31話
しばらくそうしていると、彼女はやがてぽろりと言葉をこぼした。
「……私のお母さんね、私が小学生の頃に事故で亡くなったんだ」
「……え」
唐突な告発に、俺は動揺した。赤根のお母さんが事故で亡くなった話は、いつぞやの温泉にて鏑木君から耳にしたことがある。
けれどまさか、赤根の口からそれを告げられるとは思ってもみなかった。
「でもね……私のせいなんだ。お母さんが死んじゃったの」
「……どういうこと?」
私のせい……。それはどういう意味なんだ? 赤根のお母さんは、事故でなくったんじゃないのか?
陰鬱な雰囲気を纏った赤根の後ろ姿。その小さな背中は、俺には想像できないほどの暗い闇を抱えているように見えた。
やがて赤根は、暗い闇の中にそろりと自分を落とし込むように告げる。
「小学生の頃……お母さんが間違って私のアイスを食べちゃったの。それで私、ちょっと意地張っちゃってさ。駄々をこねて、無理やりお母さんにアイスを買いに行かせたの。そしたらお母さん、その後事故に遭って……」
「…………」
声を上擦らせる赤根。涙で濡れたその顔を、彼女は袖で雑に拭った。背中越しでも、涙で歪んだ彼女の顔がわかるようだった。
赤根の話を聞いて、俺は脳に流し込まれるように、ある事実を理解させられた。
俺は本当に……赤根のことを何も知らなかったのだと。
いつもまっすぐに突き進んでいた赤根は、心の中でそんな重く悲しい過去を抱えていたのだ。
目の前の赤根の後ろ姿が、小さな少女と重なって映る。
それと同時に理解できた。赤根はそんな悲しみを背負いながらも、自分の夢に向かって前へ進もうとしているのだと。
そんな勇敢な彼女と比べて、自分はどうだ? 他人に自分の作品を否定されただけで、脆く崩れ落ちた。
夢を追うことを恐れて、夢の道を自ら絶とうとした。我ながら自分の器の小ささに情けなさを覚える。
「……だからね、私は夢を諦めない。亡くなったお母さんのためにも、私は絶対に漫画家になるの。私は死ぬまで絶対に諦めない。……だから——」
赤根はこちらを振り向き、海の水をかき分けながら早足で近づいてくる。そして、俺の頬を両手で強く押し当てた。
「だから! いつまでもウジウジしてないで、そろそろ小玉君も前を向いて! おやすみタイムはもう終わり! 立ち止まることが悪いことだとは言わないわ。でも、それをいつまでも引きずってちゃダメなんだよ!」
「……赤根」
「私ね? 小玉君と出会うちょっと前、ずっと賞に落ち続けて自信がなくなってたの。でも、小玉君も自分の夢に自信を持てないのを聞いて、私は勇気をもらえた。こんな近くに、私と同じで抗っている人がいるんだって思えた。そう思うと、なんだか心強かったんだ」
赤根は涙を溢れさせながら、言葉を紡いでいった。
「あなたと出会って、あなたと一緒に漫画を描いた日々があまりにも楽しくて。だから、そんなあなたのおかげで、夢を諦めずに立ち向かおうって思えた」
赤根は声を絞り出すようにそう告げた。安心したような、泣き笑いのような笑顔で。
……そして、そんな彼女の暖かな顔とまっすぐな言葉は、俺の凍てついた心を響かせ、溶かしていくようだった。
気づけば俺の視界に映る赤根の顔が、俺の涙で歪んでいった。
「……俺も、俺もだよ赤根。俺も赤根と出会って勇気をもらえた。俺と同じで夢を追いかけている人がいるんだって、君はそんな当たり前のことを俺に気づかせてくれたんだ」
それは嘘偽りない本音と事実だ。小説を書いて賞に落ちるたび、中学の担任に言われた言葉が頭をよぎった。
『正直笑っちゃうかなぁ。これじゃあ全然ダメだよ。小学生の作文みたいだもの』
その時のトラウマがフラッシュバックするたびに、俺は胸の奥が潰されそうになった。
自分に対して、自信を失っていった。
俺なんかが小説家になれるのか? そんな疑問が毎回頭にあった。
誰も信じてない夢を信じるのが怖い。自分を信じて突っ走っても、上手くいかなかった。
自分しか信じてない夢を追い続けるのが、怖かったのだ。
……でも、そうだとしても——。
「ふふっ。やっぱり私たち、お互いに助け合ってたんだね」
「……そうだね」
俺も赤根みたいに、強い自分でいたい。
「……ねぇ、小玉君」
赤根はそっと俺に近づいて、目を見てゆっくりと告げる。
「人はいつ死ぬかわからない。わかりきってることだけど、やっぱり人生は一度っきりなの。だから、自分のやりたいことや今できることを精一杯目指すべきなんだよ」
母親を事故で亡くしてしまった赤根。そんな彼女だからこそ、言える言葉なのだろう。
でも、赤根が言ったことは本当にその通りだと思う。だからこそ、やっぱり俺は——。
「……やっぱり俺、小説家になりたい。自分の好きを、めげずに追い続けたい! 最後まで、夢を投げ出したくない! ……だからっ!」
暖かな夕陽と足に伝わる海の冷たさ。
これらがまるで、取り戻せた兆しや希望。そして、まだほんの少し残った不安を肌で感じさせられているようだった。
「俺やっぱり、これからまた小説を書き続けるよ。書いて書いて書きまくって、そしていつか小説家になってみせる」
俺は声を張り上げて、赤根の前で宣言してみせた。すると赤根は、涙を堪えながらもにこりと笑い、
「私も、これからも漫画を描き続けるわ! 描いて描いて描きまくって、そしたらいつかきっと、いや、絶対にいつか漫画になってやる!」
夕陽に照らされた海の中、俺たちはお互い向かいあいながら、高鳴る気持ちを堪えきれずに笑い合った。
しばらくして、赤根はある提案を持ちかける。
「ねぇ小玉君。もし将来お互いに夢を叶えられたらさ、今度はプロとして、また二人で合作しようね!」
赤根はそんな未来しか見えていないかのような満面の笑顔で、グッとサインを向けた。
「それってつまり、俺の書いた小説を赤根がコミカライズしてくれるってこと?」
「それもありだけど、原作を小玉君が作って、作画を私が描いた新しい漫画作品を作るのもありじゃない? ほら、最近は小説の人が脚本書いた漫画もあるし!」
「ははっ、たしかにそれも面白そうだね」
赤根のおかげで、俺は物語の素晴らしさと、作る楽しさを思い出せた。
赤根との楽しかった合作の日々を思い出し、また一緒に作ってみたいと思った。だから、
「いつか、必ずまた合作しよう! いつかお互いプロになるその時まで、俺はめげずに走り続けるよ」
「うん。絶対だよ?」
まだ見ぬ未来、これからどんなことが起きるかわからない。けれど俺たちは、自分の夢を信じて、未来への約束を交わした。
……すると、
「……小玉君、ちなみに一つ聞きたいんだけどさ。……私のことはどう思ってるの?」
「え……? どうって……、赤根は俺の相棒で、初めてできた友達だと思ってるよ。まあ、漫画家としてはもう解散しちゃってるから、相棒というのは違うのかもしれないけど。でも、大切なパートナーみたいに思ってる」
「友達……パートナーかぁ」
何やら歯切れの悪そうな顔を浮かべる赤根。
彼女はそのまま歩み寄ってきた。俺と目と鼻の先というところまで顔を近づかせて……と思いきや——。
「……いや、やっぱり今はやめておこうかな」
「はあ? なんだよ、何しようとしたの?」
「ははっ、秘密だよ。将来、いつかプロになったら教えてあげる」
赤根はイタズラっぽく笑い、俺から華麗なバックステップを取りながら離れた。
なぜだろう、なんだか少しだけドギマギした気持ちになった。
けれど、そんな気持ちを隠すように、広大な海を照らす遠くの夕陽に目を向けた。
……ここからが、自分の夢に向けた再スタートだ。




