第2話 折り畳まれた道
第2話です。
折層迷宮での実習が始まります。
地下訓練区画の空気は、地上の演習場よりも冷たかった。
石の壁に刻まれた構造ルーンが、淡い灰色の光を放っている。
その光は炎のように揺れず、水のように流れず、決められた線の上に静かに留まっていた。
オルデン法制国らしい光だ、とレン・アルデアは思った。
揺れない。
崩れない。
決められた形を守る。
それは、レンの水とは正反対のものに見えた。
ヴィンクルム国際元素学院、地下訓練区画。
その入口前には、実習に参加する学生たちが班ごとに集められている。
今日の実習場所は、第三構造迷宮。
通称、折層迷宮。
昨日、エレナ・レインハルトが告げた言葉が、まだレンの耳に残っていた。
迷宮は成績表を読まない。
今日の実習は、標的を倒すだけではない。
索敵、退路確保、負傷者搬送。
水量不足の自分にも、何かできることがあるかもしれない。
そう思おうとしても、胸の奥には別の言葉が残っていた。
善意ではなく遂行能力。
ガイウス・ヴェルグの声だった。
「顔、硬いぞ」
横からミロ・エルウィンが覗き込んできた。
「地下だからって、自分まで岩になる必要はないだろ」
「……緊張してるだけだ」
「知ってる。お前、緊張すると返事が真面目になるから分かりやすい」
ミロは軽く笑い、肩にかけた種子袋の位置を直した。
腰には細い草編みの紐を何本も巻いている。
エイル自由航域の学生らしい、どこか旅装に近い装いだった。
「それ、何に使うんだ?」
「道しるべ。あと簡易ロープ。あと、逃げる時の気休め」
「最後の用途が一番不安なんだけど」
「安心しろ。逃げ道を探すのは得意だ。逃げるかどうかは別だけどな」
ミロがそう言った時、入口側のざわめきが少し引いた。
ガイウスが来た。
学院指定の実技服に、規律委員を示す記章。
背筋はまっすぐで、地下区画の薄暗さの中でも姿勢の乱れが目立たない。
その後ろから、セリア・ノクティスも歩いてくる。
銀に近い淡い髪を後ろでまとめ、手元には薄い記録ルーン。
その表情は昨日と同じく静かで、実習前の緊張も浮かんでいない。
セリアはレンを見ると、一度だけ視線を止めた。
何かを言うわけではない。
ただ、観測するような目だった。
レンは少しだけ指先を握る。
昨日、彼女に言われた言葉を思い出した。
不自然。
低評価よりも、ずっと奇妙な重さを持った言葉。
「班員は揃ったな」
ガイウスが言った。
「今回の実習班は四名。俺が班長を務める」
ミロが小さく肩をすくめる。
「異論は?」
「言っても通らなそうだから、なし」
「なら聞け」
ガイウスは全員を見た。
「俺が前衛と指揮を担当する。ノクティスは観測と構造変化の確認。エルウィンは索敵、退路確認、負傷者搬送の補助」
そこで、ガイウスの視線がレンに向く。
「アルデアは後方補助だ」
予想していた役割だった。
それでも、正面から言われると胸の奥がわずかに沈む。
「水を使った冷却、洗浄、簡易処置。必要なら視界確保と足場確認。前に出る必要はない」
ガイウスの声は昨日と同じく硬かった。
「無理に役割を広げるな。迷宮で一番危険なのは、できることとできないことを取り違えることだ」
レンは少しだけ息を吸った。
「……分かった」
「迷ったら報告しろ。判断を一人で抱えるな」
その言葉は、少しだけ助言に近かった。
けれど、優しさではない。
ガイウスは、班の安全のために必要なことを言っているだけだ。
それが分かるからこそ、レンは頷いた。
「了解」
セリアが観測用の記録ルーンを開く。
「実習用の記録板、全員同期済み。帰還符の反応も正常」
「帰還符って、破ったら入口に戻るやつだよな?」
ミロが確認する。
セリアは淡々と頷いた。
「緊急時の強制帰還用。評価は下がるけれど、生命維持が優先される」
「点数より命、ね」
レンは腰に下げた帰還符に触れた。
薄い石板のような札には、淡い灰色のルーンが刻まれている。
これを割れば、入口へ戻れる。
そう聞いている。
それだけで少し安心できるはずなのに、なぜか指先に残る感触は冷たかった。
「全班、注目」
低い声が地下区画に響いた。
エレナ・レインハルトが、入口前の高い段差に立っていた。
「これより、第三構造迷宮での総合実習を開始する」
学生たちの話し声が消える。
「目的は、指定された負傷者人形の発見、応急処置、安全区画への搬送。討伐実習ではない。敵性人形を発見しても、無意味な交戦は避けろ」
レンはその言葉に少しだけ救われた。
標的を倒すだけではない。
昨日と同じ言葉が、別の形で繰り返される。
「迷宮内では班行動を崩すな。単独行動は禁止。帰還符は最後の手段だ。評価は下がるが、命より重い点数はない」
エレナはそこで、一拍置いた。
「そして、迷宮を信用しすぎるな」
地下区画の空気が、わずかに重くなる。
「折層迷宮は訓練施設だ。だが、迷宮である以上、想定外は起きる。最後に命を守るのは、現場での判断だ」
エレナの視線が、一瞬だけレンたちの班に向いた。
「判断を放棄するな」
その言葉は、ガイウスにも、レンにも向けられているように聞こえた。
「以上。各班、順次入場」
重い石扉が、音を立てずに開いた。
扉の向こうには、整いすぎたほど美しい石の通路が続いていた。
床には幾何学模様が刻まれ、壁の構造ルーンは一定の間隔で淡く光っている。
迷宮というより、巨大な機械の内側に近い。
ミロが小さく口笛を吹いた。
「うわ、金かかってるな。偉い人の趣味の悪い別荘みたいだ」
「無駄口を叩くな。構造変化の音を聞き逃す」
「はいはい、城壁班長」
「その呼び方はやめろ」
レンは二人のやり取りを聞きながら、迷宮の入口を見つめた。
石の通路。
灰色のルーン。
揺れない光。
昨日、誰にも観測されないまま逆向きに流れ始めたものを、レンはまだ知らない。
ただ、入口をくぐる直前。
ほんの一瞬だけ、壁の奥から水音のようなものが聞こえた気がした。
「アルデア」
ガイウスの声に、レンは顔を上げる。
「遅れるな」
「……ああ」
レンは小さく頷き、折層迷宮へ足を踏み入れた。
折層迷宮の内部は、外から見た印象よりも静かだった。
石の通路に響くのは、四人分の足音だけ。
壁に刻まれた構造ルーンは、一定の間隔で淡く明滅している。
レンは歩きながら、指先をわずかに開いた。
水を出しているわけではない。
ただ、空気の湿り気を確かめているだけだ。
地下である以上、湿度は高い。
だが、折層迷宮の空気は妙に整いすぎていた。
湿り気も、温度も、風の流れも、一定に保たれている。
自然な地下ではない。
管理された地下だ。
「第一分岐まで、直進四十歩」
先頭を歩くガイウスが言った。
「隊列を確認する。俺が前、ノクティスが中央観測、アルデアはその後ろ。エルウィンは最後尾で退路確認」
「俺が最後尾って、信頼されてるのか疑われてるのか微妙だな」
「両方だ」
「班長、返しが早くなってきたな」
「無駄口を減らせ」
セリアが記録ルーンへ視線を落としたまま、短く告げる。
「第一分岐までの構造反応、正常。通路幅、天井高、ともに記録板の地図と一致」
「敵性反応は」
ガイウスが問う。
「なし。訓練用人形の反応も、まだ範囲外」
「エルウィン」
「風の流れも今のところ普通。まあ、普通すぎて気持ち悪いけどな」
ミロは後方を確認しながら、腰の種子袋から小さな種を一粒取り出した。
指先で弾くと、種は通路の隅に落ちる。
直後、細い芽が伸び、壁の溝に沿って這うように広がった。
細い根が、通路の角に絡む。
帰り道を示すための、小さな印。
「道しるべか」
レンが言うと、ミロは後ろを振り向かずに片手を上げた。
「正解。迷子防止。あと、いざという時の気休め」
「気休め多いな」
「気休めは大事だぞ。気が休まるからな」
その言い方に、レンは少しだけ息を抜いた。
第一分岐に到着した。
通路は左右に分かれている。
正面には壁。
壁の中央には、幾何学模様の構造ルーンが刻まれていた。
セリアの記録ルーンに、淡い線で地図が浮かぶ。
「指定座標は右方向。負傷者人形の反応も右奥」
「なら右だな」
ミロが言う。
だが、ガイウスはすぐには動かなかった。
「待て。通常ならそうだが、実習課題は索敵と退路確保を含む。最短経路だけを進むな」
彼は右の通路に視線を向けたまま、左手を軽く上げる。
指先に、細い炎が灯った。
火球ではない。
線のような炎だった。
それが床の上を走り、右通路の入口に沿って四角い枠を描く。
炎の枠は、周囲の空気を赤く照らした後、すぐに消えた。
「熱反応、異常なし。通路入口に罠なし」
セリアが続ける。
「構造ルーンの反応も正常。右通路、進行可能」
「エルウィン、左の確認」
「はいよ」
ミロが左通路に種を弾く。
小さな芽が床を滑るように進み、数メートル先で止まった。
「左は短い。たぶん行き止まり。風が返ってきてる」
「アルデア」
突然名前を呼ばれ、レンは顔を上げる。
「左の水分を確認しろ」
「……俺が?」
「後方補助には環境確認も含めたはずだ」
ガイウスの口調は硬い。
だが、命令としては筋が通っている。
レンは頷き、左通路の入口へ近づいた。
水を出す必要はなかった。
石の壁に手をかざす。
ひんやりとした空気。
薄い湿り気。
壁の表面に溜まった水分が、ごくわずかに手のひらへ返ってくる。
レンは目を細めた。
「……奥は完全な行き止まりじゃない」
ミロが眉を上げる。
「お、来たな。水袋センサー」
「その呼び方、定着させるな」
「で、根拠は?」
ガイウスが短く問う。
レンは壁から手を離さず、言葉を探した。
「壁の水分が、奥から戻ってきてる。行き止まりなら空気がそこで止まるはずだけど、これは少し違う。細い抜け道か、空洞があると思う」
「ノクティス」
「確認する」
セリアが記録ルーンを左通路へ向ける。
氷のように薄い光が通路をなぞった。
数秒後、彼女は静かに言う。
「左奥に小型空洞反応。記録板上では閉鎖区画扱いだけれど、通気孔に近い抜けがある」
ミロが口笛を吹いた。
「ほらな。水袋センサー有能」
「偶然でも、使える情報なら使う」
ガイウスは表情を変えずに言った。
褒めたわけではない。
だが、否定もしなかった。
それだけで、レンは少しだけ肩の力が抜ける。
「進行は右。ただし、左の空洞を退避候補として記録する。ノクティス」
「記録済み」
「エルウィン、道しるべを残せ」
「了解」
ミロが左通路の入口に草の印を残す。
レンはもう一度だけ、左奥の湿り気を見た。
水は、流れのない場所では沈む。
流れのある場所では、戻ってくる。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、誰かの役に立った。
四人は右通路へ進む。
しばらく歩くと、迷宮の内部構造が動き始めた。
低い音が、床の下から響く。
石が擦れる音。
歯車にも似た、けれどもっと重い音。
通路の横壁がゆっくりとせり出し、後方の道の幅が狭くなる。
レンは思わず振り返った。
「閉じ込められるのか?」
「違う。訓練用の経路制御だ。進行方向を限定して、課題区画へ誘導している」
セリアも記録ルーンを確認する。
「構造変化、予定範囲内。閉鎖ではなく誘導」
ミロが後ろの壁を見ながら肩をすくめる。
「分かってても、後ろの道が狭くなるのは気分悪いな」
「だから道しるべを残しているんだろう」
「班長、たまに正しいこと言うから困る」
「常に正しい」
やり取りを聞きながら、レンは通路の奥を見た。
そこには、開けた部屋があった。
円形の訓練室。
中央には、人型の訓練人形が倒れている。
片腕に赤い印。
負傷者人形だ。
そして、その周囲に三体の敵性人形が立っていた。
石と木で作られた簡素な人形。
だが、胸部には赤いルーンが灯っている。
訓練用とはいえ、動けば十分に危険だ。
ガイウスが片手を上げた。
全員が止まる。
「課題区画だ」
彼の声が一段低くなる。
「目標は負傷者人形の確保と搬送。敵性人形の撃破は必須ではない」
「とはいえ、邪魔なら止めるしかないだろ?」
ミロが小声で言う。
「だから俺が止める」
ガイウスの指先に、赤い線が灯った。
「ノクティス、敵性人形の起動周期。エルウィン、搬送経路。アルデア、負傷者人形の状態確認に備えろ」
「了解」
セリアが記録ルーンを開き、ミロが種を指に挟む。
レンも頷いた。
「分かった」
心臓が少し早くなる。
標的を倒す実習ではない。
それは分かっている。
けれど、目の前に敵性人形が立つと、体は勝手に強張った。
自分の水では、あれを止められない。
その事実が、喉の奥に引っかかる。
だが、ガイウスは振り返らずに言った。
「アルデア。お前の役割は、あれを倒すことではない。負傷者を見ろ」
その声は冷たい。
だが、迷いはなかった。
「余計なことを考えるな。役割を間違えるな」
レンは息を吸った。
善意ではなく遂行能力。
昨日から胸に残っていた言葉が、今度は少しだけ違う形で響く。
自分ができないことではなく、できることを間違えない。
レンは負傷者人形へ視線を向けた。
「……了解」
次の瞬間、敵性人形の赤いルーンが強く光った。
三体の敵性人形が動いた。
「起動周期、三秒」
セリアが即座に告げる。
「正面二体、右奥一体。右奥の個体だけ反応が遅い」
「分かった」
ガイウスが前に出る。
彼の指先から伸びた炎は、やはり燃え広がらなかった。
細い赤線が床を走り、正面の敵性人形二体の足元を囲む。
次の瞬間、炎の線が格子状に立ち上がった。
敵性人形の動きが止まる。
焼き尽くすのではなく、進行方向だけを封じる炎。
「エルウィン、搬送経路」
「左側、空いてる。けど三歩先に段差」
ミロが床に種を弾いた。
種から伸びた蔓が、段差の縁に絡みつく。
細いが、目印には十分だった。
「転ぶなよ、水袋」
「その呼び方、今やめろ」
レンは言い返しながらも、負傷者人形へ駆け寄った。
人形の片腕には赤い印。
そこが負傷箇所として設定されている。
レンは負傷者人形の腕に手をかざした。
「表面損傷、熱反応なし。関節部に圧迫設定。搬送時に腕を固定した方がいい」
「固定できるか?」
ガイウスが前を向いたまま問う。
「強くは無理だ。でも、動かない程度なら」
レンは薄い水膜を人形の腕に巻きつけた。
水は、本来なら固定には向かない。
だが、流れを細かく分け、腕の周囲を包むように巡らせれば、一時的な支えにはなる。
強く縛るのではない。
動こうとする力を、別の方向へ逃がす。
水膜が腕の周囲で細く回り、負傷者人形の関節を支えた。
「搬送できる」
「エルウィン」
「はいよ」
ミロの蔓が床を走り、負傷者人形の胴体を軽く包む。
レンの水膜が腕を支え、ミロの蔓が胴を支える。
二人で持ち上げると、人形は思ったよりも安定した。
「お、いい感じじゃん」
「水が切れる前に運ぶ」
「了解。班長、道開けて」
「もう開けている」
ガイウスの炎格子が、敵性人形二体を壁際へ押し込んでいた。
正確には、炎で押しているのではない。
動ける方向を一つずつ消している。
セリアが右奥の人形へ手を向ける。
細い氷が床を走り、人形の足元だけを白く固めた。
膝から上は凍らせない。
必要な場所だけを止める氷だった。
「右奥、十五秒停止」
「十分だ」
ガイウスが短く返す。
レンは負傷者人形を支えながら、ミロと共に搬送経路へ進んだ。
段差の手前で、ミロの蔓が足元を示す。
レンは水膜を少しだけ床へ流し、段差の縁を濡らした。
光を受けた水が、段差の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
「見える?」
「見える見える。やっぱり地味に便利だなお前」
「地味を強調するな」
段差を越えたところで、負傷者人形の腕がわずかに揺れた。
レンはすぐに水膜の流れを変える。
揺れを止めるのではなく、揺れが広がらないように逃がす。
腕の赤い印が、一瞬だけ黄色に変わった。
記録板が小さく鳴る。
「搬送状態、良好」
セリアが告げた。
「腕部への負荷、許容範囲内。アルデアの固定が効いている」
レンは思わず顔を上げた。
セリアは記録ルーンから目を離さない。
褒めたつもりはないのだろう。
だが、事実として言われたその一言は、昨日のどんな評価よりも不思議に耳に残った。
その時、ガイウスが声を飛ばした。
「油断するな。正面、再起動」
炎格子の一部が弾けた。
敵性人形の一体が、拘束から抜け出す。
レンとミロは負傷者人形を抱えている。
避けるには遅い。
「伏せろ」
ガイウスの声と同時に、赤い炎の線が視界を横切った。
炎は敵性人形の腕を焼かなかった。
腕の軌道だけを塞ぐように、空間に斜めの線を作る。
人形の腕が炎の線に触れ、動きが逸れる。
木製の拳はレンたちの横を通り過ぎ、床を叩いた。
衝撃で、負傷者人形の腕を支えていた水膜が乱れる。
「っ」
レンは息を詰めた。
水が散る。
固定が崩れる。
このままでは腕部への負荷が増える。
落ち着け。
水量は足りない。
圧力もない。
けれど、流れだけなら。
レンは散りかけた水を無理に戻そうとはしなかった。
こぼれた水を床に沿わせる。
そこから細い流れを作り、もう一度、人形の腕の下へ滑り込ませる。
失った形を取り戻すのではなく、今ある水で別の支えを作る。
水膜が薄く、腕の下に戻った。
記録板の警告音が止まる。
「負荷、再び許容範囲内」
セリアの声が少しだけ低くなった。
「今の再制御……」
「後にしろ」
ガイウスが遮った。
「搬送を優先する」
「了解」
ミロが小声で言う。
「今の、普通に助かったぞ」
「たまたまだ」
「たまたまで毎回助けられたら、それもう実力って言うんだよ」
レンは答えなかった。
答える余裕がなかった。
四人は訓練室の奥にある安全区画へたどり着いた。
白いルーンが刻まれた床の上に負傷者人形を下ろすと、記録板に青い光が走る。
課題達成。
「搬送完了。負傷状態、悪化なし。所要時間、規定内」
セリアが告げる。
ミロが両手を上げた。
「おー、初回にしては悪くないんじゃない?」
「初回で油断するな」
ガイウスが炎を消しながら言う。
「敵性人形の再起動が予定より早かった。理由を確認する」
「予定より?」
レンは顔を上げた。
セリアが記録ルーンを操作する。
「本来、炎格子からの解除までは二十秒。今の再起動は十六秒。誤差にしては少し大きい」
「構造側の補正か?」
「可能性はある」
セリアは淡々と答えたが、目は記録ルーンから離れない。
「ただ、もう一つ気になる」
「何だ」
「座標が一瞬だけ戻った」
ミロの表情から、軽さが少し消える。
「戻ったって?」
「私たちの位置情報が、課題区画に入る直前の座標へ一瞬だけ巻き戻った」
レンは安全区画の床を見る。
白いルーンは正常に光っている。
壁も崩れていない。
敵性人形も停止している。
何もおかしくは見えない。
「記録板の誤差じゃないのか?」
ガイウスが言う。
「一度だけなら誤差。けれど」
セリアは記録ルーンを指でなぞる。
「同じ座標の揺れが、入場後から三回ある」
通路の奥で、低い音がした。
石が動く音。
折層迷宮では、構造変化そのものは珍しくない。
通路が組み替わる。
壁がせり出す。
階段が折り畳まれる。
それは訓練施設として予定された機能だ。
だが、レンはふと耳を澄ませた。
さっきから、音の流れが少しおかしい。
石が動く音は、普通なら奥へ遠ざかる。
けれど今の音は、奥へ行ったあと、またこちらへ戻ってきたように聞こえた。
まるで、音だけが同じ場所を巡っているように。
「レン?」
ミロが声をかける。
「どうした」
「……音が」
「音?」
「石の音が、戻ってきた気がする」
ガイウスが眉をわずかに動かす。
「根拠は」
「分からない。ただ、普通の反響とは違う」
ガイウスは即座に否定しなかった。
「ノクティス」
「確認中」
セリアの記録ルーンに、迷宮の簡易地図が映る。
青い線で現在地が示され、帰還経路が白く浮かび上がる。
その白い線が、一瞬だけぶれた。
レンは見間違いかと思った。
だが、セリアの目が細くなる。
「今、帰還経路が一瞬だけ更新された」
「予定通りか?」
「いいえ」
セリアは顔を上げた。
「帰還経路が、さっき通った分岐を示している」
ミロが乾いた笑いを漏らす。
「それ、普通じゃないよな」
ガイウスはすぐに判断した。
「隊列を維持する。課題は完了した。予定通り帰還ルートへ移動する」
「異常確認は?」
セリアが問う。
「帰還しながら行う。ここで立ち止まる理由はない」
正しい判断だった。
安全区画に留まるより、入口へ戻る方がいい。
異常があるなら、なおさら。
ガイウスは前へ進む。
ミロが退路の草印を確認する。
セリアが記録ルーンを見続ける。
レンは最後に、安全区画の床を見た。
白いルーンの光が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
水面のように。
瞬きをした時には、もう元に戻っていた。
「アルデア」
ガイウスが呼ぶ。
「遅れるな」
「……ああ」
レンはその違和感を言葉にできないまま、三人の後を追った。
背後で、課題達成を示す青い光が、音もなく消えた。
帰還ルートは単純だった。
安全区画を出て、短い階段を上れば、入口区画へ戻る転送門がある。
訓練用迷宮の帰還経路としては、標準的な構造だった。
だが、レンにはその単純さがかえって不気味に感じられた。
通路は静かだった。
敵性人形の足音もない。
壁の構造ルーンも、一定の間隔で淡く光っている。
何も起きていない。
だからこそ、さっき耳に残った石の音が消えなかった。
奥へ行って、戻ってくる音。
まるで、音そのものが同じ場所を巡っているような感覚。
「ノクティス、現在地」
先頭のガイウスが問う。
「安全区画から二十七メートル。記録板上では帰還経路内」
セリアの声は平静だった。
ただ、記録ルーンを見つめる目は鋭い。
「座標の揺れは」
「まだある。周期は一定ではないけれど、帰還経路に入ってから増えている」
「帰還符の反応は?」
「反応はある。帰還符自体は正常」
セリアはそこで、わずかに眉を寄せた。
「ただ、参照している座標が不安定」
ミロが小さく笑った。
「安心感が一気に逃げる言い方だな、それ」
「事実を言っただけ」
「だから怖いんだよな、セリアの事実」
ガイウスが足を止めずに言う。
「無駄口を叩くな。反応に異常が出ているなら、耳を使え」
「はいはい」
ミロは軽く答えたが、次の瞬間には表情を切り替えていた。
腰の種子袋から小さな種を三粒取り出し、歩きながら床へ落とす。
種は床の隙間に入り込み、細い芽を伸ばした。
それぞれが壁際を這い、通路の角へ向かっていく。
「退路印、更新。後ろは今のところ繋がってる」
「今のところ、か」
レンは思わず呟いた。
「迷宮で絶対って言葉は高いんだよ。俺は貧乏性だから使わない」
ミロは軽口を言う。
けれど、声はいつもより少し低かった。
通路の先に、階段が見えた。
記録板の地図通りなら、この階段を上れば入口区画へ近づく。
ガイウスが片手を上げた。
「停止」
四人が止まる。
「ノクティス、階段の構造反応」
「確認中」
セリアが記録ルーンを階段へ向ける。
薄い青白い光が、石段の表面をなぞった。
「異常なし。通行可能」
「エルウィン」
「風の戻りも普通。上は開けてる」
ガイウスは最後に、レンへ視線を向けた。
「アルデア」
レンは頷き、階段の手前にしゃがんだ。
石段の端に指を近づける。
水を出すのではなく、空気に含まれるわずかな湿り気を見る。
冷たい。
だが、ただ冷たいだけではない。
水分が、上から下へ流れていない。
下から上へも流れていない。
同じ段の上で、薄く回っている。
「……変だ」
「何がだ」
ガイウスの声がすぐに返る。
「湿り気が流れてない。上にも下にも抜けてない。階段なのに、空気がそこで回ってる」
「通行不能か」
「分からない。でも、普通じゃない」
セリアが記録ルーンを見たまま言う。
「こちらの観測では異常なし。けれど、座標の揺れは階段付近で強くなっている」
ミロが肩をすくめた。
「つまり、記録板は大丈夫って言ってるけど、水袋センサーは嫌な予感って言ってるわけだ」
「ふざけている場合か」
「ふざけてない。こういう時ほど分かりやすく言った方がいいだろ」
ガイウスは一瞬だけ沈黙した。
それから、短く指示を出す。
「俺が先に上る。三段分の距離を空けろ。ノクティスは記録、エルウィンは退路、アルデアは足元の変化を見ろ」
「了解」
ガイウスが階段に足をかけた。
一段目。
二段目。
三段目。
何も起きない。
レンたちも続く。
石段は硬く、冷たく、普通の階段にしか見えなかった。
だが、五段目に足をかけた瞬間、レンは軽いめまいを覚えた。
視界が揺れたわけではない。
体が傾いたわけでもない。
ただ、ほんの一瞬だけ、足音の順番が逆になった気がした。
上っているはずなのに、下っている音がした。
「止まれ」
レンが声を出すより早く、ガイウスが命じた。
全員が階段上で止まる。
「今のを感じたか」
ガイウスが問う。
ミロが顔をしかめる。
「感じた。気持ち悪い。今、足音が変だった」
セリアは記録ルーンを睨んでいた。
「座標が戻った」
「どこへ」
「階段の入口」
レンは背後を見る。
自分たちは、確かに階段の途中にいる。
五段目まで上ったはずだ。
だが、記録板の地図では、現在地を示す光点が階段の手前に戻っていた。
「表示だけか?」
ガイウスが問う。
「そう判断するには、現象が重なりすぎている」
セリアの声が低い。
「足音の反転。座標の巻き戻り。階段付近の湿度循環。通常の構造変化では説明しづらい」
「なら、いったん戻る」
ガイウスは迷わなかった。
「階段を下りる。隊列を崩すな」
四人は慎重に階段を下りた。
一段。
二段。
三段。
レンは壁に手を添えた。
石の冷たさが指先に伝わる。
その奥を、何か細い流れが通っているような気がした。
水ではない。
でも、水に似ている。
流れようとするもの。
巡ろうとするもの。
レンは思わず指を離した。
「どうした」
ミロが小声で聞く。
「今、壁の中が……」
言いかけた瞬間、階段が終わった。
四人は通路へ戻る。
だが、そこは安全区画の前ではなかった。
レンは息を止めた。
目の前には、左右に分かれた通路。
正面には壁。
壁の中央には、幾何学模様の構造ルーン。
第一分岐だった。
ミロが乾いた声で笑った。
「……なあ。ここ、さっき通らなかったか?」
誰もすぐには答えなかった。
ガイウスは周囲を見回し、即座に姿勢を低くする。
「全員、停止。背中を壁に向けるな。ノクティス、現在地」
セリアの指が記録ルーンの上を走る。
「記録板上では、帰還経路内」
「実際の地形は」
「第一分岐と一致」
「つまり」
ミロが言った。
「地図は帰ってるって言ってるのに、俺たちは戻されてるってこと?」
「違う」
セリアは首を振った。
「地図は更新されている。私たちの位置だけが、通路と一致していない」
レンは左の通路を見た。
そこには、草の印が残っていた。
ミロがさっき退避候補として残した道しるべ。
そして、その近くの石壁に、レンが触れた跡がある。
ほんのわずかな水分の跡。
他の誰かなら気づかない程度の、薄い湿り。
間違いない。
ここは、さっき通った第一分岐だ。
「戻ってきた……」
レンの声は、自分でも驚くほど小さかった。
「通路が変わったわけじゃない。俺たちが、ここに戻ってきた」
ガイウスの表情が険しくなる。
「エルウィン、退路印は」
ミロは左通路の入口にしゃがみ、草の印に触れた。
「俺の印だ。成長具合もさっきと同じ。少なくとも、別の似た場所じゃない」
「ノクティス、帰還符」
セリアが腰の帰還符に手を触れる。
淡い灰色のルーンが光った。
「反応はある。帰還符自体は正常」
そして、彼女は続けた。
「でも、参照している座標が不安定。今使えば入口へ戻る可能性はある。けれど、戻る先が入口として認識されている保証はない」
ミロの顔から、軽口が消えた。
「それ、かなりまずいやつじゃないか」
「かなり、まずい」
セリアは淡々と言った。
淡々としているからこそ、言葉の重みが増す。
ガイウスは深く息を吸った。
「全員、帰還符はまだ使うな。まず状況を確認する」
「班長判断か?」
ミロが問う。
「そうだ」
「了解」
ミロはそれ以上ふざけなかった。
ガイウスはレンを見た。
「アルデア。お前はさっき、この左奥に空洞があると言ったな」
「ああ」
「そこを退避候補にする。移動できるか」
レンは左通路の湿り気を確かめた。
さっきと同じだ。
奥から戻ってくる水分。
完全な行き止まりではない。
だが、今はそれに別のものが混ざっている。
流れが、少しだけ逆だった。
「行けると思う。でも……さっきと違う」
「違うとは」
「湿り気の戻り方が変わってる。奥から戻ってきてるのに、手前からも奥へ流れてる。両方に流れてるみたいな……」
自分で言っていて、意味が分からなかった。
水は高いところから低いところへ流れる。
風があれば、押される方向へ動く。
狭い場所なら、湿り気は溜まる。
だが、今感じているものは違う。
同じ水分が、奥へ行きながら、戻ってきている。
「循環している?」
セリアが小さく言った。
レンはその言葉に、なぜか指先が冷たくなった。
循環。
ただの水の流れではない。
戻ってくる流れ。
巡る流れ。
セリアはすぐに記録ルーンへ視線を落とす。
「今のは比喩。正式な現象名ではない」
「分かってる」
レンはそう答えたが、胸の奥がざわついていた。
ガイウスが前に出る。
「左通路へ移動する。隊列は維持。俺が前、ノクティス、アルデア、エルウィン。敵性反応が出た場合は即時停止」
「了解」
四人は左通路へ向かった。
その時だった。
正面の壁に刻まれた構造ルーンが、わずかに揺らいだ。
レンは足を止める。
硬い線が、滲んでいる。
石に刻まれているはずの溝が、水面のように波打つ。
「ノクティス」
ガイウスの声が低くなる。
「観測している」
セリアの記録ルーンが青白く光る。
だが、次の瞬間、その光が一瞬だけ乱れた。
「記録が……戻った」
「何が戻った」
「今のルーンの揺らぎが、記録されていない」
ミロが壁を見る。
「いや、俺たち見たよな?」
「見た」
レンは答えた。
「でも、記録には残っていない」
セリアの声が、わずかに硬くなる。
ガイウスは炎を灯した。
赤い線が、彼の指先から伸びる。
しかし、その炎の光さえ、壁の前でわずかに曲がって見えた。
「全員、構えろ」
ガイウスが言った。
「これは、通常実習ではない」
その瞬間、折層迷宮の奥から、低い音が響いた。
石が動く音ではない。
水が流れるような音だった。
だが、ここに水路などない。
音は奥へ遠ざかり、すぐに戻ってきた。
同じ音が、同じ間隔で、何度も。
巡っている。
レンは、自分の手が震えていることに気づいた。
怖いからではない。
指先の奥で、何かがその音に合わせて、微かに脈打っていた。
お読みいただきありがとうございます。
次話では、折層迷宮の異常と、レンの中に起き始めた変化を描きます。




