4話
入浴や歯磨きを済まし自室へと戻る。
しばらくベッドの上で『ギルゼノ』をやっていると、不意に部屋のドアが開かれた。
「お兄ちゃん」
妹の未来だ。長い黒髪にパジャマを着用している。今しがた入浴を済ましたところなのだろう。
「どうしたの?」
「いや、さっきの話なんだけど。……お兄ちゃん、本当に諦めちゃうの?」
未来が心配そうな顔をこちらに向けてくる。
「うん。きっぱり諦める」
「……そうなんだ。あんなに頑張ってたのに、なんかもったいないと思うけどなぁ」
「まあ、悔いはないから」
「というかさ、大学に行かなくたって仕事しながら小説を書くこともできるじゃん。諦めるのはまだ早すぎるんじゃない? 今まで頑張ってたのに……やっぱりもったいないよ」
未来が今にも泣きそうな顔で、励ましの声をかけてくれた。
それを見て俺は、心が締め付けられるような、それでいて暖かい気持ちになっていった。妹がこれほど自分のことを思ってくれるというのは嬉しいものだ。
「ありがとう未来。……でも、もういいんだ」
たしかに大学へ行けないとはいえ、仕事をしながら小説を書くことはできる。けれど俺は……、
「もういいんだ。……もう散々なんだよ」
今年の新人賞で一次審査にすら通らなければ、小説家になる夢を諦める。それはずっと前から、自分の中で決めていたことなのだ。
こればかりは俺の気持ちの問題だ。……だから、これでいい。
「きっぱり諦めるよ」
かれこれ八年くらい頑張ってきた。けれど、それでも何一つ結果を残せていないのだ。
「結果がでないんだし、しょうがないさ。きっと俺には才能がないんだよ」
……もう充分だろう。
毎年そうだ。いつも賞で一次選考にすら通らない。落選するたびに、手で階段の下へと突き落とされるような恐怖と絶望が押し寄せてくる。
何の結果も残せず、誰からも認めてもらえない。
作品を否定されると、人間性を否定されたような気分になる。あんな苦しい思いは今日限りで終わりにしたいんだ。
未来にこれ以上心配をさせないため、笑顔を作って「俺はもう吹っ切れたから、大丈夫。おやすみ」と言い、話を無理やり終わらせた。
未来が部屋を出たのを確認し、自室の電気を消して就寝の体制へと入る。
真っ暗な部屋に一人……。
今日は何故か、その暗闇の中に飲み込まれそうな気がして、なんだか少し怖かった。
*
翌日の朝。いつも通り学校へと向かって電車に揺られていた。
朝の通勤ラッシュであるこの時間帯は満員状態だ。奇跡的に今日は座席に座れたが、基本はいつも立っていなくてはならない。それを思えば今日は運がいい。
朝からいいことがあると、その日はなんだかいい一日になりそうな気がする。と思うのは、さすがによく考えすぎだろうか。
学生の朝は早い。普段通り眠気に襲われながら電車に揺られていた。もう眠くてしょうがない。気を緩めると、銀のポールに頭をぶつけてしまいそうだ。
寝過ごさないよう、気を失わないためにあたりを見回す。
車内には俺と同じ高校の生徒が何人かいた。なんとなく何人か顔を見ていると、ふと目の前に座る人物に目が止まる。
「……ん?」
同じ高校のセーラー服を着た女子生徒。黒髪のボブヘアに、中学生にも見える小さな身体。そんな容姿をした女の子だ。
俺はその顔に見覚えがあった。
「……赤根さんだ」
同じクラスの赤根美雨だ……。
普段から物静かな雰囲気のある彼女だけれど、何故だか相変わらず存在感があってすぐにわかった。まさか同じ電車に乗っていたなんて。
今までクラスメイトを行きの車両で見かけたことがなかったから少し驚いた。何だか妙に新鮮な気持ちである。
対する彼女はスマホで何かを見ておられる。
一応クラスメイトだし、何を見ているのか地味に気になってきたぞ。
漠然とそんなことを思っていた矢先でのこと。別に覗くつもりはなかったんだけど、彼女が座る背後の窓が反射して、窓から彼女のスマホ画面が窺えた。
見えたのは漫画だった。どうやら漫画を読んでいたようだ。
そういえば漫画家志望なんだっけ……。だからかな。
なんて他愛ないことを考えていると、気づけば降りる駅に着いていた。
同じく降車する人たちの波に乗りながら、俺も流れるように車両から降りる。それは赤根美雨も同様だった。
クラスメイトだし挨拶くらいしようかな。などと考えたけれど、やっぱりやめておいた。
喋ったこともないし、急にクラスが一緒というだけの男子に話しかけられてキモがられるのも嫌だもの。
そんな卑屈でしょうもないことを考えながら、俺はそのまま改札を抜けて学校へと足を進めた。
*
「よーし。それじゃあ二人ずつ適当にペアになってロングパスをしあってくれ」
運動場の片隅。午後の体育でサッカーをしていた。人数の兼ね合いもあり、男女混合での授業だった。
「田中、一緒にやろうぜ」「ねぇ美咲、私とやろうよ」「いいよ。やろうやろう」
周囲では次々とペアが決まっていく。そんな中で俺は一人、焦りを覚えていた。
悲しきかな、俺はこの授業で親しい人間がいない。唯一の友達である鏑木君や長塚君は別の授業をとっているから。
……つまり体育の授業では、俺は完全なぼっちと化する。
「時間ないから早く決めていけよー」
体育教師の何気ない呼びかけが、俺の心の焦りに拍車をかけた。
あぁ、何でこういう時って先生が勝手にペアを決めてくれないんだろう。そうしたらこんな惨めな思いをしなくて済むというのに……。
少しは余りものになるやつの気持ちも考えてほしいものだ。
こういう場でぼっちを突きつけられれる時の恥辱がどれほどのものかわからないのだろうか。
そんな陰キャ特有のネチネチしたことを考えている間にも、周りではどんどんペアが決まっていく。
あぁ、もう誰でもいい。同じく孤独に呑まれている同士を見つけて、さっさとペアを組んでもらおう。
そう思いながらあたりを見渡してみる。すると……。
「小玉君、ちょっといいかしら?」
背後から唐突に、か細い声が届けられた。女の子の声だ。
「えっ、はい……?」
俺も声につられて振り向く。すると、そこにいたのは見覚えのあるお顔。
「あっ、赤根さん……」
同じクラスの赤根美雨だ。たしか今朝も電車で見かけたっけ。彼女に話しかけられるなんて思いもしなかったから少し驚いた。
あぁ、そうか。そういえばこの人も同じ授業だったか。
というか、俺の名前覚えてくれてたんだ……。
「小玉君、もし組む人いないんなら私と組まない? 私、ペア見つかんなくてさ」
彼女の発言には妙に納得がいった。
ただでさえ周囲から浮いている彼女だ。このような二人組を強制される状況下では、余りものになるのも必然的だろう。
まあ、俺も今まさに余りものなんだけれど。
「うん、いいよ。俺も組む人いなかったから助かるよ」
とりあえずはぼっちになる恥辱、ぼっち辱は免れた。
今まで赤根さんに対して冷たくて怖い印象を抱いていたけれど、今は救いの糸を垂らしてくれた女神のように思える。
「おーし、全員ペアは決まったな。それじゃあロングパス始めー」
体育教師の呼びかけと同時に、皆が各々の場所でボールの蹴り合いをし始めた。
俺と赤根さんもある程度距離をとり、交互に蹴ってボールを送り合う。いわば野球でいうキャッチボールの蹴り合いバージョンといったところだ。
「じゃあ赤根さん、いくよー。えいっ」
俺はボールを蹴って赤根さんに送った。できるだけ取りやすいように優しく。
「ナイスパス。ほいっ」
ボールを足で受け取った赤根さん。今度は彼女がボールを蹴ってこちらに送ってきた。
そんな感じのやりとりをしばらく交互に繰り返す。交わす会話はほとんどない。というか、話す話題がなさすぎる。
にしても、今まで一度も話したことのない人とボールを蹴り合うのってなんだか気まずいなぁ。
うーん……。まあ、せっかくペアになったんだし、少し話してみようかな。
「あの、赤根さんはさ。何か好きなものとかないの?」
俺はボールを赤根さんに蹴り渡して訊いた。他愛もない今思いついた適当な質問だ。
「え、なんで?」
ボールを足で受け止めて、赤根さんは首を傾げた。見た感じ、話しかけられて不快そうな感じはしない。単純に、率直な疑問なのだろう。
「いや、深い意味はないよ。ちょっとした世間話さ」
すると、赤根さんはすっと答えてくれた。
「うーん。まあ、漫画が好きかな」
「へぇそうなんだ」
まあ、それはなんとなく知ってます。
「他にはないの?」
「ないね」
まさかの即答。どんだけ漫画一筋なんだよ……。
赤根さんはこちらにボールを蹴った。そのボールを今度は俺が足で受け止める。
「相当漫画が好きなんだね」
「そうだけど。そもそも私、漫画家目指してるから」
「あっ、そうなの?」
なんてことないように告げる赤根さん。
漫画家を目指していることは一応知っていたけれど、まさかそんなすんなり教えてくれるとは思わなかった。
「たしかにいつも絵を描いてるもんね」
俺はそう言って、またボールを蹴る。
「漫画家志望は描いてなんぼだから」
そう言いながらボールを受け止めた赤根さん。すると満面の笑みを浮かべながら、続けて口を開いた。
「ちなみに私、絵にはかなり自信があるんだ。美術部に所属しているんだけど、部活の中でも私が一番上手いと思う。そこらへんの画家志望よりも上手いんじゃないかなと。まあ、全然自慢じゃないけどね」
いや自慢だろ。
急に昂然と胸を張り出す赤根さん。……なんだろうなぁ。この人、意外と自己主張激しめな人なんだろうか。
大して膨らみのない胸を自信満々に張られてもリアクションに困る。
今まで彼女に対して地味で内向的な印象があったけれど、もしかしたら案外よく喋る人なのかもしれない。
何というか、ちょっとアグレッシブなイメージが出てきたぞ。まあ、一応いい意味で。
「小玉君は好きなものとかないの? 何か目指しているものとか」
と今度は彼女の方から訊ねられた。
好きなものは……もちろんある。小説家を目指していたくらいなのだから、俺は小説が好きだ。
主人公の心情を憐れんだり、時には共感したりして、生きる勇気を湧かせてくれる。そんな小説が好きだ。
「……俺は小説かな。物語を読むのが好きだから」
だからこそ、そんな大好きな小説を自分も書きたくて、小説家を目指していたのだ。
「作中の物語をさ、いつも主人公たちの心情と一緒に辿りながら没入していくんだけど、あの感覚が好きなんだよね。あれほど心が満たされることって他にないと思うんだ」
そこまで話すと、赤根さんは目を大きく見開いた。
「へぇ、いいじゃん。なんか素敵ね!」
彼女はどこか感心したような面持ちになった。容姿の整っていることも手伝ってか、にこりと笑った顔がとても可愛らしい。
「えっ……そ、そうかな……?」
そう言われるとなんだか照れる。
少なくとも見た目は麗しい赤根さんに言われたのだ。心なしか心拍数が上がったのを感じた。
俺だって普通の男子高校生。少しくらいドギマギしたって健全な反応だろう。
「小玉君は小説家を目指していたりしないの?」
「えっ……」
それを言われてギクリとした。もうそれに関しては、昨日で終わりにしたつもりだったのに……。
「いや、一応目指してはいたけど……」
「……ん? 目指していた、というのは?」
「うん。前までは目指していたんだけど、もう諦めたんだ。俺には才能がないってわかったから」
こんなことをクラスメイトに話すのは情けないというか、屈辱この上ない。
特に現在進行形で夢を追い続けている赤根さんにはなおさらだ。
「そうなんだ……」
心なしか、残念そうな顔を浮かべる赤根さん。
たぶん、失望されているのかもしれない。そんな烏滸がましくもネガティブな考えが脳裏を埋め尽くした。
人に同情されると自分が劣っているように感じて、心の奥がきゅっとなる。打ちひしがれて喘ぎたくなるような、惨めな気持ちになってくる。
そんなことを考えていた矢先、赤根さんが意を決したように口を開いた。
「ねぇ、小玉君」
「……何?」
「私、小玉君が書いた小説を読んでみたい。良かったら私に読ませてくれない?」
「え……」
思いもよらぬ申し出に、俺は思わず息を呑んだ。
それだけは、ちょっと勘弁願いたい……。
自分が書いた作品を人様に見せるなんて、そんな恥を晒すような真似ができるわけないだろ。しかも、実際に創作している人になんてなおさらだ。
「いやごめん。それはちょっと無理」
「えー、なんでー?」
赤根さんは頬をぷくーと膨らませて、こちらを睨んできた。小柄な見た目も相まって、膨れたほっぺがリスのように映り、愛嬌を感じた。
「だって恥ずいじゃん」
「超絶シンプルな理由だね」
「それ以外の理由なんてないでしょ」
「えー、でも見てみたーい。小玉君の書いたお話、気になるなー」
足でボールをコロコロと動かしながら、口だけを使って小さく駄々をこねる赤根さん。そういえば、会話に夢中で蹴り合うのを忘れていたな。
「絶対無理。というか、俺の書いた話なんて面白くないよ。今まで一次選考にすら通ったことないんだから」
「関係ないわ。同じく物語を生み出す創作者として、小玉君が書いた作品に興味があるの!」
赤根さんは続ける。
「一次選考に通らないからって恥じることない。頑張って賞に応募しているだけでも偉いじゃん! なんなら私だって小学生の頃から漫画描いてるけど、今だに賞で佳作にすらとどいたことないんだよ?」
頭をかきながら、はははーと笑う赤根さん。
……なんだろう。その笑顔と言葉が、今の俺には少しだけ暖かく感じた。
なんだかまるで、君は一人じゃないよと言ってくれているようで。
「話逸れたけど、小玉君の小説読んでみたい。……ダメ?」
しつこいなぁと思ったが、ここまで自分の作品に興味を持ってくれることに悪い気はしない。
今までいろんな賞に応募して突き放されてきたことも手伝ってか、少しばかり嬉しい気持ちになった。
それもあり、赤根さんの熱意としつこさに根負けした部分もあるけれど、少しくらいなら見せてもいいかなという気持ちが湧いてきた。
どうせ俺は、今まで賞に応募して散々作品を否定され続けてきた身分なのだ。いまさら人に作品を見せてどう思われようと、落ち込むことなんてない。
失うものなんて、何もないのだ。
「……じゃあ、最近応募して落選したやつを見せるよ。……それでいい?」
俺がそう言うと、赤根さんはパァッと笑顔になって目を輝かせた。
「えっ、いいの? やった、ありがとう!」
「あとでデータ送るよ。あっ、連絡先だけ教えてくれない?」
「オッケー。じゃあ授業終わったらすぐ教えるね!」
意外と声がでかい……。おかげで近くにいた他の人たちから、何事かと言わんばかりの視線を感じた。
……なんか恥ずい。




