能性を想定します」


「便利な言い方だな」


ミロが吐き捨てるように言う。


「実際にどこまで知ってたのかは言わないってことだろ」


エレナの声が少し強くなる。


「エルウィン。落ち着け」


「落ち着いてますよ」


ミロはレンの腕を支えたまま、イリスを睨んだ。


「でも、帰ってきた生徒に最初にすることが隔離と観測なら、こっちも疑います」


イリスは表情を変えなかった。


「疑問は正式な聴取で扱います。今は安全確保が優先です」


「安全確保って言うなら、レンを観測対象みたいに見るな」


ミロの声が荒くなる。


「こいつは怪我人だろ」


フィオナが小さく首を振った。


「怪我人として扱います」


その声は、イリスよりも柔らかかった。


「ただ、アルデア君には優先確認が必要です。迷宮外へ出た後も、反応が継続している可能性があります」


レンは自分の右手を見た。


青白い輪は見えない。


だが、胸の奥の水音はまだ消えていない。


セリアが静かに口を開く。


「帰還前に、こちらから個人ごとの状態情報は送っていません」


イリスの視線がセリアへ向く。


「実習登録情報から確認しています」


「それなら、優先順位は負傷の重さで決めるはずです。アルデアを最初に見る根拠は何ですか」


セリアの声は冷静だった。


だが、いつもより少しだけ鋭い。


イリスは即答しなかった。


その沈黙の間に、エレナがフィオナへ短く指示を出す。


「グランセル、外傷確認を先に」


「はい」


フィオナは隔離線の内側へ入ろうとした。


その直前、イリスが言う。


「アルデア君の右手から確認してください」


ミロが即座に反応する。


「なんでレンだけ右手指定なんだよ」


フィオナは少し困ったようにミロを見る。


「異常反応が出やすい部位だからです」


「なんで知ってる」


入口広間の空気がまた冷えた。


エレナが一歩前に出る。


「エルウィン。今は治療を優先しろ」


「治療なら分かります。でも今のは治療の言い方じゃない」


ミロは引かなかった。


「最初から分かってたみたいな言い方だ」


ガイウスもイリスを見ている。


「レインハルト教官。協約監察官がこの場にいる理由も説明してください」


エレナの眉がわずかに動いた。


「今は全員の安全確認が先だ」


「説明を後回しにするのは、理解しました」


ガイウスは静かに言った。


「ですが、後で必ず聞きます」


その言い方は、学生の反抗ではなかった。


法と手続きの側から、相手の逃げ道を塞ぐ言い方だった。


イリスの目が、わずかに細くなる。


「頼もしいことです、ヴェルグ君」


丁寧な声だった。


だが、褒め言葉には聞こえなかった。


セリアはその間、記録板を握っていた。


レンは気づいた。


セリアの指が、記録板の縁を強く押さえている。


旧観測槽。 循環核。 対象未登録。 適合反応。 被験体記録――欠落。


それを学院側へ渡していいのか。


いや、そもそも学院側は、それを知っているのではないか。


「ノクティスさん」


イリスが言った。


「記録板と記録ルーンの提出を」


セリアは顔を上げる。


「記録ルーンは破損しています。記録板も一部破損。完全な提出には復旧作業が必要です」


嘘ではない。


だが、全部ではない。


イリスは静かに見つめる。


「断片記録は残っていますか」


「判読可能な形ではありません」


また、嘘ではなかった。


レンはセリアを見る。


セリアは視線を返さなかった。


ガイウスもそのやり取りを見ていたが、何も言わない。


エレナも、すぐには口を挟まなかった。


フィオナがレンの前に膝をつく。


「アルデア君。右手を見せてもらえる?」


レンは無意識に手を握った。


右手。


隔壁の前で握ろうとして、左手が先に反応した。


その記憶がよみがえる。


ミロがすぐに言う。


「今ここでやるのか」


フィオナはミロへ目を向ける。


「簡易確認だけ。痛みが出たらすぐ止める」


「本人が嫌がったら?」


フィオナはレンを見た。


「拒否はできる。でも、異常接触後の身体確認をしないと、隔離解除ができなくなる」


丁寧な声だった。


イリスよりはずっと柔らかい。


けれど、選択肢はほとんどなかった。


レンは右手を差し出した。


「……大丈夫」


ミロが不満そうに息を吐く。


「大丈夫じゃなさそうなやつの大丈夫、今日だけで何回聞いたと思ってんだよ」


「数えてない」


「俺は数えたくもない」


フィオナが小さな観測ルーンを展開した。


白い円。 その内側に、水系の治癒ルーンと、植物の葉脈に似た生命観測線が重なっている。


普通の医療ルーンに見える。


だが、その円の端に、細い青白い輪が一瞬だけ混じった。


フィオナの表情が変わる。


レンの胸の奥の水音が強くなった。


一度。 二度。 三度。


観測ルーンが、青白く変色した。


周囲の職員がざわつく。


イリスの目が鋭くなる。


エレナが低く言った。


「反応継続か」


レンはその言葉を聞き逃さなかった。


継続。


迷宮外でも。


フィオナは観測ルーンをすぐに閉じた。


「接触反応が残っています」


ガイウスが問う。


「迷宮外でも続いている、という意味ですか」


フィオナは答えづらそうに一瞬だけ目を伏せた。


その沈黙が答えだった。


セリアが低く言う。


「拒絶反応は」


イリスの視線がセリアへ向く。


「あなたは何を見たのですか」


「質問に質問で返さないでください」


セリアの声は冷たい。


「アルデアに拒絶反応は出ていますか」


フィオナはイリスとエレナを一瞬見た。


エレナが短く頷く。


フィオナは答える。


「現時点では、明確な拒絶反応は確認できません」


ミロが顔を歪める。


「それ、さっきと同じじゃないか」


「さっき?」


イリスの声が、わずかに鋭くなる。


セリアは沈黙した。


ミロも、しまったという顔をした。


ガイウスが間に入る。


「迷宮内で、同様の判断をせざるを得ない状況がありました。詳細は正式報告で行います」


「正式報告はこちらで聴取します」


イリスが言う。


「ただし、アルデア君は先に医療観測室へ移します。他の三名は別室で待機してください」


「なんでレンだけ別なんだよ」


ミロが反射的に言った。


イリスは静かに答える。


「彼には、循環系異常との接触反応が確認されています」


入口広間の空気が凍った。


循環系異常。


その言葉を、学院側が当然のように口にした。


ガイウスの目が細くなる。


「その名称を、あなた方は把握している」


イリスは答えなかった。


セリアの指が、記録板の縁を強く押さえた。


ミロはレンの腕を離さなかった。


レンは自分の右手を見た。


青白い輪は見えない。


指先には何もない。


だが、胸の奥では、まだ水音がしている。


レン。


名前が返ってくる。


レンは、自分の名前を思い浮かべた。


レン・アルデア。


声には出せる。 意味も分かる。


だが、それが本当に自分だけのものなのかは、もう分からなかった。


「アルデア君は先に医療観測室へ移します。他の三名は別室で待機してください」


イリス・ヴァインの声は、入口広間に静かに響いた。


丁寧だった。 乱暴ではない。


だが、その言葉は命令だった。


ミロ・エルウィンの手が、レンの腕をさらに強く掴む。


「待てよ」


ミロの声が低くなる。


「なんで分けるんだよ。身体確認ならここで全員やればいいだろ」


「アルデア君には、通常の外傷確認とは別の処置が必要です」


イリスは淡々と答えた。


「他の三名には、迷宮内での行動記録を確認します」


「それ、つまりレンだけ別件扱いってことだろ」


「異常接触者としての確認が必要です」


「だから、その言い方が気に入らないんだよ」


ミロが一歩前に出ようとした。


その腕を、ガイウス・ヴェルグが横から掴んだ。


「エルウィン、止まれ」


「止まれるかよ」


「止まれ」


ガイウスの声が強くなる。


ミロは振り返る。


「お前は納得できるのかよ」


「できない」


ガイウスは即答した。


「だが、ここで力づくで拒めば、我々は全員、規則違反者として扱われる。そうなれば、アルデアを守る手段が減る」


ミロは歯を食いしばった。


「……そういう正論、今めちゃくちゃ腹立つな」


「俺もだ」


その返しに、ミロは一瞬だけ黙った。


ガイウスの表情は変わらなかった。 だが、その声にはいつもの硬さとは違うものが混じっていた。


苛立ち。


そして、警戒。


エレナ・レインハルトが隔離線の外から歩み寄る。


「エルウィン。ヴェルグの言う通りだ。今ここで暴れれば、アルデアを助けるどころか、君たち全員が拘束対象になる」


「教官は知ってたんですか」


ミロがエレナを見る。


「この迷宮の奥に、あんな場所があることを」


入口広間の空気が、また冷える。


エレナはすぐには答えなかった。


その沈黙を、ミロは見逃さなかった。


「……知ってたんだな」


「全てを知っていたわけではない」


エレナは低く答えた。


「だが、今ここで話せる内容ではない」


「便利ですね、その言い方」


ミロの声は刺々しかった。


エレナは反論しなかった。


その代わり、レンを見た。


「アルデア。立てるか」


レンは頷こうとして、少し遅れた。


自分が頷いたのか、頷こうとしただけなのか、一瞬だけ分からなかった。


「……立てます」


「なら、フィオナの確認を受けろ。彼女は君を傷つけるために来たわけではない」


レンはフィオナ・グランセルを見た。


フィオナは隔離線の内側で、レンに合わせて膝をついていた。 彼女の表情には、イリスのような冷たさはない。


ただ、好奇心を完全には隠せていなかった。


怖がっている。 心配している。 でも、見たいとも思っている。


レンには、そう見えた。


「……分かりました」


レンがそう言うと、ミロの手がわずかに震えた。


「レン」


「大丈夫じゃない。でも行くしかない」


ミロは言葉を詰まらせた。


レンは小さく息を吸う。


胸の奥では、まだ水音がしている。


沈む。 戻る。 また沈む。


それでも、今はミロの手の温度が分かった。 ガイウスの視線も分かった。 セリアの沈黙も分かった。


まだ、こちら側にいる。


レンはそう思いたかった。


セリア・ノクティスが、静かに一歩近づいた。


「アルデア」


「何」


「聞かれたことに、すべて答える必要はない」


レンは少し驚いてセリアを見る。


セリアは、いつものように冷静だった。 だが、その声はいつもより低い。


「分からないことは分からないと言えばいい。覚えていないことは覚えていないと言えばいい。推測を事実として渡さないで」


イリスの視線が、わずかにセリアへ向いた。


セリアは気づいていたが、構わず続けた。


「それから、名前を呼ばれても、すぐに返事をしないで」


レンの胸が少しだけ冷える。


「迷宮の中と同じ?」


「ええ」


セリアは短く頷く。


「ここが迷宮の外でも、反応が続いているなら同じ」


ミロが低く言う。


「つまり、まだ終わってないってことか」


セリアは否定しなかった。


レンは右手を見た。


青白い輪は見えない。


だが、自分の名前を思い浮かべると、胸の奥の水音がわずかに近づく。


レン・アルデア。


本当に、自分だけの名前なのか。


その疑問が浮かんだ瞬間、レンは無理やり息を吐いた。


「分かった」


セリアは頷いた。


そして、ほんの少しだけ声を落とす。


「記録は、全部は渡していない」


レンは目を見開いた。


セリアはそれ以上言わなかった。


だが、それだけで十分だった。


旧観測槽。 循環核。 対象未登録。 適合反応。 被験体記録――欠落。


あの断片は、完全には学院側に渡っていない。


ミロもそれに気づいたのか、セリアを見た。


「お前、意外と悪いことするな」


「破損記録を即時提出できないだけよ」


「そういうとこ、嫌いじゃない」


セリアは返事をしなかった。


ガイウスが一歩近づく。


「アルデア」


レンは顔を上げる。


「俺たちは別室で聴取を受ける。そこで、こちらが見たことを整理する」


「うん」


「お前も、可能な限り覚えておけ。だが、自分の状態を優先しろ」


ガイウスは少しだけ間を置いた。


「そして、何かを強要されたら拒否しろ。お前には、その権利がある」


その言葉に、イリスが薄く目を細める。


「ヴェルグ君。必要な検査を妨げる発言は控えてください」


「権利確認です」


ガイウスは淡々と返した。


「検査を妨げてはいません」


エレナが小さく息を吐いた。


「相変わらず面倒な生徒だな、ヴェルグ」


「教官の指導の賜物です」


「そういうところだけ覚えなくていい」


そのやり取りは短かった。


だが、ほんの一瞬だけ、入口広間の空気が人間らしく戻った。


すぐに、イリスがそれを切る。


「時間です」


フィオナがレンへ手を差し出した。


「立てる? 支えるよ」


レンはその手を見た。


白い医療用手袋。 治療するための手。


そのはずだった。


けれど、その手の向こうに、観測ルーンの青白い輪が一瞬だけ重なって見えた。


レンはフィオナの手を取らず、自分で立ち上がった。


足元が少し揺れる。


ミロがすぐに支えようとする。


だが、隔離線の外からイリスが言った。


「エルウィン君。そこまでです」


ミロの手が止まる。


レンは振り返った。


「ミロ」


ミロの顔が少し歪む。


「何だよ」


「呼んでくれて、助かった」


ミロは一瞬だけ目を見開いた。


それから、わざと乱暴に笑った。


「なら、次も呼んでやるよ。嫌になるくらいな」


「水袋はやめて」


「それは考えとく」


「考えなくていい」


ミロの笑いは、最後まで続かなかった。


フィオナがレンの横に立つ。


「歩ける?」


「はい」


レンはそう答えた。


フィオナは無理に触れようとはしなかった。 ただ、いつでも支えられる距離で隣に立つ。


その点だけは、少し安心できた。


エレナがガイウス、セリア、ミロを見る。


「三人は別室だ。君たちの証言は、私も同席して確認する」


「イリスさんもですか」


セリアが問う。


イリスは微笑む。


「もちろん。協約監察官として、事実確認に立ち会います」


「なら、私たちにも記録の写しを請求する権利がありますね」


セリアが言った。


イリスの微笑が、ほんの少しだけ固まった。


ガイウスが続ける。


「正式な聴取である以上、発言記録の保存と閲覧請求は可能なはずです」


ミロが二人を見て、少しだけ息を吐く。


「お前ら、こういう時ほんと頼りになるな」


「黙って聞け」


ガイウスが言う。


「今は一言でも多く残す」


エレナは三人を見て、短く言った。


「その判断は間違っていない」


イリスは何も言わなかった。


レンは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ胸の奥が軽くなった。


一人で連れて行かれる。 それは変わらない。


でも、完全に切り離されるわけではない。


ミロは呼ぶ。 セリアは記録を残す。 ガイウスは権利と手順で道を作る。


それぞれのやり方で、こちら側につなぎ止めようとしている。


レンは、そう思った。


だから、まだ大丈夫だと思いたかった。


フィオナに促され、レンは隔離線の外へ出る。


白い線を越えた瞬間、胸の奥の水音が一度だけ強くなった。


レン。


どこからともなく、名前が返ってくる。


レンは足を止めかけた。


だが、すぐにミロの声が飛ぶ。


「レン!」


今度は振り返った。


ミロが隔離線の内側からこちらを見ている。


「返事すんなって言われたやつには返すなよ」


レンは、ほんの少しだけ笑った。


「分かってる」


声に出して答えたのは、ミロに対してだった。


胸の奥の呼び声には、返事をしなかった。


フィオナが少しだけ驚いたようにレンを見る。


「行こうか」


「はい」


レンは医療観測室へ向かって歩き出した。


廊下の先には、白い扉がある。


その扉の中央には、学院医療部の治癒ルーンが刻まれていた。


だがレンには、その円形のルーンが一瞬だけ、隔壁の奥で見た青白い輪に重なって見えた。


閉じた水面。 顔のない影。 戻ってきたという声。


レンは目を伏せる。


名前は、まだ言える。


レン・アルデア。


けれど、その名前がどこへ戻ろうとしているのかは、分からなかった。


医療観測室へ向かう廊下は、白かった。


折層迷宮の石壁とは違う。 未登録区画の黒灰色の壁とも違う。


磨かれた白い床。 清潔な壁。 等間隔に並ぶ医療ルーン。 空気には、薬草と消毒薬に似た匂いが混じっている。


本来なら、安心できる場所のはずだった。


だが、レンには、その白さが妙に冷たく見えた。


「気分は悪くない?」


隣を歩くフィオナが、柔らかい声で聞いた。


「顔色が悪い」


「……少しだけ」


「うん。無理に平気って言わなくていいよ」


彼女の声は、イリスとは違っていた。


冷たくはない。 相手を押さえつけるような感じもない。


けれど、完全に安心できるわけでもなかった。


フィオナの視線は優しい。 だが、その奥に研究者の好奇心がある。


レンの状態を心配している。 同時に、何が起きているのか知りたがっている。


その両方が見えてしまう。


「……水音がします」


レンは言った。


フィオナの足が、ほんの少しだけ遅くなった。


「今も?」


「はい」


「耳で聞こえる?」


レンは首を横に振った。


「胸の奥で」


フィオナはすぐに否定しなかった。 笑いもしなかった。


ただ、表情だけが少し真剣になる。


「分かった。医療記録には残す。でも、必要以上には広げない」


「医療記録、ですか」


「君を治療するためのもの」


フィオナはそう言った。


嘘ではないのだろう。


けれど、前に見た言葉が、レンの中に戻ってくる。


被験体記録――欠落。


医療記録。 観測記録。 被験体記録。


それらの違いが、急に分からなくなる。


白い扉の前で、フィオナが足を止めた。


扉の中央には、学院医療部の治癒ルーンが刻まれている。 水と草の線が重なった、柔らかい円形の紋様。


本来なら、癒やすための形。


だがレンには、その円が一瞬だけ、隔壁の奥の青白い輪に見えた。


閉じた水面。


戻る音。


顔のない影。


レンは息を呑む。


「入れる?」


フィオナが問う。


レンは一度だけ目を閉じた。


レン・アルデア。


自分の名前を思い浮かべる。


まだ、言える。


「入れます」


扉が開いた。


医療観測室は広くはなかった。


白い壁。 中央に置かれた診察台。 壁際に並ぶ観測器具。 床には淡い水色の医療ルーンが刻まれている。


部屋の奥には、透明な記録板が浮かんでいた。


そこに、まだ何も書かれていない。


何も書かれていないはずなのに、レンにはその空白が不気味だった。


これから自分のことが記録される。


そう思った瞬間、指先が震えた。


「座って」


フィオナが診察台を示す。


レンは言われた通りに座った。


診察台は冷たい。 迷宮の床ほどではない。 だが、その冷たさが背中まで上がってくるようだった。


フィオナは距離を取って、まず手を見せた。


「今からするのは、身体確認と元素反応の確認。痛みが出るようなことはしない。嫌なら止められる」


「止めたら、隔離は解除されませんよね」


フィオナは一瞬、言葉を止めた。


「……そうだね」


正直だった。


レンは少しだけ息を吐いた。


「なら、お願いします」


「冷静なんだね」


「冷静じゃないです」


レンは自分の右手を見る。


「ただ、どうすればいいか分からないだけです」


フィオナは何も言わなかった。


代わりに、白い観測ルーンを展開する。


水系人工元素の治癒線。 草系の生命観測線。 それらが淡く重なり、レンの右手の上に浮かぶ。


白い光が指先をなぞる。


最初は何も起きなかった。


だが、ルーンが手首へ近づいた瞬間、胸の奥の水音が一度だけ強くなる。


沈む。 戻る。


観測ルーンの白い円に、細い青白い線が混じった。


フィオナの目が細くなる。


「反応、継続」


その言葉が記録板に浮かぶ。


反応継続。


レンはその文字を見た。


文字はすぐに消えない。


迷宮の中とは違う。


記録されてしまう。


そう思った瞬間、妙な恐怖が来た。


迷宮では記録が戻されていた。 だが、ここでは残る。


残ってしまう。


「記録しないでください」


レンは思わず言った。


フィオナが手を止める。


「どうして?」


「分からない」


レンは唇を噛む。


「でも、残るのが怖い」


フィオナの表情が少し変わった。


研究者の顔ではなく、医療者の顔に近くなる。


「分かった。必要最低限にする」


「それ、できるんですか」


「できる範囲では」


フィオナは記録板を操作し、表示項目の一部を閉じた。


完全に記録を止めたわけではない。 だが、細かい波形や反応履歴は非表示になる。


「詳細記録は一時保留にした。最低限の安全確認だけ残す」


レンは小さく頷いた。


「ありがとうございます」


「ただし、後で提出を求められるかもしれない」


「イリスさんに?」


フィオナは少しだけ困ったように笑った。


「鋭いね」


「鋭くなりたくないです」


その言葉は、自分でも思ったより正直だった。


フィオナはしばらく黙った。


それから、静かに言う。


「イリス・ヴァインは協約監察官。学院の人間であると同時に、学院だけの人間じゃない」


「協約?」


「七文明間の学院運営と元素災害管理に関する協約。彼女は、その監察側」


レンはイリスの冷たい目を思い出した。


「だから、あんなに……」


「冷たい?」


フィオナが聞く。


レンは少し迷ってから頷いた。


「はい」


「彼女は冷たいというより、凍らせているんだと思う。感情も、判断も、記録も」


レンは答えなかった。


ハルシア封蔵領域。 氷の文明。 封じ、保存し、記録する場所。


そこから来た協約監察官。


そして、自分の中でまだ巡っている《循環》。


保存する者と、巡らせるもの。


相性が悪いのかもしれない。


そう思った。


「アルデア君」


フィオナが言う。


「次に、名前確認をするね」


レンの背中が強張る。


まただ。


名前。


自分と他人を区別するためのもの。 そして、隔壁の向こうから返ってきたもの。


フィオナはそれに気づいたのか、少し声を柔らかくした。


「嫌なら、声に出さなくてもいい。目の前の文字を読めるかだけでもいい」


透明な記録板に、文字が浮かぶ。


レン・アルデア。


レンはそれを見た。


見慣れた名前。


何度も書いた名前。


だが今は、その文字が少し遠い。


自分の名前なのに、一拍遅れて意味が届く。


「読めます」


「声に出せる?」


レンは喉を鳴らした。


「レン・アルデア」


声には出せた。


その瞬間、胸の奥で水音が返ってくる。


レン。


同じ名前。 違う声。


レンは拳を握る。


今度は右手が先に動いた。


そのことに、少しだけ安心した。


フィオナは観測ルーンを見た。


「音は?」


「聞こえました」


「どんな」


「俺の名前が、戻ってくるみたいに」


フィオナの指が止まった。


「戻ってくる」


「はい」


記録板に、その言葉が浮かびかける。


戻ってくる。


レンは思わずそれを見た。


文字が残る。


残ってしまう。


だが、フィオナはその文字を一度消した。


「今のは、詳細記録に残さない」


レンは驚いて顔を上げた。


「いいんですか」


「本当は、よくない」


フィオナは正直に言った。


「でも、今すぐ全部記録に残すと、君が余計に追い詰められる」


その声には、研究者の好奇心より、医療者としての判断があった。


レンは初めて、少しだけフィオナを信用してもいいのかもしれないと思った。


その時、部屋の扉の外で足音がした。


規則正しい足音。


迷いのない歩幅。


フィオナの表情が硬くなる。


扉が開いた。


入ってきたのは、イリス・ヴァインだった。


「グランセルさん。確認状況は」


フィオナは立ち上がる。


「簡易確認中です。外傷は今のところ軽微。元素反応は継続。ただし、詳細観測はまだ――」


「まだ?」


イリスの視線が記録板へ向く。


記録板には、最低限の情報しか残っていない。


反応継続。 外傷軽微。 意識明瞭。 名前応答可能。


イリスは数秒それを見つめた。


「詳細記録が不足しています」


「本人の負荷が大きいので、一時保留にしています」


フィオナの声は柔らかいままだった。


だが、引いてはいなかった。


イリスはフィオナを見る。


「協約監察上、循環系異常との接触反応は詳細記録対象です」


「医療判断上、今は刺激を減らすべきです」


二人の間に、静かな緊張が走った。


レンは診察台に座ったまま、息を詰めていた。


イリスの視線が、レンへ向く。


「アルデア君」


名前を呼ばれた。


冷たい声。


制度の中で呼ばれる名前。


レンは返事をしそうになった。


だが、セリアの言葉を思い出す。


名前を呼ばれても、すぐに返事をしないで。


レンは一拍置いた。


「……はい」


イリスの目がわずかに細くなる。


遅れに気づいたのだろう。


「あなたは、迷宮内で何を見ましたか」


質問は静かだった。


だが、刃のようにまっすぐだった。


レンの胸の奥で、水音が近づく。


閉じた水面。 顔のない影。 戻ってきたという声。


被験体記録――欠落。


言ってはいけない。


そう思った。


なぜかは分からない。


だが、今ここで全部を話したら、何かが戻れなくなる気がした。


レンはゆっくり口を開いた。


「分かりません」


イリスは表情を変えない。


「分からない?」


「見た気はします。でも、それが何だったのか分かりません」


嘘ではない。


本当に、分からない。


イリスは少しだけ間を置いた。


「では、何を聞きましたか」


レンの喉が詰まる。


戻ってきた。


あの声が、胸の奥から返ってくる。


レン。


自分の名前が、また遠くなる。


「アルデア君」


イリスがもう一度呼ぶ。


その声に、水音が重なった。


レン。


制度の声。 迷宮の声。 自分の名前。


三つが重なりかける。


その時、フィオナが間に入った。


「イリスさん」


声は柔らかい。


だが、はっきりしていた。


「今の質問は刺激が強すぎます」


「必要な確認です」


「今は医療観測中です。聴取ではありません」


イリスはフィオナを見た。


「あなたの判断ですか」


「はい」


フィオナは答えた。


「医療判断です」


静かな沈黙が落ちる。


やがて、イリスは一歩だけ引いた。


「分かりました。では、正式聴取で確認します」


彼女はレンを見る。


「アルデア君。あなたの反応は、今回の異常の重要な記録です。曖昧なままにしておくことはできません」


レンは答えなかった。


答えられなかった。


イリスは部屋を出ていく。


扉が閉じる。


その瞬間、レンはようやく息を吐いた。


フィオナも小さく息を吐いた。


「……助けてくれたんですか」


レンが聞く。


フィオナは少し困ったように笑った。


「医療判断をしただけ」


「それ、みんな言い方が似てますね」


「学院の大人は、言い訳が上手いから」


その言葉に、レンは少しだけ目を見開いた。


フィオナは自分で言ってから、苦笑する。


「今のは内緒」


「記録しません」


「助かる」


その短いやり取りで、ほんの少しだけ部屋の空気が緩んだ。


だが、レンの胸の奥では、まだ水音がしている。


迷宮からは出た。 医療観測室にいる。 名前も言える。


それでも、何かが戻り続けている。


フィオナは観測ルーンを閉じた。


「今日はここまでにする。詳しい検査は、君の状態が落ち着いてから」


「帰れますか」


レンは聞いた。


フィオナはすぐには答えなかった。


その沈黙で、答えは分かった。


「少なくとも、今夜は観測室に近い待機室で休んでもらうと思う」


「隔離ですか」


「医療待機」


「言い方が違うだけでは」


フィオナは苦笑した。


「そうかもしれない」


レンは天井を見た。


白い天井。 清潔な光。 安全なはずの部屋。


なのに、そこに閉じ込められることが、迷宮の奥に戻ることと少し似ている気がした。


「フィオナさん」


「何?」


「俺は、戻ってきたんでしょうか」


フィオナは答えなかった。


簡単に「戻ってきた」とは言わなかった。


それが、少しだけ誠実に思えた。


「少なくとも」


彼女はゆっくり言った。


「今、ここで私と話している」


レンは目を閉じた。


それは、答えになっていない。


でも、嘘でもなかった。


胸の奥で、水音がする。


レン。


名前が返ってくる。


レンは、その呼び声に返事をしない。


代わりに、自分で自分の名前を思い浮かべた。


レン・アルデア。


今度は、すぐに意味が届いた。


だが、その直後。


どこか遠くで、同じ名前がもう一度、戻ってきた。

お読みいただきありがとうございます。


第5話では、レンたちの帰還と、学院側の対応を描きました。

迷宮からは戻れたものの、レンの中ではまだ何かが続いています。


次話では、迷宮内で起きた出来事の聴取と、学院側の動きを描いていく予定です。


引き続きよろしくお願いします。

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