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Eternal Nexus  作者: Alec
第一部「灰炉の落水編」
1/5

第1話 迷宮は成績表を読まない

レン・アルデアの水球は、規定の半分にも届かない大きさで震えていた。


ヴィンクルム国際元素学院、第一演習場。

七文明から集められた学生たちが、人工元素の基礎出力測定を受けている。


炎、水、氷、雷、草、風、岩。

人類が扱えるように整えられた七つの人工元素は、都市を動かし、迷宮を封じ、人の生活を支える文明の基盤だった。


その中で、レンに与えられた適性は水だった。


ヴァルカ灰炉連邦の生まれとしては、皮肉な適性だ。

灰炉連邦では、炎の出力こそが分かりやすい力とされる。炉を動かし、鉄を鍛え、古いものを焼き、新しい形へ変える。


そこに生まれながら、レンは炎を扱えなかった。


それでも、水系として優れていればよかった。

けれど、現実はそう甘くない。


「水量、規定値未満。放出圧、不合格。維持時間、合格下限」


演習場の壁に刻まれた計測ルーンが、淡い青の文字を映し出す。

三つ並んだ判定のうち、二つが赤く光っていた。


レンは息を吐き、手のひらの水球を標的へ放った。


水は真っ直ぐに飛んだ。

軌道だけなら悪くない。

だが、標的に当たった瞬間、薄い膜のように弾けて消えた。


倒れるはずの木製標的は、わずかに揺れただけだった。


まただ、とレンは思った。

失敗したことより、失敗に驚けなくなっている自分の方が嫌だった。


隣の演習区画では、炎系の学生が鉄の標的を赤く染めている。

別の区画では、雷系の学生が反応測定用の光球を次々と撃ち落としていた。

草系の学生が蔓を伸ばし、岩系の学生が防壁を立ち上げる。


どれも分かりやすい力だった。

見ただけで、評価される理由が分かる力。


その中でも、ガイウス・ヴェルグの炎は異質だった。


炎は普通、揺れる。

熱を持ち、形を崩し、周囲へ広がろうとする。

だが、ガイウスの炎は暴れなかった。


赤い線が標的の周囲を走り、格子のように組み上がる。

逃げ道を塞ぐように、熱の線が空間を区切った。

次の瞬間、格子の内側だけが燃え上がり、標的は中心から黒く焼け落ちた。


岩文明オルデン法制国の出身でありながら、炎系人工元素の優等生。

ガイウスの炎は、ただ燃やすための炎ではない。

戦場そのものを構造化する炎だった。


反対側の区画では、セリア・ノクティスが氷系の試験を終えていた。


彼女が指を動かすと、標的の表面だけが薄く凍る。

内部までは凍らせない。余計な場所には触れない。

必要な部分だけを止める、無駄のない氷。


計測ルーンにも、高評価が映し出された。


レンは自分の手のひらを見る。

さっきまで水球を支えていた指先には、まだ冷たい感覚だけが残っていた。


水はある。

制御もできている。

それでも、標的を倒すだけの力にはならない。


「次、アルデア。再測定はなしだ。下がれ」


試験官の声に、レンは小さく頷いた。


「……はい」


演習場の端へ戻る途中、壁の計測結果が視界の端に残った。


水量不足。

放出圧不足。

合格下限。


いつもの結果だった。

そして、いつもの結果であることが、何より重かった。


「アルデア」


背後から声がした。


振り返る前から、誰の声かは分かった。

低く、硬く、言葉の角まで整えられたような声。


ガイウス・ヴェルグが、そこに立っていた。


学院指定の実技服を乱れなく着込み、胸元には規律委員を示す記章が留められている。

先ほど標的を焼いた炎の熱は、もう彼の周囲には残っていなかった。


炎系の学生でありながら、ガイウスは熱を残さない。

燃やす場所と、燃やさない場所を、きっちり分ける。


それが彼らしい、とレンは思った。


「君の制御は悪くない」


ガイウスは淡々と言った。


レンは少しだけ目を瞬かせる。

褒められた、とは思えなかった。

ガイウスが言葉を途中で止める時は、大抵その先に本題がある。


「だが、出力が足りない」


やっぱり、とレンは思った。


「水流の軌道は安定している。維持も最低限はできている。だが標的を倒せない。防壁を破れない。災害現場で圧力が必要になった時、今のままでは足りない」


「……分かってる」


「分かっているだけでは意味がない。現場で動けなければ、理解していないのと同じだ」


ガイウスの声は荒くない。

怒りも、嘲りもない。


だからこそ、言葉は逃げ場なく届いた。


「元素士に求められるのは、善意ではなく遂行能力だ。助けたいと思うだけなら、誰でもできる」


レンは言い返せなかった。


ガイウスの言うことは、いつも正しい。

正しいから、余計に胸の奥へ残る。


「明日の迷宮実習では、無理をするな」


ガイウスは言った。


「君が倒れれば、班全体の判断が遅れる。自分にできる範囲を見誤るな」


その言葉だけを残し、ガイウスは背を向けた。

演習場の床を歩く足音まで、一定の間隔だった。


「相変わらず、言い方が城壁より硬いな、あいつ」


横から、軽い声が割り込んだ。


ミロ・エルウィンが、いつの間にかレンの隣に立っていた。

淡い緑の実技服の袖を少しまくり、肩には小さな種子袋を引っかけている。


風文明エイル自由航域の出身らしく、ミロはどこにいても少しだけ旅人のように見えた。


「聞いてたのか」


「聞こえたんだよ。あいつの言葉、硬いから壁に反響するんだ」


ミロは肩をすくめる。


「まあ、言ってることは間違ってないけどな」


「そこまで言うか」


「嘘ついて慰める趣味はないんで」


レンが苦笑すると、ミロは軽く笑った。


「でもさ、お前の水、迷宮だと地味に助かるタイプだぜ」


「地味に、か」


「そこ大事。派手に助かる奴はだいたい危ない。地味に助かる奴は、何回も助かる」


ミロは指を折って数え始める。


「喉は潤せる。傷は洗える。熱は逃がせる。水音で空洞も探れる。迷宮じゃ、標的を倒すだけが仕事じゃない」


レンは少し黙った。


試験の評価項目には、そんなものはない。

水量、放出圧、維持時間。

数字で測れるものだけが並ぶ。


けれど、ミロはそこにない使い方を言った。


「……慰めにしては、やっぱり地味すぎるだろ」


「だから地味は大事だって。うちの親父も言ってた。旅で一番役に立つのは、英雄じゃなくて水袋と丈夫な靴だってな」


「それ、俺は水袋扱いか?」


「丈夫な靴よりは上だ」


「微妙すぎる」


レンがそう言うと、ミロは声を上げて笑った。


その笑い方は軽い。

けれど、不思議とレンの胸に残った重さを少しだけ削ってくれる。


ガイウスの言葉は正しい。

それは変わらない。


それでも、正しさだけでは見えない場所もあるのかもしれない。


ミロと話している間にも、演習場の試験は続いていた。


炎系区画では、別の学生が出力測定を行っている。

標的の表面が赤く熱を帯び、空気がわずかに揺れた。


「お、次のやつ、けっこう出力あるな」


ミロが横目で見る。


その直後だった。


「熱、残ってるぞ!」


誰かの声が上がった。


試験を終えた炎系の学生が、赤熱した標的から一歩下がる。

そのすぐ近くで、別の学生が足を滑らせた。


反射的に手をついた先は、まだ熱を持った金属床だった。


「っ、熱……!」


小さな悲鳴。

周囲の学生が一瞬ざわつく。


大きな事故ではない。

医療担当を呼べば済む程度の火傷。

試験中の演習場では、珍しいことでもなかった。


けれど、レンは先に動いていた。


「手、見せて」


「え、いや、大丈夫――」


「大丈夫じゃない。呼吸が浅い」


レンは相手の手首を取った。

手のひらの皮膚が赤くなっている。

火傷自体は浅い。だが、痛みで呼吸が詰まり、体の中の流れが強張っていた。


レンは指先に水を集める。


大きな水球ではない。

標的を倒すには役に立たない、薄い水膜。


だが、その薄さが今は必要だった。


「冷やしすぎると痺れる。熱だけ逃がすから、息を止めないで」


レンは水を押し当てなかった。

手のひらの上に、水の膜をそっと滑らせる。


熱を奪いすぎれば、痛みは一瞬引いても、後で感覚が鈍る。

水を強く当てれば、皮膚を刺激する。

だから、熱が逃げようとする方向に合わせる。


指先から手首へ。

手首から腕へ。

こわばった呼吸が、少しずつ戻るように。


水膜が、細い線を描いて流れた。


「……痛み、引いた」


学生が、驚いたように呟く。


「まだ医療棟で診てもらった方がいい。表面だけじゃなくて、熱が残ってるかもしれないから」


「分かった。ありがと、アルデア」


礼を言われて、レンは一瞬だけ戸惑った。


試験では、いつも足りないと言われる。

水量が足りない。

圧力が足りない。

結果が足りない。


けれど、こういう時だけは少しだけ分かる。


痛みがどこから来て、どこへ逃げようとしているのか。

息がどこで詰まり、どこへ戻れば楽になるのか。

水をどこへ流せば、体が無理なく受け入れるのか。


大きな力にはならない。

標的は倒せない。


それでも、小さな流れなら分かる。


「相変わらず、そういうのは上手いよな」


ミロが感心したように言った。


「試験に入らないけど」


「それを言うな」


レンが苦笑した、その時だった。


「あなた」


背後から、冷えた声がした。


振り返ると、セリア・ノクティスが立っていた。

銀に近い淡い髪を、首の後ろでまとめている。

表情は静かで、感情の揺れが読み取りにくい。


彼女の手元には、薄い板状の記録ルーンが浮かんでいた。

ナルヴィア情報都市圏の学生がよく使う、簡易観測用の道具だ。

その表面には、先ほどの水流の軌跡が細く残っている。


「今の制御、自分で理解している?」


レンは一瞬、質問の意味が分からなかった。


「今のって、火傷の処置のことか?」


「処置ではなく、流れの作り方」


セリアは記録ルーンへ視線を落とす。


「出力値は低い。形成量も不足。放出圧も不合格」


「……わざわざ言わなくても分かってる」


「けれど、流路制御の偏差が異常に小さい」


レンは黙った。


ミロが横から首を傾げる。


「つまり?」


「低出力者の反応としては不自然、ということ」


セリアは淡々と言った。

褒めるでも、慰めるでもない。

ただ、測定結果を読み上げるような声だった。


「普通、出力が低い学生は、流路も乱れる。元素の量が少なければ少ないほど、形を保つのは難しくなる。でも、あなたの水は違う。量は足りないのに、流れだけが妙に安定している」


レンは自分の指先を見た。


そこにはもう、水は残っていない。

ただ、さっきまで水が流れていた感覚だけがある。


「俺には、普通に冷やしただけにしか思えない」


「だから、気になるの」


セリアはそこで、初めてレンの顔をまっすぐ見た。


「理解せずにできているなら、それは技術ではなく癖。癖でここまで流路が整うのは、記録上あまり見ない」


「……それ、褒めてるのか?」


「いいえ。不自然だと言っているの」


隣でミロが小さく笑った。


「うわ、言い方」


セリアは気にした様子もなく、記録ルーンを閉じる。


「明日の迷宮実習、あなたと同じ班だったわね」


「ああ、多分」


「なら、今の制御をもう一度見る機会はある」


それだけ言うと、セリアは背を向けた。


レンはしばらく、その背中を見送った。


褒められたわけではない。

むしろ、不自然と言われた。


だが、不思議とガイウスに言われた時ほど胸は重くならなかった。


足りない。

弱い。

使えない。


そう言われることには慣れている。


けれど、不自然と言われたのは初めてだった。


「なあ、レン」


ミロが隣で囁く。


「お前、ついに氷の女王様に目をつけられたな」


「やめろ。不吉すぎる」


「いや、いいことかもしれないぞ。たぶん」


「たぶんって何だよ」


レンはそう返したが、指先に残る感覚は消えなかった。


さっきの水は、いつもの水だったはずだ。

薄く、弱く、試験では評価されない水。


それなのに。


セリアの言葉だけが、頭の奥で静かに残っていた。


不自然。


その言葉は、低評価よりもずっと奇妙な重さを持っていた。


演習場の空気が、不意に締まった。


誰かが声を上げたわけではない。

大きな足音が響いたわけでもない。


ただ、学生たちの視線が自然と入口へ向いた。


エレナ・レインハルトが、演習場に入ってきた。


ヴィンクルム国際元素学院の実習担当教官。

元・元素災害対策官という経歴を持つ彼女の前では、誰も無駄口を叩かない。


それはたぶん、彼女が本当に人を死なせる現場を知っているからだ。


「全員、整列」


短い一言で、演習場の学生たちが動く。


ミロも軽口を止め、レンの隣に並んだ。

セリアはいつの間にか列の前方に戻っている。

ガイウスは一切乱れのない姿勢で立っていた。


エレナは学生たちを一通り見渡した。


その視線は、試験結果を見る目ではなかった。

順位や点数ではなく、疲労、焦り、油断、恐怖。

そういうものをまとめて確認しているように見えた。


「本日の基礎出力測定は終了だ。結果は各自の記録板に送る」


誰かが小さく息を吐く。


エレナは続けた。


「明日は地下訓練区画、第三構造迷宮で実習を行う」


演習場の空気が、わずかに揺れた。


第三構造迷宮。

通称、折層迷宮せっそうめいきゅう


オルデン法制国の構造技術を基に作られた、学院地下の訓練施設だ。

壁も床も通路も、岩系人工元素と構造ルーンによって管理されている。


訓練施設である以上、安全は何重にも管理されている。


「班分けは先ほど掲示した通り。班長はヴェルグ」


「はい」


ガイウスが短く答える。


レンは少しだけ肩に力が入った。


ガイウスが班長。

そして、おそらくセリアも同じ班。

ミロもいるはずだ。


今日の試験で失敗したばかりの身には、あまり軽い実習ではない。


「内容は索敵、退路確保、負傷者搬送を含む総合訓練だ。標的を倒すだけの実習ではない」


エレナの視線が、一瞬だけレンの方を向いた気がした。


気のせいかもしれない。

けれど、レンは息を止めそうになる。


「覚えておけ」


エレナの声が、演習場に低く響く。


「迷宮は成績表を読まない。主席だろうが落第寸前だろうが、判断を誤れば死ぬ」


誰も笑わなかった。


「生きて戻ることを最優先にしろ。点数はその次だ」


その言葉だけで、演習場の熱が少し引いたように感じた。


試験は終わった。

けれど、本番はまだ終わっていない。


レンは自分の手を握った。


標的は倒せない。

防壁も破れない。

強い水は出せない。


それでも、ミロは言った。

迷宮では地味に助かるタイプだと。


エレナも言った。

標的を倒すだけの実習ではないと。


なら、自分にもできることがあるかもしれない。


そう思った瞬間、胸の奥に残っていたガイウスの言葉が、もう一度浮かぶ。


善意ではなく遂行能力。


レンは小さく息を吐いた。


助けたいだけでは足りない。

それは分かっている。


だからこそ、明日、自分に何ができるのかを確かめたかった。


「以上。解散」


エレナの言葉で、学生たちの列が崩れる。


演習場にざわめきが戻った。

明日の実習について話す声。

班分けを確認する声。

折層迷宮の難易度を噂する声。


ミロがレンの肩を軽く叩いた。


「ま、班長がガイウスなら死にはしないだろ。小言では死ぬかもしれないけど」


「それは嫌だな」


「大丈夫だ。死因欄に『正論過多』って書いてもらう」


「やめろ」


レンがそう返すと、ミロは笑って歩き出した。


その後ろで、セリアが一度だけレンの方を見る。


何か言うかと思ったが、彼女は何も言わなかった。

ただ、記録ルーンを指先で閉じ、静かに演習場を出ていく。


ガイウスはすでに班員の確認を始めていた。

明日の実習に向けて、必要な役割を組み直しているのだろう。


誰もが、明日の実習を通常の訓練として受け止めていた。


その夜。


ヴィンクルム国際元素学院、地下訓練区画。


折層迷宮の最奥には、学生が立ち入らない封鎖領域がある。

壁には幾重もの構造ルーンが刻まれ、床には安定化のための岩系回路が走っていた。


固定。

隔離。

封鎖。

維持。


それらはすべて、オルデン法制国が得意とする思想の形だった。


迷宮は、動く。

だが、決められた範囲でしか動かない。

折り畳まれる。

だが、定められた手順でしか折り畳まれない。


少なくとも、記録上はそうだった。


最奥の壁に刻まれた封印ルーンが、一つ、音もなく揺らいだ。


硬い線が、わずかに滲む。

石に刻まれたはずの溝が、水面のように波打つ。


固定されているはずの構造が、ゆっくりと形を失う。


そして。


誰にも観測されないまま、ルーンの線が逆向きに流れ始めた。

お読みいただきありがとうございます。

続きでは、折層迷宮での実習が始まります。

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